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「今日はここまで。毎日暑いから体調崩さないように。もう遅いから気をつけて帰りなさいよ」 「はーい」  講師の言葉に口々に応えながら、椅子を引くガタガタという音が教室に響く。  佳純は、中学生になるとすぐ高校受験に向けて塾に通い始めた。  部活動や習い事と両立できるように、と開始は十九時半に設定されている。講義は約二時間で、家まで三十分掛かる佳純が帰宅するのは二十二時を過ぎることになってしまう。  しかし家の近くには希望に合うところがなかった。  どうせ電車通塾になるのなら、と少し遠いが条件の合う今の塾に決めたのだ。  中学に入学して初めて迎える夏季講習。  週に英語と数学の二日のみだったのが、講習では平均してそれぞれ週数回の予定が組まれていた。    塾は大きな駅のすぐ目の前で、遅い時間でも人通りが絶えることはない。  電車の中も、今まで休みの日に遊びに行くために乗ったときよりも、むしろ静かで落ち着いていると感じるくらいだ。  そもそも乗車時間は十数分なのだが。  ただ自宅は郊外の住宅街なので、駅で共に降りる人は意外に多いものの駅前通りを進んで曲がり角を経るごとに櫛の歯が欠けるように減って行く。  駅からそう遠くはないのに、自宅へ向かう角を曲がった先には同じ電車の乗客はもう誰もいないのが常だった。  佳純自身は子どもだったこともあり、まったく気にしたこともない。  しかし母は、娘が遅い時間に一人歩きする羽目になることを大袈裟なくらいに心配していた。  そのため、博己が毎回駅まで迎えに来てくれていたのだ。  母自身が担う予定でいたのを知った彼が、「お母さんだって女の人だろ、危ないって!」と説き伏せたそうだ。  彼は父の姉の息子でだった。  小学校二年生の時に、一人で博己を生んで育てていた伯母が亡くなったことで佳純の家に引き取られた。  両親とは養子縁組しているため、血縁としては従兄だが続柄も兄で、文字通り『兄妹』として育てられている。
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