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第二章 人形師ダミアン EP.5越してきた青年
「ダミアン・ネポムク・メルツェルさんのお宅は、こちらですか?」
ブレーメンの市内中心部を流れるヴェーザー川の支流、レウム川の北側はブレーマー・シュヴァイツ(ブレーメンのスイス)と呼ばれる丘陵地にその家はひっそりと建っていた。
訪ねてきたのはブレーメン警察のベーレンドルフ刑事だった。市街地からここまでは車で二十分ほどの距離になる。車には部下のカペルマンを残してきている。
よく晴れた週末の朝、一本の電話で呼び出された。
ベーレンドルフ刑事とカペルマン刑事がダミアンの家を訪問する前に顔なじみの老夫婦の家を訪ねていた。昨晩、近所の家の方から人のうめき声が聞こえた。気味が悪いから調べてほしいというものであった。通報してきたのは、現場から五十メートルほど離れたところに住む、老夫婦だった。二人の話によると、しばらく空き家だった問題の家にひと月ほど前に若い男が引っ越してきたという。
「見た目は、そうねぇ。二十代後半かしらねぇ。でも、もしかしたらもっと若いのかもしれないし、ちょっと変わった雰囲気の人ね。髪の毛はブラウンで肌の色は女性みたいに白いのだけど、黒い瞳がとても印象的だったわ。何かの職人さんらしくて、腰のベルトに工具をぶら下げていたけど、大工さんには見えなかったわね」
夫人は、一度挨拶をしたことがあるのだという。名はダミアン・ネポムク・メルツェルと言うらしい。問題のうめき声は昨夜、就寝しようとベッドに入った時だったという。最初は猫や犬の鳴き声かと思ったそうなのだが、やがてその鳴き声はきちんとした意味のある言葉に聞こえてきたのだという。
「あれは間違いなく『痛い』と言っていたよ。しかし、あんな不気味な声は聴いたことがない。あれは人のそれではなく、獣か何かの声じゃったよ」
夫人は夫の腕を掴み、怯えていた。
「獣ならまだしも、あれは悪魔に違いないよ」
ベーレンドルフ刑事はブレーメン警察に務めて一七年になる。傷害や殺人といった凶悪事件を主に担当しているが、この老夫婦とは五年ほど前、別の傷害事件の目撃証人として捜査に協力してもらったことがあった。以来、近所に泥棒が入った時や火事があった時に様子を見に行っていたこともあり、普通なら別の課に任せるような案件であったが、念のため話を聞きに来たのだった。
「そのダミアンという男の他に誰か住んでいるということはないですか?」
ベーレンドルフ刑事の後ろから、カペルマン刑事がその体躯に似合わない高い声で老夫婦に尋ねた。
カペルマンは刑事になってまだ二年目の新人であった。ベーレンドルフ刑事が、身長は百八十センチに満たないががっちりとした体格で、歩き方も肩で風を切るという表現がぴったりなのに対して、カペルマン刑事は、身長こそ一九〇センチあるが、ベーレンドルフ刑事よりも腰が低い印象で、老夫婦の話も熱心に手帳にメモを取りながら聞いている。
「本人に直接聞いたわけじゃないけど、他の人の出入りは気づかなかったわよねぇ。あなた?」
「そうだなぁ。ワシも家内も買い物に行く以外はあまり、家をでないしなぁ。道端で見かけたのはほんの一、二回じゃったし、あの家は、通り道じゃないしのぉ」
おそらくこれ以上は何も聞けないだろうと踏んだベーレンドルフ刑事は、あとはすべて警察に任せるようにと言って、その場を離れようとしたが、このことは他の人には言わないようにと付け加えた。
「何かの聞き間違えってこと、ないですかね」
カペルマン刑事は、車のエンジンを掛けながらベーレンドルフ刑事に話しかけた。
「まぁ、それは行けばわかるさ。それによそ者が来たのなら、一応挨拶くらいはしておかないとな。この辺りは平和で静かなところだ。おかしな騒ぎになるようなことは、勘弁願いたい」
「ただでさえ、街の治安は悪くなっていますからね」
「そういうことだ」
ブレーメン北部は、比較的静かな街で、凶悪な犯罪には無縁だった。レウム川を越えて南に行くほど人口は密集し、それだけいろんな摩擦が起き、犯罪件数もここ数年は増える一方である。一八九〇年以降、ブレーメンの街は急速に発展し、人口はこの二〇年で二倍近くに増えていた。
「昔は静かな街だったのにな。最近じゃ、毎日どこかで事件が起きている。俺たちの仕事はなかなか先手が打てないからな。無駄足かもしれないが、何かが起きてからじゃ遅いからな」
ベーレンドルフは仕事ができる男だが、女はできない。
ベーレンドルフの仕事は早いが、クレームが入るのも早い。
ベーレンドルフの部下になるのも大変だが、上司になるのはもっと頭が痛い。
自分の上司が署内で受けている評価というのは、カペルマン刑事にとってはどうでもよかった。カペルマンはベーレンドルフに憧れて刑事になったことを、誇りに思っているが、そのことを周りにしゃべったことはない。なぜなら、そういうことを自分の敬愛すべき上司が一番嫌っていることを知っているからであった。
老夫婦が不気味な声がしたという家が、ここ数年空き家になっていたことをベーレンドルフ刑事は知っている。なぜならそこは、凄惨な殺人事件があった現場であり、その犯人はいまだに捕まっていない。当時事件を担当したベーレンドルフには苦い思い出である。
「あの家は、あの事件以来ずっと空き家だったみたいですね」
五年前、ブルース・エルスハイマーという男がこの家の中で惨殺された。遺体から首が切断され、胴体から切り離された首は、テーブルの上に晒されていた。男は宝石商で、事件当初は物取りによる犯行だと思われていた。しかし、ベーレンドルフ刑事は、捜査本部とは別の線で事件を捜査し、そこに一人の人物が浮上してきた。ブレーメンの中心街で金融業を営む、ヴィルマー・リッツという男で、裏社会にも通じる実力者であった。
「あんな事件の後だからな。誰も買い手がつかないというのは、当たり前だが、こうも人が増えてはなぁ。五年も前ならよそ者には関係はないということだろうし、その事情を知らなければ優良物件ではあるからな」
はたして、このいわくつきの物件にどんな人物が住み着いたのか、そういう興味もないわけではなかった。ベーレンドルフは、カペルマンを車の中に待機させ、一人で玄関の前に立っていた。
三回目の呼びかけに、家の中で物音がした。玄関に向かって人が歩いてくる気配がある。
「どちら様ですか。こんなに朝早くから」
玄関のドアが開くとさらさらとしたブラウンの髪の毛を手櫛で整えながら、一人の青年が顔を出した。
「ブレーメン警察のベーレンドルフというものです。突然で申し訳ないのですが、少しお話を伺ってもよろしいですか」
青年の目は、老婦人の言うとおり、とても印象的だった。ベーレンドルフは直観的に、自分とは違う血が混じっているのではないかと考えた。単に瞳の色の違いよりも、青年の所作に、どこか異質なものを見て取ったからである。
「警察の方ですかぁ、ほう、朝から面白いことが起きるものだなぁ。やはりここに越してきたのは正解だったようですね」
「ほう、それはどういうことでしょうか。メルツェルさん」
あまりの突拍子のない青年の態度に、さすがのベテラン刑事も面喰ってしまった。
「いえいえ、いわくつきの家だとは知っていたのですけどね。散らかっていますが、どうぞ。あっ、お連れの方もよかったらご一緒に」
ベーレンドルフは眉をひそめた。確かに車は近くに止めてあるが、あえて玄関からは死角になるところにカペルマンを待機させたのである。朝から刑事が二人、車で乗り付けてきたと悟られれば、余計な警戒心を煽るとことになる。そのあたりを配慮したからこそなのだが、どうも、この青年は只者ではないらしいと疑ってかかるしかなかった。
「いえ、それには及びません。すぐに済みますから」
ベーレンドルフは案内されるまま、部屋の中に足を踏み入れたが、その足はすぐに止まった。
「これは!」
開け放たれた玄関を睨みつけるように生首がテーブルの上に置いてある。それは五年前の事件の再現であった。
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