陸 クラウベルクの天使

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「…あ、あの…ところで、スペンサー夫人は先ほどから何をしていらっしゃるのですか?」  少ししんみりした空気を変えようと、ジェイは先ほどから気になっていた事を尋ねてみることにした。「その手に持つものは…?」と、興味深そうにレオノーラが持つ写真機を見つめるジェイ。 「これは『写真機』と言って…私が若い頃に制作した魔道具です。写真を撮影できるのですよ」  レオノーラの淡々とした説明を聞いて、ジェイは「しゃしん…?」と聞いた事もない単語に首を傾げる。 「……写真とは、これの事です」  仕方ない、といった様子でレオノーラが懐から大事そうに何かを取り出した。それは一枚の写真のようだ…。  ジェイは差し出された写真を見下ろす。何が映っているのか好奇心に駆られたディートリヒとレイモンドもジェイの隣に立ち写真を覗き込んでいた。  そこには…ルクレツィアとヴィレンが気持ち良さそうに天使の寝顔で仲良く昼寝している姿が映っていた。 「こ……これは…!?」  ジェイが驚きの叫びを上げる横で、ディートリヒの目付きが変わり鋭い目をレオノーラに向けていた。 「姉上、この写真はもう一枚…」 「ありません」 「ではこれを俺に…」 「差し上げられません」 「いくら払えばその写真を…」 「その意思はございません」  ディートリヒとレオノーラが顔を見合わせた。そして、顔色ひとつ変える事のない二人から何やら不穏な空気が流れ始めて…店内の気温が2度は下がった気がする。  二人が静かに姉弟喧嘩を勃発させている中、ジェイは目を輝かせながらいつまでも写真を眺めていた。 (すごい…まるで本物みたいだ! 画家が描く絵よりも細部までしっかり…これがあれば……)  ジェイは意を決して顔を上げた。 「スペンサー夫人!」  普段は自信の無さそうな表情ばかり浮かべているジェイが、強い眼差しで真っ直ぐレオノーラを見ている。 「この写真機で、世界を変えてみませんか!?」 「……貴方、軟弱者のように見えて面白い方ですね」  珍しく笑みを浮かべたレオノーラ。『世界を変える』というフレーズが気に入ったらしい。 「この写真機がもたらす影響と可能性を考えると、個人で使うだけではあまりに勿体無いと思うんです!」  ジェイは興奮した様子で「勿論、個人で使う分にも優れものですが」と付け加える。  ジェイが言いたいことを要約すると、この『写真機』をもっと生産して世に流した方がいいという事だった。 「もしこの写真機を商会が使用したとします。売り出したい商品を撮影し街に配ってみたら…どうなると思いますか?」  レオノーラは想像する。 「…その商品の認知度が上がり、商品の詳細を理解して貰える心理効果…そこから繋がる購入意欲…かしら?」  そうです! と、ジェイは目を輝かせて叫ぶ。 「そして更なる集客に繋がるんです!」  レオノーラやディートリヒは商人ではないので、この写真機の本来の影響力を考えてみたこともなかったが、デザイナーとはいえ商人の端くれであるジェイはすぐにこの活用方法に思い当たった。 「だからですねっ、ぼ、僕が言いたいことはっ…」  興奮の治らないジェイは呼吸するのも忘れて、顔を真っ赤にしている。 「ジェイ? 少し落ち着いたら…?」  そんな彼を心配というか、少し引き気味のルクレツィアが声を掛けていた。 「この写真機を僕にも売ってください! そうすれば、僕のドレスを着たルクレツィア様を…僕の女神(ミューズ)を、世に知らしめることが出来ます!」  レオノーラだけでなく、ディートリヒやレイモンド、大人組がハッとした顔をした。  ジェイのドレスを着たルクレツィアの写真が世に出回れば…それはもう、ジェイにとっての名刺代わりとなる。  本来なら、店に足を運んで貰いカタログを見て自分たちがデザインしたドレスを知って貰えるのだが…そうではなく、その写真を一枚新聞紙の広告欄に載せてしまえば、皆がジェイのドレスに注目するだろう。  それは、無名デザイナーが顧客の殆どを独占している有名売れっ子デザイナーに対抗し得る唯一の手段となるのだ。  今、イスラークの端にある小さな無名の店の中で、カレンが生まれた世界で言うところの『モデル広告』の概念が生まれたのである。 (そうなると、世界中の者が我が娘ルクレツィアの愛らしさを知ることになるのか…ふふ、もしや求婚書が各地から殺到するんじゃないか…?) (もしそんな事が実現されたなら…記事の切り抜きブックを作成しなければならないわね。…ハッ、もしかして、今まで撮影した写真もそのように製本してしまえば、いつでも見返せるし保管しやすいのでは?)  …いや、若干2名はただの親バカ、伯母バカなだけであるが…。しかし、確かにジェイのこの提案は、帝国の市場をガラリと変えてしまうだろう。
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