いつか過ぎ行くこのひとときに

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 上体がパッドの外に落ちていた。  思わず大声を出したのは私だ。  大慌てで駆け寄ると、娘はすっと起き上がった。 「大丈夫、受け身ぐらいとれる」  そう言って、悔しそうに頂上を見上げた。 「でも、ほんとうに?」  おそるおそる私は訊ねた。 「頭は打ってないよ。でも、ちょっとこっちの肩があれかな」 「すぐ病院に行こう」 「そこまでじゃないよ。でも、アイシングしたいな」  そう言いながら娘は立ち上がった。おろおろしている私をしり目に、車のスライドドアを開けてクーラーボックスをとりだした。  地面に置き、かがみこんでその蓋を開け、氷嚢を取り出す。   娘が冷やしているのは肩ではない。前腕だ。 「どうする、このあと」  そう尋ねると、うつむいて自分の腕を見つめながら、娘は言った。 「私、持久力ないんだよね……悔しいけど……楽しかったなあ……悔しいけど」 「ちょっと下ったところに温泉がある。そこでゆっくりして、好きなものを食べよう」 「そうだね」  娘は顔を上げない。 「来週にでも、また来よう」 「いいの? ありがとう」  そこではじめて娘は私を見た。  泣いているわけではなかった。  いくつもの感情がまじりあった、大人びた静かな顔がそこにあった。 「父さん、昔小説書いてたんだ」 「……そうなんだ」  私の唐突な告白に、娘は困惑したようだ。 「頑張ってる姿を見てたら、なんか昔を思い出した」 「そう」  娘の返事は短い。  私は恥ずかしくなった。なぜこんな意味のない話をはじめてしまったのか。 「お父さんも、昔からお父さんだったわけじゃないものね。あたりまえだけど、不思議」  皮肉を言われたように感じたのは、私の劣等感のせいだろう。  皮肉を言いたくなるほどの興味を、娘は私に持っていない。   「もう、帰ろうか」  娘はやがてそう言って立ち上がり、すたすたと歩いてクラッシュパッドをたたんだ。  私は運転席に乗り込みシートベルトをつけた。  リアハッチが開き、閉まる。  娘が助手席に乗り込む。 「今日はありがとう」  そう言ったのは私だ。 「え、なんで?」  唐突なことばかり言われて、娘は戸惑っている。 「うちの娘として生まれてきてくれて」 「何それ? 変だよ、お父さん」  娘はからからと笑った。  うまく伝わらない。だが、伝える必要もない。  娘に恥じない父親になろう。  そう思った。  きっと、今からでも遅くはない。  私はエンジンをスタートさせた。                                了           
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