【1】隣人

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【1】隣人

涙も出ない そんな夜 君を見つけた 君は数人の友達らしき人達に囲まれて、身体の内側から白光しているようだった 透明感に満ちた真っ白な肌に、大きな丸い瞳 その瞳を縁取る長い睫毛 すっと通った鼻梁 小さい癖にぽってりとした桜色の唇 無邪気に爆笑している 「藤倉!テメェ何してんだ!早くしろっ!」 耳元で噛みつくように怒鳴られて、我に返る。 ねえ、君 もし、もう一度会えたら 話し掛けてもいいかな その瞳に俺を映して そう思うだけで、今夜を、今を、乗り切れるから 今夜も 誰のせいでもない雨が降る… ピンポーン。 夜の9時。 今、帰宅したばかりの如月(きさらぎ)はインターフォンの音に眉を顰めた。 誰とも約束している覚えは無い。 友達か誰かの突入か? 酔っ払ってたりしたら最悪だ… ピンポーン。 もう一度鳴って、仕方無く如月はインターフォンの応答ボタンを押した。 「はい?」 『夜分遅くにすみません。 7時過ぎにも伺ったんですけど、いらっしゃらなくて…』 モニターには、長身でスリムの、瞼を伏せ気味にした、如月と同じ年くらいの青年が映っていた。 しかし、如月には見知らぬ人間だった。 モニターに映る青年は続ける。 『隣りに引っ越して来た藤倉悠真(ゆうま)といいます。 引っ越しのご挨拶に伺いました』 如月は、ああ、と思った。 帰りに寄った郵便箱の長らく空いていた自分の隣りが、確か『藤倉』だった。 その時は誰かが入居したんだ、くらいにしか思わなかった。 それで自分の部屋に入る為に、隣りの前を通った時、チラリと表札が目に入った。 それも確か『藤倉』だった… 『如月さん?』 名前を呼ばれて如月はハッとした。 「すみません。直ぐに開けます」 如月はパタパタと玄関に走った。 1LDKの単身者向けのマンション。 だがリビングは15畳あり、ベッドを置いてもまだ余裕がある。 それに、それとは別に、キッチンスペースもちゃんとあって、二人でも余裕で使えるくらいのテーブルや椅子も置ける。 男の一人暮らしには十分過ぎる広さだ。 ただ、少し築年数が古いことを除けば。 それでもオートロックも完備され、マンションの外壁も綺麗に塗り直されているし、部屋も勿論リフォーム済みだ。 何より築年数が古いお陰で、都内の中心地なのに家賃が安い。 駅からもタクシーでワンメーター。 歩いて15分ちょっと。 如月はもっぱらバスを利用している。 都内に職場がある如月には、これ以上条件の良い物件は無い。 実は如月が勤める『会社』にも『寮』はあるが、如月はある理由からそこを使う気にはなれない。 だったら都内にある実家暮らしに戻った方が良い。 如月は鍵を開けると、まずチェーンを着けたまま「こんばんは」と言ってドアを開けた。 「こんばんは。初めまして」 相手がペコリと頭を下げる。 手にはのし紙の巻かれたタオルのような物を持っている。 服装も清潔で、シンプルだがセンスがある。 如月は『本物の藤倉さん』だな、と思い、チェーンを外した。 「藤倉です。夜分遅くにすみません」 藤倉はまたマンションの廊下で頭を下げると、「これつまらない物ですけど、引っ越しのご挨拶に」と、ビニールで包まれたのし紙付きのタオルを如月に差し出した。 「ご丁寧にどうも。 如月です」 如月が手を伸ばし、タオルを受け取る。 藤倉が顔を上げて如月を見る。 すると藤倉は、何故だか驚いた顔をして固まった。 如月がクスリと笑う。 「俺の顔に何か付いてますか?」 「は、はい!付いてます!」 意気込む藤倉に、如月は、本当に何か付いているのかと、自分の頬に触れた。 「え?どこに?何が?」 「そっその顔…! 目と鼻と口が…!」 藤倉に指差され、如月はキョトンとしたのち、吹き出した。 「藤倉さん、面白い方ですね。 俺も一応人間なんで。 目と鼻と口くらいあります」 「え…いや…えーと、その…」 藤倉は赤面して、頭を掻いている。 「ち、違うんです…知り合い…そう!知り合いに良く似てたからビックリして! すみません、失礼なこと言って!」 藤倉がまた頭を下げる。 如月はまだクスクスと笑っている。 そして、藤倉の目の前に、真っ白な手が差し出された。 「え…?」 藤倉が視線を上げると、如月はにっこり笑った。 「初めましての握手。 これから、お隣同士、よろしくお願いします」 「は、はい!」 藤倉はデニムパンツで右手をササッと拭くと、そっと如月の右手に右手を合わせた。 スリムな藤倉からしても、藤倉より10センチ程背の低い如月の手もワイシャツから覗く手首も、か細い。 その上、顔の肌と同じように真っ白な手だった。 手に触れただけで、いつまでも握手をして来ない藤倉の手を如月が握って離す。 「じゃあ、また。 お休みなさい」 その一言に、藤倉は手を引っ込めた。 これは『さようなら』と同じ意味だ… 「じゃあ、お邪魔しました!」 藤倉はまた頭を下げると、如月に背を向けた。 如月は微笑んだまま、ドアを閉めようとする。 その時。 「…洗って下さい」 藤倉がポツリと呟いた。 その声は今まで話していた藤倉と違って、格段に低く、小さかった。 だが、如月の耳にハッキリと響いた。 藤倉が顔だけ、振り向く。 特徴的な黒目がちの瞳が悲しげに光っている。 如月はドアを閉める手を止めた。 「…洗って下さいね」 「何を…?」 「俺なんかと握手した手を…。 よく洗って下さい。 すみませんでした。 じゃあ」 如月の言葉が出ない内に、藤倉が隣りの部屋のドアの鍵を開けて、室内に消えて行く。 如月は握手した右手の手首を左手で握ると、閉まった藤倉の部屋のドアを見つめていた。
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