陸 クラウベルクの天使

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「姉上……いや、スペンサー夫人。その手に持っているものは?」  ずっと気になっていたらしいディートリヒが、レオノーラに尋ねた。 「何って…写真機ですが?」  実は、イスラーク城にはこの世にひとつしかない画期的な工学魔道具があった。それが今レオノーラが手にしている『写真機』という魔道具だ。  ルクレツィアの母、カレンが生前に思い付いたようにレオノーラへ話した事がきっかけで生み出された魔道具。カレンの世界にある機械の仕組みと知識を利用して、レオノーラが発明したものだ。魔石を動力源として誰でも簡単に使用出来る。  元クラウベルク公女のレオノーラも類に漏れず、とても優秀で天才的な魔術師だ。よって、カレンの『確か…レンズに光を集めて…フィルムに焼き付けると…被写体が映って写真になるの……たぶん』という、ふわっとした説明からでも、彼女は魔術式を組み込んだこの写真機を完成させてしまった。  彼女がここまで写真機の制作に必死になっていたのも、全てはカレンのためだった。レオノーラとカレンは義姉妹の前に、とても仲の良い友人だったのだ。  衰弱していくカレンの『家族写真を撮りたい』という願いを叶えるために生み出された魔道具が、この写真機であった。  だからイスラーク城には、画家が描いた肖像画とは別にカレンが映る写真がたくさんあった。  その写真の一つひとつがとても綺麗な額縁に収められており、いつも使用人達の手で指紋ひとつないよう磨かれている。  ルクレツィアは初めて見る母親の写真に、母はこの城の者たちにとても愛されているんだなぁ。と、少し羨ましく思ったほどだ。  そして、現在ルクレツィアの部屋にも写真が二枚飾られている。一つは、ディートリヒとヴィレン、グリム、そしてレオノーラとレイモンドと一緒に撮った写真だ。  もうひとつは、ディートリヒとカレン、そしてまだ生まれたばかりの赤子の自分が映っている家族写真だった。レオノーラが、いつかルクレツィアがイスラークに帰ってきたら渡してあげようと準備していたものだった。  写真の中のカレンは、黒髪で色白でとても小さな女性だった。この国では見かけない顔立ちをしており、ディートリヒより年上と聞いていたがまだ少女のように見える幼い顔立ちの人だ。  毎朝、カレンはどんな声なのだろうと思いながら『おはよう、お母様』と挨拶するのがルクレツィアの日課になっている。 「ただ買い物に行くというのにそのような物が必要なのか? そもそも、何でスペンサー夫人まで付いて来るんだ」  ディートリヒが少し嫌そうな顔でレオノーラに苦言を述べるが、レオノーラはどこ吹く風という様子で聞こえないふりをしていた。 「いらっしゃいませ、クラウベルク公爵様!」  イスラークの街の外れにある人通りの少ない路地にジェイの店はあった。 「このような小さな店にまで足を運んで頂き、感激でございます…」 「なに、俺もお前の作品は気に入っている…城に呼んでもよかったが、そうしたらお前の限られた作品しか見れないだろう? ルクレツィアも、それは悲しむと思ってな」  ディートリヒが優しい目をしてルクレツィアの頭を撫でてやると、ルクレツィアは肯定するように笑顔で頷いた。 「ジェイ、お久しぶりね」 「まさかここまで追っかけてくるとはな」  ルクレツィアとヴィレンがジェイに話しかけると、ジェイはときめいたような表情を浮かべながら言った。 「は、はい…僕はこの一生を服作りに捧げるつもりです。でしたら、僕は僕のためにお二人のお側で服を作りたいのです!」  ジェイの決意は固いようだ。ジェイの店は帝都にある兄の店の暖簾分けのような形で出店したものだった。オーナーは変わらず兄であり、ジェイは店長兼デザイナー、という形だ。  ジェイが何度も兄を説得し、頼み込んで、やっと認めてもらえた出店だった。 (『ノーマンの店』ではきっと、あまり自分の服は買って貰えないだろう…でも、僕は僕の限られた人生を悔いなく精一杯に生きたい)  それが我儘だと分かっていても、諦められない夢だった。 「素晴らしいデザイナーにここまで言って貰えるなんて、とても誉れな気持ちだわ」  温かな笑顔を浮かべるルクレツィア。その笑顔を見たジェイは思った。 (あ…ルクレツィア様の笑顔が帝都にいた頃と違う…。このイスラークでの日々がとても幸せで満ち溢れているんだな…)  そして、ルクレツィアの周りにいる者達に目を向ける。  ディートリヒ、ヴィレン、グリム、そしてレイモンド…皆が優しい目をしているのだ。…一人を除いて。 (………どうしてあの貴婦人は、あんな気迫のある恐ろしい顔で僕を見るんだろう…?)  まるで敵兵を視察する軍人のような鋭い目付きだ。 (こんな野暮ったい男に、果たしてルクレツィア様に相応しい服が作れるとでも言うの…? もし不相応なデザインを描きでもしたら…ただじゃおかないわ)  と、いう顔なのである。
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