第3話 羽佐間剛、東京に着く

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第3話 羽佐間剛、東京に着く

 剛は再び『電子論』を開き、読みふけた。  尼僧は手荷物の風呂敷を解き、その中から古い仏門の書を取り出し読み始める。  二人の間に静かな時が流れ、鈴音はその様子をしばしおとなしく眺めていたが、二人の呼吸が調和していく様をどこか恨めしく思い、邪魔をしたくなった。  鈴音はいたずら心に、剛の袖からこっそり抜け出し、尼僧の膝へと飛び移った。  鈴音は尼僧なり、剛なりが何かリアクションを起こしてくれるものだと期待をして二人の顔を交互に眺めた。  尼僧は書から目を離して、鈴音にやさしく微笑みかけた。  剛もまた、鈴音にやさしい視線を送り、慌てることなく鈴音を含めた全体を引いたアングルで眺めているような自然なふるまいが鈴音には面白くなかった。 「失礼ですが、あなたはとても面白い方だ。人というものはかくも穏やかでいられるものなのでしょうか」  剛は楽しそうに尼僧に話しかけた。 「そうお感じになるのは、貴方様の心が何よりも穏やかであるからでございましょう。そういう方でなければこのような素敵なお友達はなかなかに得られないでしょう」 「そういうものなのでしょうか」 「はい、私はそう思います。神や仏がどう思おうと」  剛は俄然、尼僧に興味を持ち出した。 「ほう、これは面白い。神も仏もないとおっしゃられる」 「そういうものは、信じる、信じないの世界でございます。在りようではございません」 「見た物、感じた物を素直に受け入れてこそ、真の在りようを見極めることができる。これは一つの哲学ですな。古くはないが、新しくもない」  尼僧もまた、剛に特別な関心を持ったのか、膝の上の鈴音にゆっくりと指を近づけた。  細く、白く、しなやかで美しい指先は、魔法の杖のように鈴音に向けて小さく何かの文字のような形をなぞる動きをした。 「ただ仲が良いというわけではないようでございますね。心配には及びません。あなたの大事なお友達をどうにかしようなどということはありません。必要とあれば、神にでも仏にでも誓いましょう」 「いえ、僕は神や仏よりもあなたの言葉を信じましょう。鈴音、こっちへ」  鈴音は尼僧が只者ではないと知り、素直に剛に従った。 「もうお気づきかもしれませんが、私はこの鈴音と会話をすることができます。なぜそうなのかはわかりませんが、私はできるだけ人には知られないほうがいい能力だと考えています。住職はいかに考えられますか?」 「人は何かと好奇な目で、物事を見ようと致します。貴方様の考えは肝要かと存じます」  剛は不思議に思っていた。  村に住んでいるときには、このように穏やかに人と話すような機会はほとんど得られなかった。それは古くからある寺の和尚であっても、神社の神主であってもである。 「ただ、貴方様に置かれましては、恐らくこの先、その力を用いて為さねばならぬ何事かがあるようにお見受けします。面妖なものに行き当たり、難儀をすることもあるかもしれません」  尼僧の視線は剛そのものではなく、剛の背後に、或いは頭の上にある何かを読み取っているように見えた。 「ほう、そのようなことが、すっとわかってしまうものなのですね。これはまた奇奇怪怪、失礼ながら、そして我が身に起きることながらに、興味津々というのが、どうにも私は度し難い性分なようで」  剛は笑って見せ、尼僧は小さく数度頷き、やや真剣な趣で剛に語りかけた。 「これも何かの縁で御座いましょう。私はこれから、やんごとなき方の元に赴き、まじないごとを頼まれているのですが、どうにも気がのらずにいたところでございます。しかしこのような出会いは吉報でありましょう。また同時に凶事に備えよという印(しるし)でもございましょう。私は身なりこそ、住職と呼ばれるようないで立ちをしていますが、そういう者とはまた一線を画する存在にございます」 「ほう、それはまた面妖な……。つまり祓いごとを生業となさっておられるのですか?」  剛は身を乗り出して尼僧に問う。 「そしてこれもまた、他人にやすやすと知られないほうがいい能力というお話でございます。ゆえに本日ここで名乗ることは致しませんが、そう、もし風のうわさにでも猫目尼僧という名が聞こえてきましたら、それは私のことでございます」  チュン、チュン 「猫は嫌い」  鈴音は一層の警戒をする。 「私は名乗るほどの者ではございませんが、他に説明のしようもないので羽佐間剛と申します。どうにも名前負けをしていて恐縮ですが、特に職も身に付けずに、田舎で書生をしておりましたが、思うところあって、東京の知り合いのところに厄介になって、適当な仕事を見つけて見聞を広げようという、それだけの男です。このように本を読むのは好きで知識はあっても、役に立てる術を知りませんので、力なきものは、頭を使うなりして、どうにか一人で食っていけるようにならないと、そんなところでございます」 「東京はどちらまで?」 「神田神保町まで」  尼僧は小さくうなずき、そして微笑んだ。  車内アナウンスが東京駅に着くことを知らせる。 「きっと近いうちにまたお目にかかることになりましょう。その時には剛様がお読みになっている『電子計算機の理論設計』のお話を是非聴かせて下さいまし」  猫目尼僧は、網代笠を手に持ち、ゆっくりと席を立つ。  剛も網棚から風呂敷と大きな革製の鞄を取り出し、東京駅に降り立ったが、すぐに尼僧の姿を見失ってしまったが、それよりもなによりも人の多さに圧倒され、しばし立ち尽くすも、人の流れに押しやられて、周りをきょろきょろと見渡すのが精いっぱいであった。  チュン、チュン 「剛、しっかりして!」  羽佐間剛は、こうして東京にやってきた。  1931年の春のことである。  
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