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1.それは、のどかな昼下がり
「お見合いですって!?」
わたしは持ち上げたティーカップを、ガチャンッと大きな音をたててソーサーに置いた。というより、落とした、というほうが近い。
「そんなに目をむくことはないだろう、美咲」
わたしの反応にびっくりして、パパが言う。
「これが目をむかずにいられますか!」
「そんなに興奮することないでしょ、美咲ちゃん」
わたしの形相にびっくりして、ママが言う。
「これが興奮せずにいられますか!」
事が起きたのは、春の陽射しがやさしい昼下がり。わたしが高校を卒業して、ちょうど一ヶ月目のティータイム。テーブルの中央に置かれたチューリップとスイートピーとドラセナゴッドセフィアナのフラワーアレンジメントが、わたしのただならぬ剣幕にふるふると揺れている。BGMはセレナーデ。これはママが好きな曲。ああ、どうでもいいわね、こんなこと。
「とりあえず、ほら、写真だけでも……」
パパが差し出した写真に目もくれずに、わたしは立ち上がった。
「この話は聞かなかったことにするわ」
そう言い放つと、まだ手をつけてもいない大好きなミルフィーユを後にして、早足でその場を去り、部屋のドアをバタンと閉めた。
廊下を歩きながら、わたしは自分の中で怒りがムクムクと膨らんでくるのを感じていた。
冗談じゃないわ! わたしはついこの前、高校を卒業したばかりの18歳の乙女なのよ!
進学も就職もしなかったけど、わたしの頭の中は「これからの人生をどう生きるか」という想いでいっぱいなのよ。そ、そりゃ、思っているだけでまだ何の計画もたっていなかったけど。
希望いっぱいの春から、一気に奈落の底に突き落とされた気分だわ……。
わたしは大きなため息をひとつ、ついた。
「お嬢さま」
自分の部屋に入りかけた時、ふいに声をかけられて振り向くと、執事の倉橋さんが封筒を何通か手にして廊下を歩いてきた。
「お嬢さま宛のお手紙です」
にっこり笑って手紙を差し出す。その穏やかな笑顔に、わたしはふうっと怒りが緩んだのを感じた。
倉橋さんとはもう長いお付き合い。なんてったって、わたしが生まれた時には、既にこの堀越家の執事をやっていたんだもの。年の頃はパパと同じくらい。小さい時から何かあると必ず倉橋さんに泣きついた。そのたびに倉橋さんは親身に相談にのってくれたり、慰めてくれたりしたっけ。わたしにとっては執事というより、やさしいおじさまという感じ。パパよりもママよりも近い存在、という気すらする。
「ねえ、倉橋さん」
「はい?」
倉橋さんは行きかけた足を止めた。
「18歳で結婚なんて、早いよね?」
わたしの問いに、倉橋さんはこの頃ちょっぴり白髪まじりになってきた頭を傾げた。
「そういうことは断言できませんが、ただ……」
「ただ?」
「お嬢さま、後で言い訳をするような人生だけは送ってはいけませんよ」
きっぱりと、そう言った。
今までの話の進行でもわかると思いますが、うちはちょっとした名家なのです。堀越邸と言えば、
「ああ、あの大きなお屋敷ね」
と近所の人たちみんなが口をそろえて言うくらい。
わたしはその家の一人娘、堀越美咲。
さっきも言ったけど、この春、幼稚園からずーっと続いている名門女子高を卒業したばかり。
この学校っていうのがまた、お嬢さま学校で、生徒もやっぱり世間知らずのお嬢さまばっかりなの。わたしも別に世間を知っているわけじゃないからえらそうなことは言えないけど、そういう籠の中の鳥みたいな日々を過ごしている自分がすごくイヤだった。だから高校卒業したら広い世界に飛び出すぞーなんて、意欲に燃えていたんだ。具体的にこれをやりたいなっていうのはなかったけど。それはこれから考えるつもりで……。
でもそれは断じて「結婚」なんてことじゃない! 第一わたしは恥ずかしながら、恋愛すら未経験なのだ。今までずっと女の園で育ってきて、男の人と出会うチャンスなんてまるでなかったんだもの。
まあ、クラスメイトの中には結構自由にやっていて、ボーイフレンドの数が両手を使っても数え切れない、なんてコもいたわよ。だけどわたしはその点、オクテっていうか無頓着っていうか、とにかく男の子とお付き合いなんて、まったく別世界のことだった。「男女交際」という言葉すら新鮮に響くわたしに、いきなり「お見合い」だなんて!
わたしはクラッとして、ベッドに座り込んだ。
わたしだって人並みに恋愛とかしてみたい。でも発情期の猫みたいにギラギラしていたくないし、いろいろな出会いの中でそういう男性(ひと)、見つけられたらいいなって思っていたのよ。それなのにいきなり結婚、結婚、結婚!
しばらくの間、わたしの頭の中でこの二文字が反響していた。ふっと我に返って、さっき倉橋さんから渡された手紙に目をとめる。
手紙は二通。ともに高校の時のクラスメイトからだった。一通は“みーこ”こと鈴崎美恵子からで、もう一通は“さゆり”こと城戸さゆりからだった。
元気でやっているのかなあ。
二人の顔を思い起こし、懐かしい気持ちで満たされながら、まずみーこからの手紙の封をあけた。懐かしいっていっても、卒業してからまだそんなに経ってないのにね。
わたしとみーことさゆりは高校三年間同じクラスだった仲良し三人組。女の子っぽくて甘えん坊のみーこ、社交家で派手めなさゆり、そして一見しっかりものに見えるらしいのにその実、無鉄砲なわたしのトリオは、しっちゃかめっちゃかのようでいて、結構うまくいっていた。わたしたちは三人とも進学はせず、家事手伝いということになっていた。
わたしはみーこの丸い文字が羅列している手紙に目を通し始めた。
『ハロ~、美咲! 元気ですか? わたしは幸福の絶頂です!』
ほー、それはそれは。
『何故かっていうと、実は結婚!するの、わたし』
え……。
『相手はパパの知り合いの息子さんでね。26歳にしてバリバリのエリート。この前、うちのパーティーに招待した時にわたしのことを見初めたらしいの。
わたしも一目ぼれっていうか、インスピレーションがピーンときたっていうか。
そんなわけで急だけど、今年のうちに式を挙げようっていうことになって、只今花嫁修業中! わたしもこの急展開にびっくりしてるけど、とにかく今、すっごくしあわせなの!』
ハートマークが文面から飛び出してきそうな手紙だったけれど、「おめでとう! よかったね!」なんて気分には、ちょっとなれなかった。タイミングが悪いのよ……。
わたしは次にさゆりからの手紙の封をあけた。
『元気ぃ!? 美咲! 卒業してから一ヶ月! 早いもんだよねー。年中会おうねって言ってたのに、全然会ってないじゃない!』
うん、ホント。
『美咲も早くスマホ持ちなよ~。パソコンも家だとあんまりやらないっていうし、メールができないのはすごく不便だよ~』
そう、わたしは今時、スマホを持ってないのだ。欲しいなって思うこともあるけど、絶対必要ってことじゃないもの。
でも高校卒業して自立したら、自分のお金で買おうかなって思っていた。それにわたしはパソコンもプライベートではほとんど使わない。たまーにインターネットでお気に入りのお店の情報を見るくらい。
『ところで! 今度ヨーロッパに旅行するんだけどヒマだったら美咲も一緒に行かない? 言葉のことなら心配ご無用! わたしのボーイフレンドのジュリアンが同行してくれるから!』
旅行なんて……。そんな優雅な気分じゃないって。……いいなあ、気楽で。
わたしはなんのかんのいっても平和だった学生時代を思い出して、またため息をついた。
「別に見合いをしたからといって、絶対に結婚しなければいけない、なんてことはないんだぞ」
夕食の席で、パパは再びわたしの説得に取り組んでいた。
「そうよ、美咲ちゃん。もしかしたらステキな方かもしれないじゃないの。この出逢いのチャンスを逃したら、一生の不覚よ」
ママもパパに加勢する。こんなふうに言われると気持ちが揺らいでしまう。押されると弱いのよね、わたしって。
大体わたしは『お見合いイコール結婚』って思い込んでいたけれど、イヤなら断るってこともできるんだものね。それにママの言うとおり、もしかしてお見合い相手はステキな人かもしれない。その出逢いを頭っから拒否するなんて、愚かなことかもしれない。とりあえず、どんなことでも受け入れるところから始めるべきなのかも……。
そう考えながらも、わたしは最後の抵抗を試みた。
「でもわたし、学校卒業してから間もないし、もっといろいろな世界を見てみたいの。いろいろな人と出逢って、いろいろなことを聞いて感じて、こう……人間的に成長したいの」
「だからそれは――」
ママは待ってました、とばかりに身を乗り出した。
「相手の方次第でしょ。その方にいろいろなところに連れていっていただいたりすれば交際範囲も広がるし、教養も身につくってものよ。それに美咲ちゃん、世間知らずのあなたが、一体ひとりでなにができるっていうの?」
「ぐ……」
急所を突かれて、わたしは言葉に詰まった。
「あなたみたいなコがひとりでフラフラと出ていったって、悪い男に引っかかるのがオチなの。そして後は坂道を転げ落ちるように堕落の一途を辿るだけなのよ。そしてそして……」
ママはここでちょっと言葉をきった。力を入れて一気にまくしたてたものだから、肩でハアハアと息をしている。
「見るも無残な結末が待っているだけなのよ……」
ママの顔こそ見るも無残だった。ママは自分の台詞に陶酔してか、目つきも虚ろで、顔色も青ざめていて、眉間に力が入っていて、ぞっとするような恐ろしい形相になっていたのだ。
一方わたしは、ママの迫力にすっかりのまれていた。きっとそうなんだ。結局わたしは世間知らずで、自分の力だけじゃなにも始められない。
その証拠に、卒業して一ヶ月にもなるっていうのに、わたしには将来の展望もなにもないじゃないの……。このままずるずると日々過ごしているのは、むなしいだけだわ……。
「イヤだったら……、断ってもいいのよね?」
「そうよ、美咲ちゃん! 当たり前じゃないの!」
わたしの言葉にママははしゃいで手を叩いた。
「断る可能性のほうが大きいけど……」
「そんなこと、お会いしてみなければわからないでしょ!」
うん、その通り。
「では、この話、進めておくからな」
運ばれてきたスープの湯気の向こうで、パパは満足気に頷いた。
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