【42】神様がいるなら

1/1
前へ
/50ページ
次へ

【42】神様がいるなら

翌日、火曜日。 朝比奈が鑑識課に現れると、課員達がどよめくと同時に一斉に立ち上がる。 朝比奈は軽く頷くと、一直線に神谷のデスクへと向かう。 神谷の横には既に稲葉が立っていた。 神谷が穏やかに微笑んで言った。 「こちらです」 神谷が案内したのは、パソコンがずらりと並んでいる、外から丸見えの透明のガラス張りの個室だ。 「では照合します。 まず、稲葉警部が持って来た一番可能性が高い缶コーヒーから出た指紋から」 神谷がキーボードを叩く。 ピッピッピッと軽快な音が鳴る。 パソコン上部に『一致』と大きく赤く表示された文字が点滅する。 画面向かって左側に、親指と思われる指紋。 右側に。 まだ幼い面影を残す良く知った顔。 その下に『藤倉悠真』と氏名が表示されていた。 朝比奈は午後、財務省の大臣官房、総合金融課に電話を掛けた。 結城という課員が出て、如月に取り次いでくれた。 『修くん?どうしたの? 珍しいね。 職場に電話してくるなんて』 「玲那、来週から夏休みだろ? プライベートの時間なんかないんじゃないかと思って」 如月があははと無邪気に笑う。 『流石、修くん! 毎日、タクシーで朝帰りだよ~!』 「その夏休みだけど…今年も友達と海外旅行か? それとも、おじさんとおばさんと何処かに…」 『今年はねー日本にいるよ! それも近所の公園!』 「公園?」 怪訝な朝比奈の声に、如月が楽しそうに答える。 『マンションからバス停までの道に、小さな公園があるでしょ? あそこに朝から夕方までいるから。 修くん、時間があったらお弁当作って来てよ!』 あの砂の城の公園か? と言おうとして朝比奈は止めた。 その代わり朝比奈も笑って、「不審者扱いされないようにしろよ!」と言った。 藤倉は毎日変わらぬ日々を送っていた。 『Sweet Heat』で働く合間にヤクの売人をやり、好きでもない女の子と毎晩のようにセックスをする。 南野から転送されて来る如月からのメールを読む一瞬だけ、幸せになれた。 それも日曜日、『今日で休日出勤も終わり!明日の祝日から一週間夏休みだ~!』という内容と、いつも通り藤倉を励まし心配するメールが転送されて来たきり、パタリと如月からメールは来なくなった。 藤倉は、こんなものだと思っただけだった。 如月は、自分に恋してるだ何だと言っても、夏休みになって、楽しみを共有する人間なんて幾らでもいる。 自分は別の楽しみが見つかれば、メールすらされない存在。 それでいいんだ… 金曜日になり、如月から丁度5日間メールが来なくなった夜、藤倉はいつもと変わらず女の子を抱いて、午前3時頃『Sweet Heat』を出ると、以前朝比奈が藤倉を待っていた場所に、また朝比奈が立っていた。 藤倉は露骨に嫌な顔をして見せた。 「今度は何ですか?」 「藤倉さん、あなたが砂の城を作った公園に、仕事の前に行ってみて下さい」 「だから〜砂の城何て知りませんからー」 「行けば分かることがあります。 とても重要なことです。 あなたにとっても玲那にとっても」 藤倉がせせら笑う。 「だから如月さんと俺は無関係なんですって!」 そんな藤倉に、朝比奈は動じない。 「あなたがもし、まだ玲那を世界で一番嫌いじゃないなら、行ってやって下さい。 明日、お待ちしています」 朝比奈は藤倉に頭を下げると、大通りに横付けされていた車に乗り込み、走り去って行った。 藤倉は翌日の午前中、売人の仕事を終わらせると、池袋に向かった。 理性は行くなと言っている。 だが、如月がせっかくの夏休みに、あの公園で何をしているのかが気になって、『Sweet Heat』の仕事も手に付きそうに無い。 ちょっと覗くだけ… そう思いながら、公園の影から公園を見渡した。 そこには。 藤倉が海で被っていたのと同じような麦わら帽子を被って、同じような長袖の白いTシャツを着て、藤倉が作った砂の城の場所で、砂の山にコテやヘラで細工をしている如月がいた。 「不格好でしょう?」 藤倉の後ろから朝比奈の声がする。 藤倉は振り返らない。 振り返れない。 如月から目が離せなくて。 「玲那はね、夏休みは大抵友達や両親と海外旅行や国内旅行に行くんです。 兎に角、旅行が大好きでね。 でも今年は違う。 夏休みに入ってから、ああしてこの公園に朝から日が落ちるまでいるんです。 藤倉さんなら、玲那が何をしているか解りますよね? 玲那は俺に言いました。 自分は不器用だから、夏休み中みっちり練習する。 そして夏休みの最終日に出来上がった砂の城を、悠真に写メで送るんだって。 藤倉さん、悪いがあなたの過去を調べさせてもらった。 あなたは『Sweet Heat』で初めて俺に会った時、俺を警戒し過ぎて口を滑らせた。 『新宿署の管内』だの『覆面パト』なんて一般の人は言いません。 せいぜい、『池袋署の署長がなぜ新宿にいるんですか?』や『警察の車ですか?』くらいだ。 しかも署長の俺が、覆面パトカーでは無く、パトカーか専用車に乗る事まで危惧していた。 そこであなたは警察慣れしていると気が付いた。 だからあなたの過去を調べる気になった。 勿論、日本には『藤倉悠真』という氏名で、あなたに良く似た人間もいるでしょう。 でも指紋は誤魔化せない。 あなたの指紋を採取させて貰いました。 そうしたら警察の前科者のデータベースにあなたの指紋と一致する人物がいた。 氏名は『藤倉悠真』 顔もそっくりです」 「……」 「でもあなたはちゃんと罪を償っている。 もう一般市民となんら変わらない。 仕事だって恥じることも無い。 ねえ、藤倉さん。 俺はあなたの過去は、玲那に話していません。 これからも話したく無いのなら、話さなければいい。 あなたにそんな義務は無い。 だけど、本当の仕事のことだけは、あなたの口から玲那に話してやって下さい。 それで以前のように…」 「あー説教くせーなー!」 藤倉は前を見たまま吐き捨てるように言った。 「ポリ公って奴はどいつもこいつも変わんねーな! 如月に言いたきゃ言えよ! 藤倉悠真は前科者のソープランドのボーイだってな!」 「藤倉さん、あなたがどんなに悪人ぶっても、俺には通用しませんよ」 藤倉は振り向くと、蔑んだ目をして朝比奈を見た。 「これだからキャリアのポリ公って奴は始末に負えねえ。 出世のことしか頭に無い癖に、口先だけは一人前。 東大法学部出のキャリア署長さん。 あんたに本物の悪人なんて、見分けがつく訳ねーだろうが! 周りがぜーんぶお膳立てしてくれてんのも分かんねーのかよ!? あんたは昇進試験と大事な大事な玲那のことだけ考えてろ! それで、俺のこと全部如月に話して、こんなキモいこと止めてさせてくれよ! 如月こそストーカーじゃねえ!?」 朝比奈の目が鋭く光る。 「俺のことは何とでも言えばいい。 だけど嘘でも玲那のことを侮辱するな!」 藤倉はヘラヘラと笑った。 「朝比奈さんの言う通り、こんなとこまで来てやったんだ。 それはあんたがポリ公だからだよ。 余計なこと、されたくなかったんでね。 まあ、もうされちゃったけどね。 本当にもう、こーゆー面倒なこと、如月にさせないで下さいよ。 マジうぜー。 つーかキモい。 俺、鳥肌立ってるの分かります?」 「藤倉!お前、あんな玲那を見て何とも思わないのか!?」 「だから、ウザくてキモいですって。 じゃ!」 藤倉がさっさと駅に向かって走り去る。 稲葉が木陰から出て来る。 「署長。見込み違いでしたね」 「ああ…大したもんだよ。 あの善人面が仮面だったとはな。 俺達を欺くくらいなんだ。 玲那なんて赤子の手を捻るも同然ってやつだっただろうな」 「藤倉、どうします?」 「捨てておけ。 時間の無駄だ。 玲那には俺からよく言ってきかせる。 先ずはあんなくだらないことを止めさせなきゃな」 朝比奈が公園にスタスタと入って行く。 稲葉も後に続く。 如月が顔を上げる。 「修くん!また来たの~!? あ、稲葉さんも!」 如月は砂で汚れた顔で、輝くように笑った。 藤倉は全速力で走った。 涙が後ろ向きに飛んでいく。 玲那ちゃん 玲那ちゃん 玲那ちゃん 心の中で何度も如月の名を叫び続ける。 馬鹿な玲那ちゃん せっかくの夏休みを、俺なんかの為に棒に振る玲那ちゃん 俺なんかの為に砂の城なんかを作る練習してる玲那ちゃん 馬鹿な玲那ちゃん 本当に馬鹿で 狂おしい程、愛しい玲那ちゃん 玲那ちゃんには二度と会わないよ メールもしないよ 玲那ちゃんには何も求めたりしないよ だから 愛してるだけならいいかな? 俺みたいな人間でも、玲那ちゃんを愛していてもいいかな? 神様がもしいるなら 許してくれるかな? あの日 神様なんていないと知ったけど 今なら神様にだって縋るよ 玲那ちゃんが愛しいよ 愛してるよ 藤倉は池袋駅に着くと、駅のトイレの洗面台の蛇口を思い切り捻り、頭から水を被った。 水が飛び散り、トイレの床が水浸しになってゆく。 藤倉も、シャツからジーンズからスニーカーまでびしょ濡れだ。 「うわっ!何だ!?」 トイレに入ってきた初老の男が叫ぶ。 「ちょっと、あんた、止めなよ!」 藤倉にその声は届かない。 藤倉の耳に聞こえるのは、激しい水音でも無く、男の声でも無く、 『悠真!』 と呼ぶ如月の声だけ。 「おーい!ちょっと誰か来てくれ! おかしな奴がいる!」 初老の男がトイレの出入口から、外に向かって叫ぶ。 わらわらと野次馬が集まって来る。 駅員を呼ぶ声。 駅員が二人駆け付けて来て、藤倉を二人掛かりで押さえ込む。 「お客さん、何してるんですか!」 「おい、お前、水を止めろ!」 駅員の一人がもう一人の駅員にそう指示し、蛇口を捻ろうとすると、藤倉が手を伸ばして、その手を振り払う。 「お客さん! 抵抗すると警察呼びますよ!?」 藤倉は蛇口を掴んで離さなかった。 水を浴びていなければ、呼んでしまう。 愛しい人の名を。 頭を冷やさなければ、公園で砂の城を作っているあの人の姿が、蘇ってしまう。 愛してると言ってしまう。 「警察だ!警察を呼べ!」 駅員が叫んで、何とか二人掛かりで藤倉の手を蛇口から引き剥がし、藤倉をトイレの床に転がす。 藤倉の上に、洗面台から溢れた水が降ってくる。 まるで雨のように。
/50ページ

最初のコメントを投稿しよう!

18人が本棚に入れています
本棚に追加