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【3】笑顔
南野と、如月、結城は名刺交換をした。
如月と結城の名刺には『財務省 大臣官房 総合金融課』と記されていた。
フルネームは如月玲那と結城一輝。
南野の名刺を見て、結城がまず声を上げた。
「南野さん、私と同じ名前ですね!」
「まあ、漢字だけですけど。
結城さんはたぶん『カズキ』か『カズテル』でしょ?」
南野の名刺には、漢字のフルネームの下に、小さくローマ字表記がされている。
それを見付けた結城が、「あ…南野さんはイツキとおっしゃるんですね」と、少し落胆した声を出したのが南野は可笑しかった。
如月も笑っている。
その笑顔が余りにも無邪気で、南野の目は惹き付けられた。
すると突然、如月が真面目な顔になる。
「結城、個人的な話はそれくらいにして。
私達には余り時間が無い」
「そうですね」
如月の言葉に結城が頷く。
小川が「では早速」と言って、如月と結城、そして南野を、ミーティングルームへと案内した。
まず小川が概要を説明し、もう一人の担当者が細かく説明をした。
如月と結城は無駄に話に割り込むでも無く、黙って説明を聞いている。
最後に新しいソフトを渡す期日を小川が告げると、如月が初めて口を開いた。
「先程、南野さんからも説明がある、と仰られていましたが、南野さんからお話は伺えないのでしょうか?」
「それは…」
小川と担当者が一瞬顔を見合わせて、小川が如月に向き直る。
「如月さんも結城さんも、私共の説明でご理解頂けたかと。
これ以上の説明は重複になってしまいます。
南野さんにはアドバイザー的な立場で同席頂いた訳で…」
「ではそのアドバイザー的な説明もお聞かせ下さい」
如月がピシャリと言う。
先程、南野の名前に落胆した声を出した結城を無邪気に笑っていた如月はどこにもいない。
如月が冷たい声で続ける。
「小川さん、私達はあなた方に今回の件を依頼した。
それなのにあなた方は、私達に何の承諾も無く、外部の人間を引き入れた。
情報漏洩になるとは思いませんか?」
「それは…」
小川が青ざめる。
「この南野さんの必要性を私達に認識させ、納得させる為にも、私達は南野さんから直接お話を伺わなくてはならない、そうは思いませんか?」
「は、はい…まあ…そう、ですね。
では南野さんからも説明を…」
南野はチラリと小川を見た。
本当に二度手間だ。
馬鹿馬鹿しい。
そう視線に込めて。
だが小川は拝むように南野を見つめ返す。
南野はフウッと息を吐くと言った。
「では今回のソフトの不都合についてのご説明を始めます」
如月と結城は南野の説明をまた黙って聞くと、お互いを見て頷きあった。
そうして結城が新しいソフトの受け渡しの日を確認して、二人は帰って行った。
「なーんか、疲れた」
南野は小川に差し出されたペットボトルのお茶を手に取り、リフレッシュコーナーのソファに凭れ掛かった。
「お疲れ様です。
南野さん」
小川も苦笑いしている。
「役人てみんなあんななの?
『私達には余り時間が無い』とか言っといて、あんな無駄なこと…」
「いや、今回の落ち度は自分にあります。
如月さんの仰った通り、先に南野さんのことを先方に説明して承諾を得てから、南野さんにソフトの修理を依頼すべきでした。
南野さんにも嫌な思いをさせてしまい申し訳ありません」
「別に。
嫌とかじゃないですけど…。
仕事だし。
だけどなあ…」
「何ですか?」
「如月さんがああいう言い方してくるとはね…。
ちょっとガッカリ。
最初の印象良かったから」
南野がぐいっとお茶を飲む。
「南野さんの第一印象通りの方だと思いますよ」
小川もペットボトルのコーヒーに口を付けると微笑んで言った。
「そうですかね~」
「そうそう。
あちらは百点満点の準備をして、初めてスタートラインに立てる。
どんな小さなミスがスタートをマイナスからにしてしまうか分からない。
そういう世界にいらっしゃいますから。
慎重過ぎて丁度良いんです」
「俺は今の会社で良かった~。
そんな世界じゃ息が詰まって死んじゃうよ~」
南野がふざけてうーんと伸びをしながら言って、小川がクスクスと笑う。
「ここだけの話、残業削減が常識になっている昨今でも、密かに月300時間の残業でも平気でこなすらしいですから」
「300時間!?
マジ!?
じゃあ残業代だけで生活出来るじゃん!」
「南野さん…」
小川が諭すように言う。
「そんな訳ないでしょう。
人事が許す筈が無い。
あのお二人はキャリアです。
恐らく労組に入っていない。
残業代なんてまともに出ないらしいですよ。
サービスですよ、サービス!」
「えぇーブラックじゃん!」
「何でも若手の年収は、大手メーカー並だとか」
「ひえー…ホント、今の会社で良かった~」
南野はスーツが皺になるのも構わず、ズルズルとソファの背もたれを下がっていった。
「お上がりなさいませ!」
藤倉は最後の客の靴を玄関に置いて跪いて待っていた。
店の女の子と客が別れを惜しんでいる。
もう見慣れた光景。
ドアをくぐる客を見送り、女の子が戻って来る。
「ふう…」
「お疲れ様でした!」
藤倉が女の子に言うと、今日の立ち番のボーイが入って来て、「時間です!」と店内に向かって言った。
「よし。閉めろ」
チーフマネジャーの緒方が言って、藤倉も立ち番のボーイを手伝って店のシャッターを下ろす。
店の営業は24時までと法律で決まっている。
藤倉が使用済みタオル置き場の、うず高く積まれたタオルを、明日の朝業者に直ぐに渡せるように整理していると、トンと背中を叩かれた。
「はい?」
振り返るとさっきの女の子、この店のトップ3の売上を誇る『沙也香』が立っていた。
「ねえ、藤倉ちゃん、だったよね?」
「はい」
「あたしね、明日早番だから店泊するの。
3号室にいるから、後で来てよ」
「あの…でも…」
「マネジャーは良いって。
じゃあね~」
沙也香はドレスを翻らせ、去って行く。
沙也香が見えなくなると、一緒に作業していた先輩の三上が藤倉に囁いた。
「藤倉~お前も大変だな~。
何かお前を喰い合うゲームが女の子達の間で流行ってるみたいじゃん!
ここは俺がやっとくから、お前はシャワー浴びて3号室へ行け!」
「でも…」
「でも、じゃねえよ。
沙也香さんみたいな稼ぎの良いお姉様方の言うことは絶対!
ちゃんと待たせ過ぎないように、早すぎないようにな!」
「は、はい」
藤倉は足早に、従業員専用のシャワールームに向かった。
手早くシャワーを浴び、私服に着替え、髪にざっとドライヤーを当てる。
それから3号室へ行き、一呼吸置いてドアをノックする。
ドアがガチャリと中から開く。
やはりシャワーを浴びたらしい沙也香が藤倉の腕を取り、部屋に招き入れる。
「藤倉ちゃん…」
小柄な沙也香が背伸びをして、藤倉の首に腕を回す。
藤倉がそれをそっと支える。
「やさしいんだ、藤倉ちゃんは」
沙也香がうふふと笑う。
香水の匂いが、むあっと藤倉の鼻につく。
「まず…キスしよ、藤倉ちゃん」
藤倉は沙也香の唇に唇を重ねた。
藤倉が自宅マンションに着いたのは午前4時だった。
沙也香が『藤倉ちゃんは特別』と言ってタクシー代を持たせてくれたので、電車が動くまで店泊はせず、タクシーで帰宅した。
同じようなタクシーが、藤倉の降りたタクシーの前に一台停まっている。
藤倉はそのタクシーを降りた人を見て、「あっ」と声が出た。
お隣りの『如月さん』だ。
藤倉も慌てて清算を済ますと、タクシーを降りた。
如月は郵便箱の中身を確認すると、郵便物を掴んでオートロックの番号を入力し、エレベーター前に向かう。
如月の顔色は悪かった。
元々真っ白い肌が青く透けてしまいそうだ。
如月はやって来たエレベーターに藤倉が一緒に乗って、やっと藤倉の存在に気付いたようだった。
「こんばんは…じゃないか。
おはようございます」
如月が微笑む。
だが、痛々しかった。
疲労にまみれているのが分かる。
「おはようございます」
藤倉も何とか笑顔で答えた。
「藤倉さん、いいな~。
デートですか?」
藤倉の胸がドキッと鳴る。
「いえ…仕事です」
如月がクスクスと笑う。
「藤倉さん、凄く良い匂いがしますよ?
シャワー浴びたばかりみたいだし」
藤倉はぐっと拳を握った。
「如月さんこそ…デートですか?」
「まさか!」
如月はあははと笑った。
「仕事です、仕事。
着替えに戻ったんです。
もう職場に泊まるのは限界で」
チーンと音が鳴って、エレベーターが5階に着く。
藤倉と如月の部屋がある階だ。
「じゃあ…これからまた?」
「そうです」
如月は頷きながら歩き、ビジネスバッグから部屋の鍵を取り出す。
「これから風呂に入って職場に戻ります」
「寝ないんですか?」
藤倉は思わず如月の青白い横顔を見つめた。
「残念ながら」
如月が藤倉を見上げる。
「寝ている時間はありません」
如月は藤倉の部屋の前を通り過ぎ、自宅のドアに鍵を差し込む。
「じゃあ、また」
如月がドアを開ける。
その背中に藤倉は言った。
「き、如月さんは何時に家を出るんですか!?」
如月は不思議そうに振り返った。
「7時20分です。
25分のバスに乗りたいので」
「そうですか…」
「それが何か?」
「い、いえ。
じゃあ、また!」
藤倉はペコリと頭を下げると、自分の部屋の鍵を開け、早々に扉の中へと消えて行った。
如月はどんなに短い時間でも風呂に入る時はバスタブに湯を張る。
そして顔だけ出して、全身を湯に浸かる。
耳にお湯がゴボゴボと摩訶不思議な音を立てるのを聞くのも好きだ。
そうして5分もしないでバスタブから出て、頭から全身を洗う。
後はもう身体が勝手に動く。
風呂から上がり、スキンケアを済ませ、髪をセットすると、スーツをそつなく着こなし、腕時計を嵌める。
2リットルサイズのミネラルウォーターのペットボトルを掴み、グラスに注ぎながら如月は苦笑した。
風呂上がりには気付かなかったが、冷蔵庫の中には水とビールしかない。
何か少し食べておきたかったが、仕方が無い。
行き掛けにコンビニにでも寄って、何か買ってから省庁に行こうと思い直す。
水を飲み干し、テレビに表示された時計を見る。
7:15。
丁度良い。
テレビを消し、全ての照明を落とし、玄関で靴を履く。
それから玄関の照明も消して部屋を出る。
バス停までは2分も歩けば着く。
そこもこのマンションを如月が気に入っている理由の一つだ。
いつものバス停。
いつもの人の列。
そんな中に、見慣れぬ顔が一人。
「如月さん、おはようございます!」
藤倉が手を振って駆け寄って来る。
「藤倉さんもまた仕事ですか?」
「いえ、俺は午後からです。
これを渡したくて」
藤倉が小さな紙袋を如月に差し出す。
如月が動かずにいると、藤倉が「バスが来ちゃうから!」と言って如月の手に紙袋を持たせる。
如月が紙袋を覗き込む。
「何ですか?」
「それは綺麗です」
「は?」
如月が顔を上げる。
藤倉と目が合う。
藤倉はにっこりと笑った。
太陽みたいに。
如月は思わず目を細めた。
「ちゃんとラップを使って握りましたから。
俺は触っていません。
あ、ネギとか豆腐を切る時は触っちゃったか…」
「藤倉さん?あの…」
「あ!バスだ!
如月さん、行ってらっしゃーい!」
藤倉はバスが見えなくなるまで手を振っていた。
如月は省庁のロッカーに着いてから、初めてゆっくり紙袋の中を見て、コンビニに寄ったことを後悔した。
中には小さな緑のポットと赤いバンダナに包まれたまだ温かい三つの小さな山。
如月はコンビニ袋と紙袋の両方とビジネスバッグを持って、自分のデスクに向かった。
途中、課用の冷蔵庫にコンビニ袋を入れ、ビジネスバッグをデスクの引き出しの一番下に仕舞う。
赤いバンダナを開く。
かわいらしい三種類のお握りがラップにくるまれている。
ポットの蓋を取ると、中身は温かい味噌汁。
お握りを一口食べ、味噌汁を飲む。
思わず「美味しい…」と呟く。
お握りも味噌汁も如月の胃を満たし、張り詰めた神経を解してくれたような気がした。
前の席の結城が爆笑する。
「如月くん!頬っぺた詰め込み過ぎ!」
周りの人達まで如月を振り返り見ては笑っている。
如月は真っ赤になって口元を両手で押さえると、藤倉の太陽みたいな笑顔を思い出していた。
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