陸 クラウベルクの天使

2/9
前へ
/83ページ
次へ
 魔塔の魔術師達にとってルクレツィアとは…ノーマンではないとしても魔法が使えない時点で彼女に価値はないと考える者が多かった。  足繁く図書館に通うルクレツィアを白い目で見ては、魔法も使えないのに無意味な事を…と、鼻で笑う者もいた。マイロもそのうちの一人だった。  しかし、どんなに侮蔑的な目を向けられてもこの小さな少女は萎縮する事なく、前を向いて歩く。  『お前はお前のままでいいんだ』と、ヴィレンの温かな魔法の言葉が消えない炎としてルクレツィアの胸の中に灯っているから…もう、帝都の屋敷で卑屈になり一人泣いていた頃の彼女とは違うのだ。  今後、『ノーマン』と馬鹿にされたとしても、もうルクレツィアが下を向くことはない。  いくら侮蔑的な目で見られようと、笑顔を絶やさずに前を向き、健気で愛らしい小さな少女。彼女の笑顔と明るさに触れて、皆、ルクレツィアに絆されてきている…。  魔術師達の知るクラウベルク家とはディートリヒとレオノーラ、この二人である。二人とも、愛想笑いすら見せない何とも近寄りがたい人柄であるのに対し、ルクレツィアは愛らしさの権化…。  そこに癒しを見出す者達によって、ルクレツィアはクラウベルクの天使だと囁かれるようになっていた。  少しずつ、魔塔の雰囲気が変わってきていた。ルクレツィアが、魔法の使えない少女が、彼らを変えていったのだ。  ルクレツィアがヴィレンのおかげで変われたから、その小さな変化が周りにも影響をもたらした結果だった。  ルクレツィアがイスラークに帰郷してから、三ヶ月の月日が経っていた。  あれからヴィレンは魔塔の壁を破壊し周りの者に迷惑をかけた罰として、半年間、毎日午前中の一時間だけ魔塔で掃除や魔術師達の手伝いなどの奉仕活動をすることを、魔塔主であるディートリヒに言い付けられていた。  その間にルクレツィアはヴィレンを待つ場として、頻繁に図書館を訪れるようになっていた。  牢獄に入れられていたニックは、すぐに釈放され…そして、魔塔の魔術師を破門された。  実はあの後、ニックを恨んでいた何者かの仕業により、牢獄の門番がいない隙に報復されたのだ。  無抵抗に暴行されて気を失っているニックが発見された事で、ディートリヒはこの件を重く受け止めて、ニックを守る意味で魔塔には置いておけないと判断した。  結末は後味が悪いものとなってしまったが皆、他人への関心が薄いため、魔塔の雰囲気は然程変わることはなかった。  ルクレツィアが着席し本を読み始めて暫く時間が経つと、図書館の扉が勢いよく大きな音を立てて開く。 「ルーシー!」  ヴィレンだ。図書館では静寂を愛するマイロは、どうしてもこのヴィレンの行動が許せない。 「おい。図書館では叫ばず静かに入ってこいと、何度言ったら分かるんだ?」 「あ、(わり)ぃ悪ぃ」  注意するマイロにヴィレンは悪びれもなく笑って流すように謝ると、ルクレツィアの元へ走って行ってしまった。 「走るな!」  重ねて注意するも、ヴィレンはこちらを振り返りもしない。このヴィレンの生意気な態度に、マイロはルクレツィアに心を許していくのに比例して、ヴィレンが嫌いになっていく。何度注意しても彼に改める気がないからだ。 (ルクレツィアは礼儀正しいし落ち着いているし…同じ子どもでも、天と地の差だな! ヴィレンも少しは彼女を見習うべきだ)  不機嫌な顔で仕事机へ着席するマイロ。腹立たしい気持ちを抑えて、仕事の一つである魔法書の復元作業を再開した。 「ルーシー、なに読んでんだ?」 「あ、ヴィレン。この本は、お兄様がお勧めしてくれた生物研究書シリーズの海の生物について書かれた本で…今日の奉仕活動は終わったの?」  本から顔を上げてニコリと笑うルクレツィアに、ヴィレンもニカッと歯を見せては「終わったぜ!」と笑顔を浮かべた。  どうやら今日は植物を研究する魔術師の手伝いとして、水遣りを手伝ってきたらしいヴィレン。 「属性の違う花を交配させる実験をしてるらしくて…見てて結構面白かったぞ!」  へぇ。と、ルクレツィアも興味深そうにヴィレンが見聞きしてきた話を聞いていた。 「この後は何して遊ぶ?」  ヴィレンが尋ねるとルクレツィアは本を閉じながら答える。 「今日はこの後、お父様が街に出ようって言ってたよ」 「街に? 買い物か?」  ルクレツィアは頷くと、「前にジェイから手紙が届いたって言ってたでしょ」と説明する。  ヴィレンは思い出したように「あぁ、そういえばあのデザイナーがイスラークに店を出すって、前に言ってたな」と頷き返した。
/83ページ

最初のコメントを投稿しよう!

539人が本棚に入れています
本棚に追加