陸 クラウベルクの天使

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 *  ルクレツィアとヴィレンが氷の扉を通ってイスラーク城へ戻ると、ディートリヒとグリムが二人を待っていた。 「お父様、お兄様!」  ルクレツィアはパァッと表情を明るくさせて、ディートリヒへ抱き付いた。 「戻ったな、ルクレツィア。約束通り、街へ行こうか」 「はい!」  娘に抱き付かれて嬉しいディートリヒは、緩んだ笑顔を浮かべてはルクレツィアを抱き締め返した。そして、すぐに隣でじっとこちらを見つめるグリムの視線に気付き、慌てて表情を引き締めてみる…。 (何度見ても、ディートリヒ様のこういったお姿は見慣れないなぁ…)  グリムは新生物を発見した気持ちだった。魔塔の魔術師も含めてグリム達は今まで、冷淡な雰囲気であり戦場でも敵に恐れられる完全無欠な恐怖の魔塔主という強者の姿しか知らなかったので…このように気の抜けた隙だらけなディートリヒが珍しいのだ。 「こほん。そろそろ馬車に向かおう。待っている者もいるしな」  今日のルクレツィアは、ディートリヒとヴィレン、そして護衛のグリムと一緒にお出掛けだ。とても楽しみである。  ディートリヒがグリムに護衛を提案した後、後日ディートリヒの元にグリムが訪れてそれを承諾した。  彼の中で色々な思いと葛藤があったのだが、結局はヴィレンやニックからルクレツィアを守ろうとした気持ちも自分の本心だと気付いて受け入れることにしたのだ。  『良かったの?』と、ルクレツィアが尋ねれば、グリムは『…まぁ、妹を守るのも兄の務めだし…』と顔を真っ赤にさせながら恥ずかしそうに答えていた。  グリムがルクレツィアの護衛になった事で、彼の住居も魔塔からイスラーク城内へと移動されたのだった。  ルクレツィア達が馬車へ向かうと、そこには二人の大人の姿があった。レイモンドとレオノーラだった。 「げぇ、レオノーラもいんのかよ…」  彼女の姿を見て、すぐに渋い顔をするヴィレン。  ルクレツィアの教育係である彼女は、ある日、人間が使う文字を教えて欲しいとヴィレンに頼まれたことをきっかけに、ヴィレンの教育にも心血を注いでいた。主に教養方面を。 「ヴィレン様、正しいお言葉遣いを心掛けてください」  ギロリと鋭い視線がレオノーラから飛んできて、ヴィレンは思わず目を逸らす。 (…こんな筈じゃなかったんだけどな…)  彼はレオノーラが苦手だった。母ヴァレリアとは違う方向性で、レオノーラを恐ろしく思う。  ちょっと文字を教えて貰えればそれで良かったのに…まさか、礼儀作法の授業まで強要されるとは…と、ヴィレンは軽い気持ちで彼女に文字を習おうとした自分の過去の行いを後悔していた。 (それもこれも、あのユーリって奴がルーシーに手紙なんか送ってくるから…)  そう。ヴィレンはルクレツィアが他の男から手紙を受け取っている事実を知ってしまい、ヤキモチを妬いたのだ。  好きな女の子が他の男に恋文(ラブレター)を貰う…なんて、許せるわけがない。だから、自分も負けじとルクレツィアに恋文(ラブレター)…いや、まずは手紙を書いてやろうと思ったのだ。  そんな少年は自身の恋心ゆえに、鉄仮面(レオノーラ)先生の容赦なく厳しい授業に耐える毎日…。  でも、たまにあるルクレツィアとのダンスの練習が密かな楽しみになっているヴィレンは、今のところ授業を辞めたいとは考えていないようだ。  始めこそ厳しく冷たい印象のレオノーラだったが、ルクレツィアの中ではもうその印象は消え去っていた。  ルクレツィアが氷の扉を通り数時間行方不明になっていた日…魔塔からイスラーク城へ帰ってきた彼女の姿を見つけたレオノーラは、城から飛び出してきてはルクレツィアを力いっぱいに抱き締めた。  驚くルクレツィアだったが、余程心配していたらしい彼女はその目に涙を溜めて肩を震わせていたのだ。 『初日からこんなにも心配をさせるなんて…!』  と、涙するレオノーラの姿を見てルクレツィアは、だから皇太子妃教育係の教師とレオノーラは違うと思ったのか。と、納得した。 (目が全然違う。厳しくとも、レオノーラ先生の目は温かくて、私を全く蔑んでいなかった)  ただレオノーラはしっかり公私を分ける人であって、自分は別に彼女から疎まれていないのだと分かると、ルクレツィアはレオノーラが大好きになったのだった。
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