人類の剥き身

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 明確な警告はなかった。  御理解・御協力などの厚かましい【御願い】と、誰にとっての正しさなのか不明な【正しさ】を求められて、人々は従ったのだ。  絶対的な権力者達に、国の上層でふんぞり返り、的確でないかもしれない、その是非すら曖昧なまま指示をする者達の言葉に。  もしくは、身近な勢力から圧をかけられて有無も言わせず、無教養で強引なだけの者達に従わされたのだ。  いつの時代に、どのような派閥に所属していたとしても、大抵は、こうなってしまうだろう。  変わらないのだ。  人が人である限り。  寄り集まって人としての群れを形成し、その集合体へ個人の自己判断すらも預けてしまっている以上、逃れる術はない。  日本でも、外国でも、過去でも、そうだ。例外は極一部。そうした者達は異端者と呼ばれ蔑まれ、時に迫害を受ける。自らの意思を表明しただけなのに、排他的な扱いを受ける。  歴史を振り返ってみても同様のさま。  非道と矛盾。  愚かな服従と自己犠牲のもと。  しかし、人間は学ばない。  きっと、この先も、未来でも、大きく変わることはないのだろう。  それでも、これほどの地獄の後で【未来】がやってきてくれるのなら。  まだ救いはある、と言えるかもしれない……。  名目は、麻疹の予防接種だった。  ただし、従来の麻疹対策薬品ではなく、成分と作用が異なる、と聞かされた。  理由は、去年報じられた、麻疹の原因菌が変異を起こしている、という衝撃の情報に起因する。  私は液晶タブレットの画面へスタイラス・ペンを走らせながら、スマートフォンで再生中の医療系解説動画に意識の半分を向けていた。  近年は本当に便利な時代である。昔は、テレビやラジオで報じられる情報が家庭で専門的な話を聞く主な方法であったらしい。固定化された、ごく僅かな発信先からしか情報を得られず、それが正しいかどうかを精査するためには、自分自身がその専門的な分野について勉強し、判別できるだけの知識を蓄えるか、自分の周りに運良く該当専門知識を有する人間、専門職に就いている人間が居てくれて、その者が懇切丁寧に解説してくれるかどうか、という非常に限定的で運任せな選択肢しかなかったという。もっとも、これらも話に聞いただけで、実情の信憑性は慎重に確かめてみないと断言はできない。私の年齢・世代的に、上記のような悪習、不便を被った経験がないため、体感的な理解は不可能。歴史的情報として聞き及び、想像を膨らませるのが精々。インターネットが未発達の時代、という前提は、お年寄りが語る、戦争の悲惨さ、戦争に起因する貧困等と同じくらい現実感のないものなのだ。  分割したまま器用に機能している、私のもう半分の意識のおかげで仕上がった、私個人へ依頼された電子イラストをざっと眺めて、その出来に満足。我ながら上手く描けた。  ファイルを保存し、クライアントへメッセージ文言を添えて、完成したばかりの絵を送信。  これで、今日の分の仕事は終わり。  依頼してきたのは向こうのくせに、クライアント側となかなか連絡がつかない。まあ、こんなのは創作業界ではままあること。社会の常に縛られたくない人間ほど創作を自らの職として定め、就くために死に物狂いで努力を重ねて、その結果、世間離れした生き方に染まっていくのだ。常識との乖離は必然、もはや職業病と称しても違いないといえるだろう。  寝起きから五時間、私はずっと自室に居た。  自分らしい生活リズムを守りつつ、自分の望んだ仕事ができる。  好きなV系の音楽を聴いたり、現状のように美術とは無関係な解説動画を動画サイトで見つけ、それを再生しながら流し見聞きで、自らの割り振った御仕事タスクを片づける、という無茶がまかり通る。なんて素敵な時代だろう。無駄な出勤退勤にまつわる移動も、形ばかりの挨拶や、嫌いな人への御機嫌取りとも無縁。先輩や上司からセクハラを受けることもないし、通勤中に身体を触られるなどの痴漢にも遭いようがない。  対面しての打ち合わせも不要で。  全てを電子世界で完結できる。  これ以上を望むべくもない。  完成されているのだから。  高校時代からの友人や、実妹からは、もう少し外へ出た方が良い、仕事やプライベートは引きこもったままのサイクルで問題なく回るかもしれないけれど、私の身体はそう感じていないかもしれないと、人間本来のリズムというものがあるはずだからと、陽を浴びつつ、あえて多少なりともストレスを感じた方が、生きているという実感を得られるはずだからと、根拠不明の理屈を聞かされる。  私自身、ストレスなど微塵も感じず、快適に室内人生を謳歌しているのだから別に良いのではないか、無理に外出する方が、嫌いな人と関わって神経をすり減らし、トラウマになってしまうような経験を積んでしまうよりも、断然、精神衛生的に良いと思うのだけど、でも、小言のような心配の言葉をくれるのは、私を心配してのことだ。その点は理解しているし、ありがたいと感謝もしている。  だから、たまには従ってみようかな、と発想したのだ。気まぐれともいう。  根拠はどうあれ、思い立ったら行動に移す。私は決めたらすぐ動き出す女。  三日ぶりのシャワーを浴びて、化粧をして、髪を乾かして、お気に入りの服を着る。  飲みかけだったブラックコーヒーを片づけてから、十日ぶりに玄関から外へ出た。  マンションの階段を降りて、集合ポストの自分の部屋番号の箱を覗く。案の定、紙の束が詰まっていた。しばらく放置していたから、これは予想できていた。  紙の束を掴み出して振り分ける。光熱費の請求書、これは要るもの。滞納はしていない。今月分が来ているだけ。ウォータサーバの契約書と押し売り広告文書がセット。食品系のチラシもある。宣伝ビラが溜まるのは私のせいではない。デジタル全盛の時世に紙資源の無駄遣いをする業者が悪い。  ふと、手が止まる。  見慣れない封筒があったから。  白い封筒に赤文字で書かれた、仰々しい代物。書かれている文を要約すると、予防注射に関するお知らせ、実施場所、管轄範囲の病院を記載しているから至急開封して内容に目を通せ、とのこと。  予防注射? 病院? 私宛に? どうして?  当然の疑問が、頭の中で渦を巻く。  病気らしい病気なんて、高校卒業以来、一度だってしたことがない。私の年齢的にも、人間ドック? でいいんだっけ……とにかく、国から推奨される精密検査を受けた方がいいと言われるような歳ではない。それなのに注射をしなさいと勧められるのは何故? 流行り病の対策? 現代で?  そこまで考えて、ああ、そういえば、と気づく。  つい先程、動画サイトの解説系動画で聞いたばかりではないか。  麻疹の新型、と呼べば適当だろうか。それが流行の兆しをみせており、医療機関と国が連携して、対応したワクチンの早急な全国配備はなされている、と。  おそらくこれが、その注射、つまり予防接種に関する案内書類であり、接種を受けるための手続証であるのだろう。私が引きこもっているばかりなせいで、受け取るのが遅れに遅れてしまったわけだ。  その場で封書を開けて中身を確認。  やはりそうだった。思いついた通り。  手続証も同封されていた。これと財布に入れっぱなしの保険証を持って病院へ行けば、無料で注射をしてもらえるらしい。  どうしようかと、しばし逡巡。  今日は(記憶が正しければ)平日で、時間もまだ早い。どの病院も開いているだろう。書類に記載されているうちの一つ、その対応病院はここから近い。徒歩五分で着く。私の装いも不適格ではない。そこまで派手な服は着ていないし、化粧だって(いつもと比較して)マイルド。お風呂にだって入ったばかり。今日の私は本当に珍しく、清潔で清楚な女。最長十日間シャワーを浴びなかったことだってある。それに比べれば、今の私がこのまま、ふらりと注射一つ打ってもらいに病院へ立ち寄っても、何ら問題はないだろう。  外へ出てきた用事も、具体的なものではない。街へ出て、服を眺めようか、メイク道具を買い足そうか、気分的に丼物が食べたいので、テイクアウトにしてもらって帰ってから食べようかと、やや具体的で、別に今日でなくてもいいような、漠然としたプランを頭の中に描いていたに過ぎない。  そこへ予防注射一件が割り込んだとしても、大きな影響はない。変更は軽微。買う気もない服の流し見を取りやめれば、時間的な無理は生じない。  一度上手くプランが組み上がったなら、実行あるのみ。  そうしよう、と決めて、私はまず、近所の病院へと足を向け歩き出した。  違和感は、この辺りから生じ始めた。  病院へ近づくごとに、私が進む歩道の横を多くの救急車が通り過ぎ、消防車とパトカーまで通り過ぎた。物騒なことこの上ない。この先で大きな事故でもあったのだろうか? まさか病院内でテロリストでも暴れているのでは、と非現実的な想像もした。  しかし、到着した病院では、想像した以上の大騒ぎが起きていた。  病院の正面玄関へ向けて扇状に、救急車、パトカー、消防車が停まっており、その僅かな間隔の隙間から、おそらく血液と思しき赤黒い液体が大量に流れ出てきているのである。  半分予想が当たってしまい、半分予想以上の大事が起きている事に私は面食らい、病院から五メートルほど離れた場所で硬直してしまう。  病院の建物内からは、怒声と悲鳴が聞こえてくる。  遅れて、珍しいな、と感じたことが一つ。  こうした珍事の際に必ずと言ってよいほど集まってくるはずの野次馬が、まったくいない。  その事実が、漂う異様な雰囲気が、耳に届いてしまう人間が取り乱した際の声が、私の精神に、脳に、そして本能に、警告をもたらす。  これは、逃げた方が良いのではないか?  どうして【逃げる】という表現を思いついたのか?  どうして、立ち去る、通り過ぎる、などの一般文言では不足だと感じたのか?  その答えは、すぐに私の目の前に現れた。  一人の女性が病院の正面玄関から飛び出し、私の足元へ、つんのめるように倒れた。  突然の展開に私は驚き、声も出せず、身動きもできず、足元の女性を見つめる。  この女性を追いかけてきたかのように、警察らしき服装の男性が病院の正面玄関から走り出て来る。  その男性は、倒れ込んでいる女性ではなく、私の顔を見て、逃げろ! 早く離れて! と叫んだ。  逃げろ? 離れろ? どうして? 何から?  状況の異常さと不可解な指示に、私の頭は完全に機能停止してしまい、自分が取るべき行動が分からなくなる。  そんな中。  倒れ込んでいた女性が、耳をつんざくような悲鳴を上げた。  警官とおぼしき男性が、私にタックルするような勢いと掴み方で、叫び声を上げる女性から強引に距離を取らせた。  パキッ。  高い音。  辺りに響いていた女性の悲鳴が、地を這うような低い叫び声に変わる。  男性が私を引きずるようにして更に距離を取らせる。  すぐ近くにあったコンクリート造の建物の陰へと、私と男性は身を隠す。 「どういうことなんですか? 逃げろって、なに? 何が起きているんですか? あの女の人は、どうして苦しそうなの? 私にできることは……」 「ダメなんだ。症状が出始めた時点で、できることなんて何もない。近寄って血液を浴びたら、君も感染する」  私の呈した疑問を遮り、男性は首を左右に振りながら強い口調で言った。 「感染? 何に? 私、麻疹の予防注射を受けに来ただけです。それなのに、どうして、こんなことに巻き込まれなきゃいけないの?」 「その予防接種が、おそらくの原因でもある」 「原因? さっきから、何を……」  ゴボッ、っと。  叫び声に、水音が混ざった。  気道に血が混ざったからだ、と私は気づく。 「勇気があるなら、ここから、見ていてごらん。それで、だいたい分かる」  壁を挟んで向こう側。悲鳴を上げていた女性の方を男性が指差す。  私はそっと壁から顔半分だけを覗かせて、女性の状態を見る。  彼女は膝立ちのような姿勢で、口から血の泡を零している。  もう声は上げていない。出せないのかもしれない。  女性が前のめりに蹲り、次いで……。  パキッ、という高音。  先程も聞こえたもの。  女性の背中が急速に盛り上がる。  パンッ、という音。  皮膚が裂けた炸裂音。  彼女の割れた背中から、血に染まった何かが出てくる。  赤いのかと思ったけど、それは血の色で、本体の原色はおそらく白。外見はフナムシに似ている。やや太めの胴体に、細くて沢山の触手のような手足。背中から出てきたそれは……。 「えっ……あれって、まさか……」 「何に見えた?」  私の隣で、男性が聞いた。  彼へと目を向ける。  警官と思しき男性は、放心したような、諦めたような、疲れているような、脱力を感じさせる表情で、視線を空へと向けたまま、私に問いかけていた。 「初めは、虫に見えました。フナムシを連想したんです」  私は馬鹿正直に答える。どんな内容でもいいから、誰かと会話することで、正気を保ちたかったのかもしれない。 「でも、その後、思いついたことがあって……馬鹿馬鹿しいと思われるでしょうけど……」 「人間の背骨じゃないか、って思ったんだろう?」  男性はそう聞いてきた。  私は二度、頷いて肯定した。 「刑事さんも、そう思ったんですね?」 「そう。背中を割って出てきたし、何より人間の中から、あんな大きなものが飛び出してきたんだ。元々身体の中に入っていたものじゃなきゃ、物理的に格納できないだろう?」 「言われてみれば、確かに、そうですね」  私はまた頷く。そこまでは考えていなかった。今も、まともにものを考えられていない自覚がある。 「あと、俺は刑事じゃない。交番勤務のお巡りだ。偉くもないし、賢くもない」 「ごめんなさい、私……」 「何もできなかった。何も特技が無いから、目の前で人の背中が裂けて、膨張して、破裂して、何人も死んでいくのを、ただ眺めていることしかできなかった。挙句、こうやって逃げ回って、救うべき相手である市民を恐がるなんて、情けない。警察がなんてザマだ」  空へ向かって、彼は呟く。  ああ、そうか。  事態の急変についていけていないのは、私だけではない。  当たり前だ。当たり前ではないことが連続して起きているのだから。 「お巡りさん、聞いてもいいですか?」  私は、彼に話しかける。 「いいよ、なに?」  彼は空へ視線を向けたまま応える。 「さっき私に、感染するから、あの女性に近づくな、とおっしゃいましたよね? あれは、どういう意味だったのですか?」 「ああ、それはね……」  男性がようやく視線を私へ向けながら言葉を続ける。 「大量の通報が交番に入ったんだ。予防接種をした直後、もしくは予防接種を受けた人間が体調不良に陥っている。背中が裂けて死んでしまった。家族の身体の中から、大きな白い虫のようなものが出て来た。その後、他の家族にも同じ症状が出ている。助けてくれ。何とかしてくれ、ってね」 「だから、飛散する血液も危険だと判断したのですね? 伝染病の類であるなら、血液との接触感染は危険ですし……あっ、もしかして、お巡りさんが、そこの病院から出てきたのも?」 「そういうこと」彼は頷く。 「この病院からも通報が入った。警察も消防も救急隊員もフル稼働さ。それでも足りない。どんどん人が死んでいる。予防接種を受けたと思しき者達が、その場で、もしくは多少の時間差を経てから、あれが飛び出して、死んでいくんだ。誰かが死ぬと、その側で血しぶきを浴びた者達が苦しみもだえ始める。その連続。そこの病院の中だって酷いものだよ。まるで地獄だ」 「そうだったんですね。知らなかった……私、もう少しで……」 「知らなかった? 結構な大騒ぎになっているのに?」  彼が驚いた顔で私を見る。 「私、引きこもりのような生活を送っているので、世事に疎くて……」  言いながら、自分の頬が熱くなるのを感じた。こんな状況でも、説明するのが恥ずかしい、自分のだらしなさを他人に知られることが恥ずかしい、という至極どうでもいい感情が働くのだな、と感心し、また呆れた。 「じゃあ、もしかして君は、今回の予防接種を受けていない?」 「ええ、受けていません。ついさっき、案内の封書が届いているのを見つけて、それで、この病院に来たんです」  そう答えると、彼は、ああ、良かった、と溢した後、涙を流し始めた。 「良かった……他の沢山の人達は、どうすることもできなかったけど、君だけは救うことができそうだ」 「どういう意味ですか? それに、そんな大袈裟な……」 「僕も、予防接種を受けているんだ」  一瞬の沈黙。  えっ? という自分の声。  零れた恐怖心。  彼も、それを見逃さなかった。 「それが正しい反応だ」彼が笑う。 「ごめんなさい。私、違うんです。助けてもらったのに、あの、ごめんなさい。失礼な……」 「いいんだ」  彼は私の弁明を遮り、制服のポケットから財布を取り出して、中身のお札を私の手に握らせる。 「これをあげる。少ないし、国内がこんな状況で、現金が機能するかどうかは分からないけどね。あとは、拳銃も渡してあげたいけど、こういう武器は、きちんと訓練を受けた人間でないと、誤射で自分を撃ちかねないから、むしろ危険だ。分かって欲しい」 「お巡りさん? これは、その、どうして? 何を言い出すんですか?」 「君は生き延びてくれ」  彼は真面目な顔で言う。 「僕が死んで、あの生き物を僕の身体から出してしまう前に、一人でも多く誰かを助けることができたと、警察として、人間として、使命を果たせたと、役に立つことができたと、無様に死んでいくだけではなかったと、誇って死ねるよう、君には助かって欲しい」  彼の、その言葉。  彼の真剣な目。  私の手を握る、彼の力強さに当てられて。  私の目からは、涙が零れ始める。 「あなたは、良い人です」私は告げる。 「ありがとう」彼が応える。 「これまで出会った誰よりも、あなたは純粋で、真摯で、善意に満ち溢れた方です」 「ありがとう」 「こちらこそ、ありがとうございます。状況を教えてくださって、感染の危機から助けてくださって、今もこうして、私を生かす為だけに、献身を見せてくださっている。警察として、人間として、あなたは完成されています。私はあなたを尊敬します。本当に」 「ありがとう。君は、とても優しい人だね」  彼が言う。大粒の涙を零しながら。 「よし、もう行った方がいい。自室に立て籠もるんだ。規模や手順、期間的に考えて、国内全ての人間が感染したわけじゃないはずだ。いずれ対応部隊が編成されて、駆除と救助活動が始まるだろう。その時まで、誰とも接触せずに、とにかく生き延びるんだ。いいね?」 「はい、分かりました」 立ち上がりながら、私は頷く。 「必ず、生き延びて」彼が言う。 「あなたのことは一生、忘れません。ごめんなさい。こんなありきたりな言葉しか思いつけなくて」 「最高の褒め言葉だよ、ありがとう」  そう応え、彼は綺麗な敬礼をみせた。  私は彼へ向けて深々とお辞儀をした後、回れ右をして走り出す。  自分の住処へと逃げ帰る。  街は静かだ。  国内が絶望的な状況に陥っているというのに、パニックや暴動の片鱗すらない。私が知らなかっただけで、そういう指示が出ているのかもしれない。それに素直に従えることが、日本人の強みであり、特徴なのかもしれない。  息を切らせながらマンションの階段を駆け上がり、自室の鍵を開けて飛び込む。  そのまま倒れ込みたいほどスタミナを消耗していたけど、倒れている場合ではないと、気合と根性で動き続け、玄関とメインフロアの窓を粘着テープや本棚で塞いで、外からの侵入が困難なように手製のバリケードを形成した。  その作業を終えてから。  私はフロアの床に倒れ込み。  丸くなった姿勢で、大声で泣いた。  どうしよう、これから。  どうなるのだろう、これから。  死んでしまった、あの女の人。  女の人の身体から飛び出してきた、昆虫だか、背骨だか、生き物なのか、寄生虫か、全く理解不能な謎の白いもの。  私を生かすことばかり一生懸命になってくれた、人格者な警官の男性。  直前の記憶に打ちのめされる。  本当に現実の出来事なのかと。  私は、どうするのが正解なのだろう?  これから私に、何ができるだろう?  どうやって生きていけばいい?  壊れてしまった世界で、どうすれば……。  それでも、生きなくちゃ。  歯を食いしばって起き上がる。  困難であることは明白。  方法も分からない。  それでも、全力を尽くそう。  彼との、最期の約束だから。         ※  これが、今から百日前の出来事。  そろそろ、文字を書く体力もなくなってきた。  国内は、まだ混乱が続いている。  混乱できるだけの人間が生き残ってはいる。  元の生活を取り戻すための行動を、まだ興せていないだけ。  外国の状況は分からない。  正確な情報を知る術がなくなってしまったから。  電気も、ガスも、止まってしまった。稼働しているのは水道だけ。  人類は変わらず存続している。  国もまだ存続している。  でも、私は、限界かも。  お腹が空いた。  お風呂に入りたい。  苦しくて、辛いよ。  でも、生きなくちゃ。  約束したから。  生き延びなくちゃ。
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