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ある日、同棲していた彼氏を殴り飛ばした私は、急遽有給をとり、青森行の高速バスに飛び乗った。
あまりにも衝動的だったから、荷物も最低限。着替えも何もなし、財布とスマホだけを持って夜行バスに乗り込んでいた私はある意味異質だったかもしれない。でも夜行バスのいい所は無関心さであるので、私は何も考えずにバスの座席に身体を沈めることが出来たのだ。
静かに進む夜行バス。平日で何もない日だからだろうか。乗客は数名だった。
その中に少し違和感を覚えた人がいた。
通路を挟んで私の隣の席。私とは真逆で大荷物を抱えて険しい顔をする美人さん。その違和感の正体は靴だと気がついたのは、彼女から転がって来たペットボトルを拾うために床に目をやった時だった。
「落ちましたよ」
そう小さな声で言って、私は彼女にペットボトルを渡した。彼女は慌てて受け取ると、ペコペコと丁寧にお辞儀をした。
「あー、えっと、登山、ですか?」
私は何となく彼女に尋ねた。そう、彼女の持っていたカバンは、登山用ブランドのリュックで、着ていたジャンパーも、履いているズボンも登山用の物だったのだ。彼女は死んだような目をしながら答えた。
「……これは、盗んできたんです」
「へ?」
突然、会って数分の人からそんな事言われて、私はギョッとした。他のお客さんもギョッとしたのか、チラチラとこちらを向いたのが分かった。
彼女は悪戯っ子のように微笑むと、小さく首を振りながら付け加えるように言った。
「ごめんなさい、変な言い方しました。盗んだ、って言ったら嘘ですかね。このリュックも、ジャンパーも、私の恋人のものなんですけど。私に黙って明日他の女と登山旅行することが判明したので、荷物一式こうして奪ってきてやりました。そして、できるだけ遠くに荷物捨ててやろうと思って、今から本州最北端の青森に行こうと」
「ほえー」
私は感心して頷いた。と同時に違和感の正体の答え合わせができた。
彼女の靴は、パンプスだったのだ。
リュックと、服装も完全に登山用なのに、靴だけはどう考えても登山に向いていない靴だったのだ。荷物と服装が他人の物だったのなら納得できる。靴はさすがに合っていないと歩きにくいので自分のを履いてきたのだろう。
「ざまあみろですよ。さっきからたくさんあの人からスマホに電話来てたので切ってやりました。バスでは迷惑ですからね」
死んだような目のまま、彼女は笑った。
「ごめんなさい、変な話しました」
「いえ!」
私は思わず彼女の手を握った。
「私も、今日彼氏に浮気されて、それで部屋を飛び出してきたんです。衝動的に身一つで」
私の突然の告白に、彼女はキョトンとしたようだったが、さっきまでの死んだような目は急に面白いモノを見るような輝いた目になっていた。
「え、浮気?」
「そうです。私さっき彼氏殴って。んで部屋飛び出して、どうしようかなーって思って、よし、青森行こう!って思って」
そう言って、私は自分の小さな鞄から、文庫本を一冊取り出した。着替えも何も持ってないくせに、この文庫本だけは持っている、理由のわからない鞄だ。
「私、太宰治のオタクなんです。もう全作品暗唱するくらい読み漁ってて。で、一度聖地巡礼行きたいなって思ってたんですけど、忙しくてなかなか行けてなくて。あ、今もしかしてチャンスじゃん!って思って」
「チャンスって。ごめんなさい、ちょっと面白い」
彼女は私の言葉にクスクスと笑った。
そして、私の取り出した太宰治の『津軽』の文庫本を眺めながら言った。
「私、全然知らないな。走れメロスくらいしか知らない。てか、太宰治って青森が聖地だったんだ?レベル」
「あ、バスで読みます?私はもう読んじゃったから」
ドサクサに紛れて布教しようと思って彼女に無理矢理文庫本を押し付ける。彼女は申し訳無さそうに言った。
「ありがとう。でも、深夜バス、もう少ししたら暗くなるから読めないと思うので」
「そ、そうですよね。夜行バスなんだから寝ていきますよね。あ、あんまりおしゃべりしてるのも良くないですよね。それじゃあ、おやすみなさい」
私はすごすごと自分の席に座り直した。
しばらくスマホを黙って弄りながら消灯時間を待つ。
青森に着いたらどうしようかと考えていると、トントン、と肩を叩かれた。
さっきの彼女が、スマホを見せてながら小声で話しかけてくる。
「今更ホテル探してるんですが、ツインの方が安いみたいで……もしあなたがよかったら……」
「よいです!」
つい大きな声で即答してしまい、慌てて口を手で塞いだ。
だってそんなお誘い願ったりかなったりだ。全然ホテルの手配なんかしてなかったし、何より同じような境遇の人とこうして出会ったのも何だかご縁みたいで面白い。さっきまでの彼氏を殴った時の気持ちなんかどっかに行ってしまったし、もっと彼女と話をしてみたかった。
彼女が小さく笑って、「じゃあここでいいですか」とビジネスホテルのプランを提示してきたので、私は値段を確認してから頷いた。
「楽しみになっちゃった。あ、私、佐倉と言います」
「私も楽しみです。私は葉月と申します」
私は、さっき会ったばかりだというのに、佐倉さんと気のおけない旧友みたいにクスクスと微笑み合った。
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