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第2話 小田原にて尼僧に出逢う
「鈴音(すずね)」
青年は、開け放たれ列車の窓の外を眺めながら、囁くような声で話しかけた。
「もうすぐ小田原だ。東京まではまだ少しある。疲れてはいないかい」
青年の長く収まりのつかない髪の毛が風にたなびく。青年の手には『電子計算機の理論設計』というタイトルの分厚い本が半分ほど読み進められていた。
青年は、名を剛(ごう)という。静岡県藤枝市内の豪商、羽佐間家の三男で、県内の大学を卒業後、家業の手伝いをしていたが、ついに家を出て、東京に住むことを決心した。
「やはり東京は遠いいなぁ。鈴音と本のおかげで、退屈しないですんだけどね」
バスとローカル線を乗り継ぎ、東海道線に乗車したのは11時を回っていた。向い合せの4人掛けのシートに青年の他に3人の乗客が乗っている。青年の正面の二人はどうやら若い夫婦のようで、網棚に旅行鞄が二つ載せてある。時折小声で楽しそうに話をしている。青年の隣には、和装の老人が座っているが、両腕を組んだまま微動だにしない。膝の上に風呂敷に包まれた小さな荷物が置かれている。
「雀って人になつくことあるんですね」
銀縁の眼鏡の位置を直しながら、夫と思しき若い男が羽佐間剛に話しかけてきた。どうやら妻のほうが興味を持ったらしく、夫にせがんで話しかけてきたようだった。
「名を鈴音とつけました。スズメだけに」
羽佐間剛はおどけて見せたが若い夫婦には笑っていいのかどうか判断がつかず、「はぁ」という一言で片づけられたのは、羽佐間剛のユーモアのセンスが少しばかりずれていのだとうことに、本人は気づいていない。
チュン、チュン
こげ茶色の羽織の袖から、スズメが一羽顔を出す。
「剛さん、変な紹介の仕方をしないでよね」
羽佐間剛は頭をかいてごまかした。彼には特殊な能力がある。
「鈴のように美しい音色で鳴くから鈴音といいます。もちろんメスです」
剛は読んでいた本を閉じて誠実に答えた。
「いい名前ですねぇ。小さい時から飼ってらっしゃるんですか?」
チュン、チュン
「飼われたとか、そんなんじゃないし」
鈴音は抗議したが若い夫婦にはただの鳴き声にしか聞こえない。
「飼っているというか、勝手についてきたというか、押しかけ女房みたいなものです」
チュン、チュン
「だからもう、変なこと言わないでよね!」
鈴音は羽をばたつかせて猛抗議をした。
「まぁ、そんなことがあるんですね。よほど動物に好かれる方なんですね」
若い妻は鈴音に顔を近づけてきたが、鈴音は袖の奥に隠れてしまった。
「よく性別がわかりましたね。どうやって見分けるんだろうね」
若い夫は妻に話しかけるようにして、剛に質問をした。
「一番簡単なのは、あれの時をみるのが手っ取り早いんですが……」
「あれとおっしゃいますと……」
「交尾の時、上に乗るのがオスです」
「まぁ」
若い夫婦は思わず顔を赤らめた。
「あっ、痛い」
剛の腕を鈴音が突っついた。
「鳥の場合は犬や猫のように生殖器で見分けをつけることはできません。クジャクや鶏のように見た目で雄雌の違いが判る種類もいますが、そうでない鳥の場合は求愛のポーズとか、鳴き声でしか判別するしかないそうです」
うっかりすれば軽蔑されてしまいそうな言葉を使っても剛の物腰の柔らかさは相手を不快にさせることはない。顔を赤らめていた若い夫婦も真剣に剛の言葉に耳を傾けた。
「まぁ、人も最近は見た目ではわからなくなってきているかもしれませんね。美しき男性、たくましい女性というのも、東京ではめずらしくないのでしょう?」
若い夫婦は浜松から小田原にある妻の実家に向かっているところだと話してくれた。東京はまだ行ったことがないのだという。
「自分は静岡の実家を出て、東京に住む友人のアパートにしばらく世話になるつもりです。うまくすれば、何か仕事を世話してくれるというので」
それから他愛もない会話を交わしているうちに小田原に到着するとアナウンスが流れ、若い夫婦は網棚から荷物を降ろし身支度を始めた。
「では、道中、お気をつけて」
「いいお仕事が見つかればいいですね」
それまで身動きひとつしなかった隣の老人も静かに立ち上がり小田原の駅で降りた。
入れ替わりに剛の向かいの席に小田原から乗り込んできた袈裟を身にまとった僧侶が座った。
僧侶は被っていた網代笠を取る。それを見た剛は一瞬はっとした。
袈裟の襟元からすっと伸びた白い首。
すっと尖ったあご、口元は薄いピンク色でやや厚め艶のある唇。
鼻はすっとしていて印象に残らない。
あごのラインからまるで美しい造形物のような耳。
そして大きな目。
その瞳は黒く輝き、じっと見つめていると吸い込まれそうになる。
まつげも眉毛も薄く小さめの額。
そしてきれいに手入れをされた茹でた卵のような頭部。
若い、おそらく20代の後半までも行っていないのではないだろうかという美しい尼僧。
息を飲むとはよく言った物で、剛はその美しさに魅了され、しばし背徳感にさいなまれながらも視線を外すことはできなかった。
チュン、チュン
「ちょっと、剛、剛ったら!」
鈴音はこれ見よがしに抗議をしいたものの、まるで相手にされなかった。
「随分と可愛らしいお友達をお連れでいらっしゃいますね」
美しき尼僧の声は、落ち着きと慈悲と慈愛に満ちていながらも、背筋を這うような妖艶さがその旋律に含まれている。
「はい、遠出をするのは何分初めてなので、ひとりではどうも……生き物を列車に乗せるのは良くありませんよね」
剛は鈴音を羽織の奥に押しやろうとしたが、尼僧がそれを引き留めた。
「どうぞお友達の好きなようにさせてやってくださいまし」
尼僧の所作は無駄がなく、表情は柔らかく、距離を感じさせない親密さと凛とした佇まいが神々しくもあり、また艶やかでもある。
剛はこの世の中には書籍では知りえない美しさや魅力という物があるのだなと、関心はするものの尼僧の放つ色香にはどこか無頓着であったのは、剛自身、まだ女性を知らないのだということを鈴音は見抜いていたが、それを言うのは野暮という物だということも知っていた。
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