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七月の定例ライブを終えた夜だった。
「お疲れ」
「また明日な」
ステージの熱が冷めやらないロッカー室で、夢心地で汗を拭う。演じた曲を指先で辿りながら、着替えのシャツを取り出した。はずみでクリアファイルが床に落ちて、すっと頭の中の音楽が遠のいた。拾い上げて目を通すと、紙切れに専門用語の難解な漢字が並んでいる。
『要するに癌なんだろ』
焦れた俺がそう言うと、医師は辛抱強く説得してきた。悪性腫瘍の分類上は肉腫であること。喉頭にポリープ状に出来ていて、切除すれば再発はまず無いこと。ただ、声帯の一部も取らなければならないこと。
つまり……
『もう歌えないんだな』
『切除する声帯はほんの一部だ。声は残るよ。プロになるのは難しいって話なんだ』
『俺にとっては同じことだ』
『気道を塞いでしまうと命に関わる可能性もある。いつかは転移するし、抗癌剤の効果は不透明だ。手術した方が君にとってもいいと思うけどね』
高校時代に組んだバンドでギターと歌に明け暮れた。そしてつい先日、デビューの声が掛かったのだ。有頂天の俺たちは、この勢いで世間に名を轟かせるつもりでいた。
『今のうち健康診断しといたら』
次男坊の俺を自由にしてくれた両親だったから、こんな時ぐらいはと素直に受けに行った。何とかっていう腫瘍マーカーが正常値を外れていて、喉の不調の詳細な検査結果が返ってきた。
不完全な声で 満足できっかよ
いつの間にか汗はひいて、さっきまでの高揚の熱も冷めている。体は心地よい疲労感でいっぱいで、このままビールを食らって眠りたい。なのに、頭が冴えてしまって酔えそうになかった。
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