【43】光

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【43】光

藤倉は池袋駅にやって来た警官達に、池袋駅の駅前にある交番に引っ張られて行ったが、別に駅員に暴力を振るった訳でも無く、器物を破損した訳でも無かったので、厳重注意で済んだ。 身元引受人には橘がなってくれた。 橘は『Sweet Heat』に交番から連絡があると、直ぐに新宿からやって来た。 橘は警官達に何度も頭を下げ、藤倉は解放された。 橘はびしょ濡れの藤倉を連れて新宿に戻った。 橘は藤倉に何も訊かなかった。 ふにゃっと笑って、「藤倉ちゃん、派手なことやったな~」と言っただけだった。 びしょ濡れで電車に乗り、街を歩く藤倉に、他人の視線が突き刺さる。 藤倉は無表情だったし、橘も平然としていた。 『Sweet Heat』に着くと、橘は藤倉にシャワーを浴びろと言った。 藤倉は素直に従った。 藤倉がシャワーを浴びて小さな脱衣場に出ると、脱衣場の着替えを入れる籠に、藤倉が用意した従業員用のバスタオルの他に、新品のTシャツとデニムと下着と靴下が入っていた。 藤倉は取り合えずそれらを着た。 藤倉が着ていた服はそれこそびしょ濡れなので、それをまた着ればシャワーを浴びた意味が無い。 スニーカーの横にスリッパも置かれてあって、それを履いてロッカーに行き、ボーイ用の靴に履き替えた。 すると早番の先輩がロッカーに顔を出して、 「お、ピッタリじゃん! 流石、俺!」 と笑顔で言った。 藤倉が、先輩が用意してくれたんですか?と訊くと、橘が池袋の交番から出て直ぐに、マネージャーの柏原に連絡して、藤倉の着替え一式を誰かに買いに行かせろと言い、柏原がその先輩に買いに行かせたと説明してくれた。 藤倉は、そう言えば…と思い出した。 橘は交番から少し離れると、スマホで何処かに電話をしていた。 藤倉はその先輩に、わざわざありがとうございましたとお礼を言った。 先輩は「お礼なら店長に言えよ!」と藤倉の肩をポンと叩いて、ロッカーを出て行った。 藤倉はドライヤーで髪を乾かすと、事務所に向かった。 藤倉が事務所に入ると、緒方と柏原が藤倉を見た。 藤倉が「店長にお礼が言いたいんですが」と言うと、緒方が憎々しげに藤倉を見て怒鳴った。 「店長はな、お前なんかを迎えに行く時に、先約があって出掛けなきゃならなかったんだよ! それを先方に謝って時間を変更して貰って…! 今、そこに外出中だ!」 藤倉は「すみません」と頭を下げた。 柏原が静かに言った。 「まだお前の出勤時間じゃない。 それまで飯でも食って自由にしてろ。 遅番の時間になったら、戻ればいいから」 藤倉はまた「すみません」と言って、事務所を出た。 藤倉はバッグを肩から掛けると、『Sweet Heat』から外に出た。 9月の下旬になったと言っても、うだるように暑い。 藤倉はチェーン店のコーヒーショップに入ると、サンドイッチを食べた。 だが、味を感じない。 機械的にサンドイッチを口に運び、飲み込んだ。 ブラックのアイスコーヒーを飲む。 この暑さの中、小さな公園の片隅で、毎日、毎日、朝から晩まで砂の山を掘り続けていた人が目に浮かぶ。 朝比奈の怒りは本物だ。 きっと直ぐにでも、あんなことは止めさせて、今日中にでも藤倉の本当の職場と過去を話すだろう。 もしかすると、藤倉が朝比奈に投げ掛けた言葉まで話すかもしれない。 如月は、呆れるだろうか、軽蔑するだろうか、怒るだろうか。 藤倉の口元に微笑みが浮かぶ。 どちらにしろ、失敗しなかったということだ。 これで如月は、自分のことなんて、忘れる。 忘れて、また如月に相応しい、輝かしい未来に向かって歩んで行く。 せめて、ミナミを責めなければいいな… 出来ればミナミとは、今まで通りの付き合いが出来ればいいな… そして、俺は 真っ黒に汚れてる俺だけど、玲那ちゃんを愛して、ほんの小さな針で開けたような穴が心に出来た そこから入ってくる光を浴びていよう それだけで十分だ 最後に見た玲那ちゃん 麦わら帽子に白い長袖のTシャツを着た玲那ちゃん 忘れないよ 今度こそ、永遠にさようなら… 藤倉は出勤時間になると『Sweet Heat』に戻って、通常通り働いた。 夜の7時頃、柏原が橘が戻って来たと教えてくれた。 藤倉は直ぐに店長室に向かった。 橘は藤倉を交番から引き受けた時のように、ふにゃっと笑って、「どうした?」と言った。 藤倉は深々と頭を下げた。 「何から何まですみませんでした! お仕事の邪魔までしてしまって…。 本当にすみません!」 橘が「頭を上げろよ、藤倉ちゃん」とやさしく言う。 藤倉は頭を上げられ無かった。 申し訳なさ過ぎる。 その時、橘が「上げろ!」と怒鳴った。 藤倉が聞いたことも無い、鋭い声だった。 藤倉がパッと頭を上げる。 橘は声に反して笑顔だ。 「なあ、藤倉ちゃん」 橘が藤倉の肩を両手で掴む。 「警察に厄介になるようなことを、一番避けてきた藤倉ちゃんが、大したことじゃ無いとは言え、交番に引っ張られるようなことをした。 それなりの理由があるんだろ? 藤倉ちゃんは意味も無く、人に迷惑を掛けるような人間じゃねえよ。 だから、いいんだよ。 卑屈になるな。 それより早くその理由が解決するといいな」 「店長…」 藤倉の瞳から涙が零れる。 「二人きりの時は『そうちゃん』だって何度言えば分かるんだよ~。 それに泣くな! 泣いた顔したボーイなんてお客様の前に出せねえ。 それに男前が台無しだ!」 橘がそう言って笑って、藤倉も手の甲で涙を拭うと笑った。 藤倉は洋服代を支払うと言ったが、それも橘に断られた。 その代わり、次に橘が海釣りに行く時は付き合うように言われて、藤倉は「絶対行きます!」と答えた。 橘は「最低10時間は陸に戻さねえからな~」と嬉しそうにニヤニヤと笑った。 その日は当然だが、南野から如月のメールが転送されてくることは無かった。 藤倉はこれで良かったんだ、と改めて思った。 自分はこんな人間だけど、橘みたいな人が支えてくれて、南野みたいな親友もいる。 売人をしている限り、危険は付きまとうだろうが、南野が危険に晒されるより、数倍良い。 何百倍も良い。 そして、夜空を見上げれば。 星はいつもでも、誰にでも、平等に輝いている。 星を見ればあの人を思い出せる。 幸せな思い出だってある。 あの人には朝比奈みたいに強力に守ってくれる人がいる。 自分なんかが心配する必要も無い。 ただそっと密かに、ことさら密かに、遠くで愛しているくらいなら、咎められないだろう、誰にも、朝比奈にさえ。 朝比奈に慰められて、少しは元気が出てるといいな。 食べることが大好きな人だから、美味しいものでも食べて、笑っているといいな。 藤倉は如月を思いながら、女の子を抱いていた。 翌日も如月から藤倉にメールは来なかった。 藤倉はやっと安心出来た。 ただ、南野からもラインもメールも無い。 それだけが少し気掛かりだった。 如月に責められて、ラインもする気になれないでいるのかもしれない。 明日の午前中にでもラインをして、昼飯でも奢ろうかな… 明日は月曜日で『Sweet Heat』は休みだから、夜、ミナミの予定が合えば飲みに行ってもいい…売人の仕事は夕方だし… 終業後、藤倉はそんなことを思いながら、ロッカーを開けた。 これから女の子の相手をしなければならない。 その前にスマホを一応確認して、シャワーを浴びて… スマホがメールの着信を知らせるランプを点滅させている。 着信のメールは1件。 受信BOXをタップする。 南野から。 着信時間は23時過ぎ。 藤倉の胸がギクリと音を立てる。 『Fw.悠真へ』 最後の苦情か何かだろうか? でも 罵られれば、また安心出来る 藤倉がメールを開く。 『Fw.悠真へ ずっとメール出来なくてごめんな! 実は悠真を驚かせようと思って。 砂の城を作ってみたんだ! でも俺、不器用だろ? だから夏休み中みっちり練習して、今日の最終日に完成させてみました! 俺って本当に鈍感なんだよな。 海であんなに悠真の作った砂の城に感激して感動したのに、ポリバケツの使い方一つ、悠真に質問するのも忘れて、砂の城に夢中でさ。 一つのポリバケツは砂と海水を混ぜて、もう一つの底に穴を開けたポリバケツで型を取って…。 ネットで調べました。 それで悠真が引っ越した時、砂の城を作ってくれた公園の同じ場所に、さすがにポリバケツじゃ周りから怒られちゃうから笑、悠真が作ってくれた砂の城と同じくらいの大きさの砂の城が作れるバケツを使いました。 まず、底に穴を開けるのが大変だったよ~俺にしたら!笑 でもなんとか出来上がったので、画像を添付しておきます。 それから、悠真。 悠真が心配してるといけないので伝えておきます。 昨日、修くんが公園にやって来て、悠真のことで話があると言いました。 修くんは引っ越した後の悠真に会ったと言って。 でも俺は断りました。 悠真に、悠真から話してくれるのを待つってメールで言ったから。 一方的だけど、約束したから。 だから何も聞いていません。 俺は悠真のことは、悠真の口から聞くまで、誰が何を言っても信じません。 悠真を信じてるよ。 相手を信じない恋人なんていないもんな! それから最後の画像の万歳している人間は、夢が叶った俺じゃありません。 それは夢が叶った悠真だよ。 砂の城の作り方も聞いてない、悠真の夢も聞いてない俺だけど、悠真に会えた時の楽しみに取っておきます。 その時は悠真の夢を聞かせて。 それからまだ聞かせて欲しいことがあるけど、それは恥ずかしいから、言えるようになるまで待ってて下さい! 悠真の夢が早く叶いますように! またな! 玲那』 藤倉は震える指先で画面をスクロールする。 砂の城と言われなければ分からない、でこぼこの砂の山の全体像の画像。 一応一番下に四角い門らしきものがある画像。 それから、くり貫かれた無数の窓らしき画像。 ちょっとした傾斜があり、線で模様が入っただけの屋根の画像。 そして最後に。 万歳している人間らしき画像。 これも言われなければ、『万歳している人間』には見えないだろう。 けれど。 その顔は笑っている。 幸福に満ちて笑っている。 如月の笑顔のように輝いている。 藤倉は泣くのを我慢出来なかった。 スマホを掴み、声を上げて泣く藤倉を、同僚達が奇異の目で見る。 その時、田崎がロッカーに駆け込んで来た。 「藤倉、マズイよ! 早く実花さんのとこ行けよ! 実花さんが藤倉はまだかって、事務所に内線かけまくってんだよ! 実花さん、緒方さんともデキてるの、知ってるだろ!? このままじゃ…」 三上が泣きじゃくる藤倉の肩を抱く。 「藤倉、兎に角、泣き止めって! 何があったか知らないけど、取り合えず実花さんとこ行け! その姿見たら逆に許してくれるって! シャワーも部屋で浴びさせて貰ってさ。 それこそ大喜びするから!」 「行けません…」 藤倉の瞳に、涙で歪んだ万歳をしている砂の人間が映る。 『悠真を信じてるよ』 「馬鹿!藤倉、早くしろよ!」 田崎の焦る声。 『それは夢が叶った悠真だよ』 「今日は…無理です…」 『悠真に会えた時の楽しみに取っておきます』 「実花さんに会うだけでも、会えよ! な? 実花さん、プライド超高いの、お前も知ってるだろ?」 三上の宥める声。 「嫌です…会いたくない…」 『悠真の夢が早く叶いますように!』 このメールも… 「へー藤倉は随分偉くなったもんだなあ?」 緒方の声がロッカー室に響き渡る。 室内が静まり返り、藤倉の泣き声だけが響く。 田崎も三上も黙って藤倉から離れる。 「女を選り好み出来るようになるとはなあ?」 消さなきゃならない… 緒方がツカツカとやって来て、藤倉の横に立つ。 藤倉がスマホをタップしようとする。 「テメェ! ざけんな! 俺が話してるのにスマホ弄るなんて、良い度胸してんな!? おい!」 緒方の蹴りが思い切り藤倉の脇腹に入る。 藤倉がドサッと床に倒れる。 「昼間はサツなんかに捕まって店長に迷惑かけて…! 今度は実花に恥かかせんのか!? ほら、立て! 立って実花のところに行け!」 『またな!』 「…嫌…です…」 「何!?」 「今日は…許して下さい…」 「許すって…」 緒方の顔色が変わる。 「テメェ実花のこと、そんなに嫌ってんのか!?」 ビュッと空気の切れる音がして、緒方が倒れた藤倉の顔を蹴る。 ガコッと鈍い音がする。 「緒方さん! 顔はマズイですって!」 田崎が慌てて緒方を後ろから押さえる。 藤倉の口から一筋、血が流れる。 「口ん中切ったくらい、どうってことねえ! 藤倉、立て! 田崎、離せ!」 「藤倉、立てよ! ほら、掴まれ!」 三上が藤倉を抱き起こす。 藤倉の手からスマホが滑り落ちる。 「藤倉!藤倉!?」 藤倉の瞼がゆっくりと閉じてゆく。 床に落ちたスマホに映る万歳をした砂の人間の幸福に満ちた笑顔も、画面が暗くなると同時に、消えていった。
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