3人が本棚に入れています
本棚に追加
あと一回、もう一回
普段着以外は、息子の卒業式で着たスーツくらいしか持っていないから、それで会場に向かう。
いまいち会場の場所が分からず
駅から出たところで、通りがかりの女性に
道を尋ねた。
「あ、私もそこに行くので、一緒に行きましょう」
親切にそう言ってくれたので
「もしかして日奈汰くんのファンですか?」と聞いてみた。
「ええ、まあ」
「わぁ、良かったぁ。若いお嬢さんばかりで居づらいと思っていたんで」
「まあ、私は彼より20歳年上ですからね」
その女性は、苦笑いをした。
「あ、なんかすみません。私は35も年上なんです。恥ずかしいですよね?」
私はつい本当の歳を言ってしまった
するとその女性は「それは関係ないですよ!いくつになっても、好きやトキメキを持てるというのは素敵です」
「そうですか?!」
私は会場までの道すがら、その女性に小南くんを好きなったきっかけ。どれだけ夢中か、熱く語っていた。
「日奈汰が、こんな風に愛されているのは、幸せな事ですよね。
さあ、ここが会場ですよ」女性はそう言うと
指さした先には
[小南 日奈汰ファンイベント]と書かれた
看板がちょこんと置いてある。
「ここなんですね。ありがとうございました」
私はお礼を言っていると、いえいえと手を振る彼女に
階段を駆け上ってきたスタッフらしき人が
「浅岡マネージャー!衣装サイズ大丈夫でした!」と叫んでいた。
えええ?この人、マネージャー!?
「そう、良かった。では今日は楽しんでくださいね」と浅岡さんは言い
中へ入っていった彼女に、常連のファンたちはマネージャーと知っているようで
口々に「お疲れ様です」「今日はよろしくおねがいします」と声をかけていた。
いきなりやってしまった!との思いでロビーを見渡すと、若くて可愛いお嬢さんたちで埋め尽くされている。
アクリルスタンドと一緒に自撮りする人。
グッズをたくさんぶら下げ、ひらひらと可愛いワンピースや推しカラーのグリーンで小物を揃えている人などなど。
グレーの地味なスーツで、場違いな自分は、ちょっと帰りたい気持ちになったが、せっかく勇気を出してきたし、さっきのマネージャーさんも楽しんでと言ってくれた。
とにかくキラキラのお嬢さんたちの間に並んで、グッズや人生初のペンライトを手に入れた。
いよいよ、
会場入りして、席をさがす。
15列目。
思っていたより近い。あの位置に、日奈汰くんが立つんだ。
ここってど真ん中?キラキラのファンの真ん中に
よどんだグレーの私がいたら、そこだけ
穴が開いたみたいに見えるんじゃないか?
うわ、どうしよ。
色々考えているうちに、きゃーと歓声と拍手が巻き起こった。
キラキラ達が一斉に舞台に視線を注ぐ。
同じ空間で同じ空気を吸い、声の響きをダイレクトに浴びる。
まんべんなく注がれる日奈汰くんの視線は、私にも注がれる。
目が合った!と思い込むには十分な時間だった。
大勢の中の一人でも、彼の目に映り、記憶の片隅に残る幸せは、何者にも代えがたい。
曲が変わると一斉に、ペンライトを持ちだし
同じ色に点滅させている。
もたもたする私に、隣の女の子がスイッチの入れ方と、色の切り替え方を教えてくれた。
同じ方向に振られるペンライトは、光の波となってすごくきれいだった。
初めての経験と興奮で、自分の頬が蒸気しているのが分かる。
ペンライトの使い方を教えてくれた女の子が、普通にファンとして接してくれて、周りに対しての気後れは消えた。
イベント終了後、出口で一人一人お見送りする日奈汰くん。
そんな事があるとは知らない私は、順番が近づくにつれ、足がガクガクしてきた。
楽しそうに一言二言、言葉を交わすファン達。
私には無理だ!と思っていたら順番が来てしまった。
目の前にはスマートで、きれいな顔の日奈汰くんに、和哉の面影をさがしている自分もあった。
見とれていると日奈汰くんの方から
「マネージャーから、熱い思いを聞きましたよ。ありがとうございます!これからもよろしくお願いします!」と言ってくれた。
頭が真っ白になって、
「はい。応援します」としか言えなかった。
隣のマネージャーさんに目をやると、笑顔で目配せしていた。
見つめた日奈汰くんの瞳は、やっぱり和哉と同じ、深くて優しい。
それ以外はどんな衣装だったか、イベントでのトーク内容も飛んでしまった。
上の空のまま、子供達が寝静まった
リビングの和哉の写真に報告した。
目の前で見た、日奈汰くんの瞳の中に、和哉を感じて
「和哉、もう一回、あと一回で良いから
逢いたいよ」涙が自然と流れた。
最初のコメントを投稿しよう!