【4】動き出す歯車

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【4】動き出す歯車

如月は藤倉の手作りのお握りと味噌汁で空腹が満たされ、プロジェクトルームに籠る為の用意をしながら、自分は少し疲れているのかも知れないと思った。 わざわざ今朝自宅に戻ったのに、自分らしくなく、忘れ物をしている。 泊まり込む為の用意。 ワイシャツやネクタイは省庁の近くにあるクリーニング店に出している。 スーツも3着程用意して時にクリーニングしてローテーション。 問題は下着など小物もろもろ。 それを忘れた。 だが、今日は木曜日。 後一日経てば、土日のどちからは帰れるだろう。 このプロジェクトの締め切りは来週の金曜日の14時。 14時迄に課長の決済印を頂けばゴール。 もう大体の目処はついている。 如月は中身がぎゅうぎゅうのドッチファイルを何冊もダンボールに詰め込む。 そこにやはり同じようなダンボールを持って結城がやって来る。 二人はダンボールを台車に積むと廊下を進む。 如月達が携わっている今のプロジェクト自体は、さほど大きな物では無い。 8人のチームのうちの2人が入省三年目の新人の如月と結城なのだ。 ただ、プロジェクト遂行期間は一ヶ月しかない。 9時から17時までしか仕事をしなければ、早くて三ヶ月、遅くて半年は掛かるだろう。 それを一ヶ月でやり遂げる為に、寝る間を惜しみ、もっと言えば帰る間さえ惜しんでやってきた。 如月は入省してから、プロジェクトでは無くても、こんな経験は幾度となくあった。 与えられた仕事に疑問も持たず、走り続けて来た。 止まったら、負けだ。 誰かに負ける、というのでは、無い。 自分自身に負けるのが嫌だ。 如月にはささやかな夢がある。 立ち止まらず、走り続ければ、そう遠く無い未来、実現するだろう。 けれど、仕事に疑問を持ち、立ち止まった時点で、その与えられて当然のチャンスは消える。 だから、負けたくない。 自分に。 走れ、走れ、走れ。 日々の仕事を完璧にこなせ。 そう無意識に自分を叱咤して来た。 辛いと感じる暇も無かった。 プロジェクトルームの扉を結城が開けてくれる。 台車を押す如月が先に部屋に入る。 「おはようございます」 如月と結城はまだ二人しかいないメンバーに挨拶をすると、ダンボールからドッチファイルをデスクに並べてゆく。 今日もこの部屋は、時間に終われた戦場になるだろう。 如月は最後のドッチファイルをデスクに置くと、ふと藤倉の笑顔がまた頭を過った。 あんな風に笑える藤倉は、きっと自分に合った仕事をして、楽しくこなしているんだろう。 たかが隣人の如月に対する細やかな気遣いも、藤倉の余裕を感じさせる。 だが、「如月、ちょっと来てくれ!」という先輩の声に、藤倉のことは如月の頭から消え去った。 藤倉は如月をバス停で見送ってから、満足感と焦燥感の交互に見舞われていた。 自宅に戻り、如月に作ったお握りと同じ物を作り、ポットに入れた味噌汁の残りを飲むと、睡魔が襲って来た。 遮光カーテンを引いて、ベッドに入って目を閉じる。 だけど眠れない。 暗い部屋で瞳を開ける。 如月に強引に渡したお握りと味噌汁。 如月は嫌がった様子も無く受け取ってくれた。 それだけでも嬉しい。満足だ。 でも 変な奴だと思われたらどうしよう… 次に会った時には避けられるかも知れない そう思うと焦る。 如月の仕事が何なのかは知らないが、かなりハードそうだ。 避けられるより先に、この先また会える保証も無い。 連絡先も知らない。 ただの『お隣りさん』な自分。 藤倉は思わず笑った。 それでいいじゃないか 青白い顔をして、痛々しく微笑んで、疲労にまみれながも、当たり前のように『寝ている時間はありません』と言い切った如月に、何かしてやりたかった。 それが出来たんだ 避けられて、もう二度と会えなくても、やりたいことは出来たから 藤倉はそう考えると、少し気が楽になった。 初めて夜に見掛けた如月。 とんちんかんな自分の言葉にクスクスと笑った如月。 自分から握手してくれた如月。 戸惑いながらも、藤倉の紙袋を受け取ってくれた如月。 そのどれもが藤倉の胸を締め付ける。 ミナミの言う通り一目惚れだろうか? でも俺は誰も好きになる資格は無い 資格なんてカッコいいもんじゃない 俺は身体の芯まで汚れている 腐っている その汚れを好きな相手に移す訳にはいかない 小さな小さな思い出だけでいい… 藤倉はそう自分を納得させると、また目を閉じた。 それから藤倉と如月は会うことは無かった。 如月は木曜日は何とか足りない物を用意して省庁に泊まり込んだ。 そしてプロジェクトメンバーと交代して、土曜日には帰宅出来た。 だが、風呂から出ると動けなくなり、ベッドに直行して夕方まで眠ってしまった。 如月は買い出しに行くついでに、藤倉の部屋へ洗ったポットとバンダナを返しに寄った。 しかし、藤倉は不在だった。 藤倉のシフトは15時~24時が殆どだ。 藤倉はもう出勤していたのだ。 如月は土曜日だし、何処かに遊びに行ってるのかもしれない、くらいにしか思わなかった。 それでも一応20時にも藤倉の家を訪ねたが、仕事の藤倉は当然いない。 如月は翌日の日曜日は休日出勤をした。 バスは土日祝日の時刻表に変わるが、そんなに大きな変化は無い。 如月はいつも通りの7時25分前後のバスで出勤した。 朝、訪ねるには失礼な時間だ。 如月は帰って来てから、藤倉の家を再度訪ねようと思った。 けれど日曜日は最後の追い込みということで、帰宅時間が22時を過ぎてしまった。 また訪ねる時間を逸してしまった。 そんなことを繰り返し、あっという間に一週間が過ぎた。 藤倉が如月にお握りと味噌汁を渡してから、翌週の金曜日。 店を閉め終わると、藤倉は橘にメシでも食いにいこうと誘われた。 藤倉は「行きます」と返事をして、自分の仕事をしながら、橘の仕事が終わるのを待っていた。 閉店して1時間もすると、橘が雑用をしている藤倉の元へやって来た。 「どうだ?藤倉ちゃん。 出られるか?」 藤倉の仕事は終わっている。 それでも藤倉は、チーフマネージャーの緒方に「上がってもいいですか?」といつも通りに訊いた。 緒方は伝票をパソコンに打ち込みながら、「ああ」と短く返事をする。 「じゃあ、お先に失礼します」 藤倉がタイムカードをスキャンし頭を下げる。 緒方はもう何も言わなかった。 藤倉がボーイの制服から私服に着替えて、従業員専用の出入口から出ると、橘が外で待っていた。 「神田に朝までやってる旨い寿司屋があるんだよ。 そこでいいか?」 藤倉が笑って頷く。 大通りに出てタクシーを拾い、二人で乗り込む。 橘の言った店には15分も掛からずに着いた。 こじんまりとした、隠れ家的な店。 気後れする藤倉を、橘が気にする風でも無く店に入って行く。 橘は馴染みの店らしく、大将とおぼしき人に「こっちは本日のオススメコース。俺は取り合えず刺身」と藤倉の肩を抱いて言った。 じゃあ、と言って生ビールで乾杯する。 冷たいビールが藤倉の喉に染み渡る。 食事がある程度進むと、橘がポツリと言った。 「藤倉ちゃん。 何か悩んでるだろ? 仕事か? 俺には上手く行ってるように見えるけど」 「仕事も…あります」 「もー二人の時は敬語禁止! 他人行儀禁止! 藤倉ちゃんは俺にとって弟みたいなもんなんだから~」 プウッと膨れる橘に藤倉は笑った。 「分かった! じゃあ、そうちゃんに相談! 仕事自体はそんなに辛くないよ。 先輩もこればっかりは慣れるしか無い、少しずつ覚えるしか無いって言ってくれてるし。 でも…」 「でも?」 「女の子の呼び出しがキツいかな」 橘がふにゃっと笑う。 「藤倉ちゃん、売り上げのある女の子に引っ張りだこらしいな~。 そいつは断れないよな~」 「でもさあ、何で? こんなこと言っちゃアレだけど、一日中仕事でエッチしてるのに、その後にまた…っていうのが理解出来なくて。 それにやっぱり好きな子以外とエッチするのってキツいよ~」 橘はうんうんと頷くと、ビールを一口飲んで言った。 「一日中仕事でエッチしてるから…そうじゃ無いエッチが必要なんだよな」 藤倉は黙って聞いている。 「兎に角さ、客以外の人間に触れられたくて触れられたくて仕方が無くなるんだと。 それで藤倉ちゃんみたいなスレてないイケメンに、恋人みたいに大事に扱われて、自分本来の価値を高められた気分になる。 それに自分の商品価値も再認識出来る。 逆指名出来るのは売り上げが高い子だけだし。 それに『あたしのこと好き?』って訊かれたら、藤倉ちゃん何て答えてる?」 「そりゃあ『好きだよ』って…」 藤倉の顔がアルコールのせいだけでは無く、赤くなる。 「事情を抱えてたり、借金まみれの女の子達には、それすら精神安定剤代わりになるんだよ」 「でも…やっぱ抵抗あるよ…」 橘は料理をパクッと口に入れると、言った。 「仕事って割り切れない? 好きな人でもいる?」 「そうちゃんが…店長が割り切れって言うなら割り切るしか無いよね。 好きな人は…」 「いんの?」 橘がちょっと意外そうな顔をして藤倉を見る。 「好きかどうかはまだ正直分かんない。 でも気になる…かな」 「ふうん」 橘はこういう時、質問責めにしたりしない。 だから藤倉は自然と口を開く。 「でもそうちゃんは知ってるでしょ? 俺は人を好きになる資格なんか無い。 この手は汚れてる。 でもその人と、ちっぽけだけど思い出が出来たんだ。 それだけでいい」 「藤倉ちゃん…終わったことだよ、全部」 藤倉の瞳に涙が浮かぶ。 藤倉は乱暴にそれを手で擦った。 「ミナミもそう言ってくれてる。 でも俺のやったことは、やっぱり消えないと思う。 だから、いいんだ。 その人とのちっぽけな思い出が、今は俺を支えてくれてるから」 「そうか…」 橘はそれ以上何も言わず、藤倉に食え食えと料理を勧めた。 橘はその店からタクシーで藤倉のマンションまで送ってくれた。 「じゃあな、藤倉ちゃん」 「そうちゃん、ご馳走さま! 気を付けてね!」 橘を乗せたタクシーが去って行く。 藤倉は腕時計を見た。 もう4時30分を回っている。 だが藤倉は気分が良かった。 お腹は一杯だし、ほろ酔いだ。 悩みは解決した訳では無いが、自分を求める女の子の気持ちが少しは理解出来た。 今日からは昨日までより割り切って、女の子の相手を出来そうな気がする。 しかし、マンションのエントランスに足を踏み入れてぎょっとした。 スーツ姿の男が、オートロックを解除するパネルの下にうずくまっている。 足元には投げ出されたビジネスバッグ。 酒の匂いもする。 酔っ払いだろうか? 藤倉は恐る恐る、男を避けるように、オートロックの番号を入力した。 扉が開く。 そのまま通り過ぎようとすると、「…ぅ…」と微かな呻き声がして、藤倉は振り向いた。 男がゆっくりと顔を上げる。 藤倉は男に駆け寄った。 「如月さん!」 如月は焦点の定まらない目で藤倉を見上げている。 「大丈夫ですか!? どうしたんですか!?」 「き、もち…悪い…」 如月はそれだけ言うと、またうずくまる。 藤倉はビジネスバッグを拾った。 閉まりかけた扉を見て、もう一度ロックを解除する。 「如月さん!バッグをしっかり抱いて! 少し我慢して!」 藤倉は如月の胸にビジネスバッグを押し付けると、そのまま抱き上げた。 足早にエレベーター前に向かう。 如月は藤倉に抱かれてビジネスバッグをぎゅっと抱きしめている。 エレベーターは直ぐにやって来た。 如月を抱いたまま、エレベーターに乗り、5階を押す。 如月は真っ青な顔をして唇を小刻みに震わせている。 5階までの数十秒が、藤倉には果てしなく長く感じた。 やっと5階に着く。 如月の部屋の前まで来る。 「如月さん、鍵は!?」 如月の手がビジネスバッグを抱え直そうとして、バッグを廊下に落としてしまう。 二人しかいない明け方の廊下に、ガコッと鈍い音が響いた。
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