いつか過ぎ行くこのひとときに

4/7
前へ
/7ページ
次へ
 娘が落ちた。  高さ三メートルほどのところからだ。  クラッシュパッドがたわみ、その衝撃を吸収する。  娘はすぐに起き上がり、筋肉の緊張をほぐすように前腕をぶんっと振る。  また登りはじめた。  序盤の動きにはもう慣れたようだ。するすると移動していく。  三メートルほどのところで、また停滞する。そこから右に移動したいようだ。   左手で岩の突起をつかみ、様々態勢で右に手を伸ばすが、その先の掴むべきものに手がとどかない。  脚を振り子のように動かし、重心を変える。  ずっと腕が遠くまで伸びる。だがまだ届かない。  一手下がる。左の突起に飛びつき、そのままの勢いで岩を蹴って右へ跳ぶ。    とどかない。  また落ちる。  娘は何度もやり方を変え、そして何度も落ちた。  二十分ほど繰り返して、ようやく娘は止まった。クラッシュパッドに横たわって空を見上げている。初秋の朝は肌寒いほどなのに、娘は汗まみれだ。  その顔が楽しそうに微笑んでいることに私は意表を突かれた。  私のほうを見て、娘は言った。 「私の身体だと、リーチが足りないんだ。だから難しい」 「どうするんだ」 「やり方を変える。私なりのルートを創る」  強い。  そう思った。  人間として、私は彼女にかなわないのではないか。  そんなことさえ思った。            
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加