本棚入門

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本棚入門

 コンラッドの短篇集を左隅に押し込むと、横からスッと引き抜かれて、定位置はそこではなくてこっちだと無言で指し示された。ここは森鴎外の場所であると。この本棚の秩序を乱すのなら合鍵を返してほしい。彼女はそう叱りつけてきた。  合鍵をポケットに突っ込んで、何も言わずに彼女の部屋を後にした。よれよれのリボンが結んである。向こうのアパートの庭に鍵を捨てたら、彼女は怒るだろうか。というより犯罪になるのだろうか。  僕はコンラッドの短篇集を、エドガー・アラン・ポーの作品集と接吻(せっぷん)させることができない。グスタフ・クリムトの一作のような藝術的な接吻を。  サファヴィー朝の専門家である二兎(にと)さんにそのことを相談すると、彼女は(ふち)の細い眼鏡を取って、目をぎゅっと(つむ)り、「わたしに()かないで」と突っぱねた。 「ここのところ眠れていないから。ちょっと気が立ってるの」 「なんで眠れないんですか?」 「考え過ぎちゃうのよ……」  細めた眼を手元に落とし、眼鏡拭きを器用に使いながら、几帳面な二兎さんはレンズを綺麗に磨き上げていく。 「機嫌の悪い犬と懐ききっている猫がいるとしてね、猫を可愛がっているときに、ふと、犬のことが気の毒になったり、逆に、犬の機嫌を取っているときに、猫が寂しがっていないかって気になったり……そういうのを、どうすればいいのかなって」 「よく分からないですけど、犬と猫を、まとめて抱きかかえたらいいんじゃないんですか?」 「でも、心と体はまとめられないでしょう」 「どういうことです?」 「太陽と月が、青空に睾丸(こうがん)のように並んでいるみたいな……」  二兎さんは、先日修理をしてもらったという電灯に、磨いた眼鏡をかかげた。 「柳くんに合鍵をくれるだなんて、その子も変わってるわね」 「それは、二兎さんが言えることじゃないでしょう」 「なんで、合鍵コレクターに()れてしまったのかしらね」 「いやなら、返しますよ」  眼鏡をかけ直した二兎さんは、僕の手の上に手を重ねて、「戻ることのできる場所は、いくつもあった方が安心でしょう」と言った。  本棚が四つある。二つは四段の全く同じもので、片方には文庫本が、もう片方には新書が、レーベルごとにまとまって並んでいる。著者の名前が五十音順になっている。  右三段、左二段の本棚には、洋書が並べてあり、左右でハードカバーとペーパーバックを分けている。  机の上には二段の小さな本棚があり、小説が綺麗に並んでいる。単に好みなのだろう。近代文学の文庫本しかない。短篇集しかない。ほとんどの本の途中に、(しおり)が挟まれている。  僕は、こういう本棚が好きだ。二兎さんの眼鏡をひょいと取って机の上に置き、彼女に接吻をした。彼女は姿勢を崩して、僕を迎え入れてくれた。  合鍵をポケットに突っ込んで、コンラッドとポーを接吻させる(かおる)の家のドアを開けた。彼女はシャワーを浴びているようだった。勝手に上がり込んで、本棚から本を取り出そうとしたとき、僕の手がピタリと止まってしまった。  涙が(こぼ)れ落ちた。クリーム色のカーペットの上へと。合鍵を机の上に置いて、音を立てないようにして帰った。 『落穂拾(おちぼひろ)い』――あれは間違いなく、ミレーの『落穂拾い』をオマージュした絵だ。誰が描いたものかまでは、()み取ることができなかったけれど、なぜ、あの絵を本棚の上に飾りはじめたのか。  ドアを閉めることも靴を(そろ)えることもせず、廊下を瞬く間に駆け抜けて、合鍵はベッドの上へ放って、机に本を乗せて読んでいる二兎さんに抱きついた。一本の蜘蛛の糸のように、鼻水は涙に濡れた(ほお)の上に貼りついていた。 「僕の……僕の彼女になってください」  二兎さんは、黙ったまま、文字の上に視線を与えていた。 「お願いします。僕の彼女になってください……」 「いいよ」  文字の上に投げられている視線とは裏腹に、右手で僕の頭を()でてくれている。  斜めに差し込んでいた夕陽が紺色に染められはじめたころ、二兎さんは、「カーテンを閉めなきゃ」と(つぶや)いた。  後日、僕の部屋に本棚が運び込まれた。横幅は一メートルで、縦に二段。どちらの段にも研究書類を悠々と並べられる。  下の段には、サファヴィー朝に関係する本を几帳面に並べていった。文庫、新書、単行本の順番で斜め上がりになっており、出版社を五十音順にしてまとめている。  上の段になにを並べるかについては検討中だ。しかし空白は寂しいから、とりあえず、ぬいぐるみを一体突っ込んだ。 「上の段には本を並べないの?」  二兎さんは、バスタオルを巻いた身体を手で支え、後ろに反らせながら、そう訊いてきた。眼鏡をかけていなくても、本棚は、はっきりと見えるらしかった。 「なにを入れていいのか分からないので」 「下がわたしを表わしているのなら、上は……」 「僕。そう、僕じゃないといけないんです」  しかし僕は、これといって、読んでいる本に傾向があるわけではない。だけど、赤とオレンジという同系色でも、赤と青という反対色でもいいから、ハーモニーを紡ぎたいとは思っていた。  こういうとき、僕の頭にちらつくのは、彼女のことだ。コンラッドの短篇集とポーの作品集を接吻させる彼女のことだ。  しかしそれでは、上の段と下の段の間に曖昧(あいまい)な境界線を引くことに繋がりかねないという危惧(きぐ)があった。ふたりの女性が、僕の本棚のなかで静かに呼吸をしていていいのだろうか? 「僕には、どういう本が似合うと思います?」 「息苦しくて窒息してしまいそうな本棚」 「本棚じゃなくて、本のことを訊いているんです」 「ランデブーが悲劇に繋がる小説かなにか」  彼女の本棚には、サファヴィー朝に関する文献がたくさんあり、僕は外国語の本をのぞいて、すべて同じものを買って並べた。それは真似をしているというより、彼女を自分のなかへ吸い込んでしまいたいという欲求から、そうしたのだ。  だとしたら、吸い込んだ分だけ吐き出すような本を、上段には並べるべきではないだろうか。本棚は、呼吸をするものなのだから。  〈了〉
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