【44】幸せ

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【44】幸せ

藤倉が目覚めると、真っ白な天井が目に入って来た。 藤倉が目を細めていると、「藤倉ちゃん、気分はどうだ?」と穏やかな橘の声がした。 藤倉が声のした方に目をやると、橘が藤倉の顔を心配そうに覗き込むように見ている。 左腕に違和感を覚えて、藤倉が左腕を見ると、点滴がされていた。 右手の人差し指の先も、何か黒い物が挟まれている。 「ここは…」 藤倉の呟きに橘が微笑んで答える。 「病院だ。 歌舞伎町にある、ちょっと訳有りの患者を受け入れてくれる病院。 つっても先生一人に看護婦一人のちっせー病院だけどな。 でも内科から外科から何でも診てくれる。 検査器具も揃ってる。 ここで、手に負えないとなったら、他の病院を紹介してくれるしな」 「ちっせーだけ、余計なんだよ、橘!」 その声と共に、仕切り用の薄いグリーンのカーテンがシャッと開く。 藤倉がその声の方角に目を向けると、細身だが筋肉質であろう身体が分かる、白衣が良く似合う、藤倉より少し背の高そうな男が立っていた。 若く見えるが、40代半ばといったところだろう。 首から聴診器を下げて、胸に『風間』とネームプレートを着けている。 「風間先生~。 立ち聞きですか? 趣味悪いですよ?」 橘がふにゃっと笑いながら言う。 「ちっせー病院だからな、会話が自然と耳に入ってくるんだよ」と風間はクールな返事だ。 風間は藤倉の右手を持つと、ベッド横の画面を見ながらやさしく言った。 「藤倉さん、気分はどうですか? バイタルは安定しています」 「気分は…悪くありません」 「そう、良かった!」 風間がクールな顔を崩して、にっこり笑う。 「あなたは顔を蹴られた衝撃で倒れたのでは無い。 口の中は少し切れていますが、脳震盪を起こした訳ではありません。 頭蓋骨も顔も骨折もしていません。 たぶん過労です。 蹴られたのがきっかけで、緊張の糸が切れた…そんなところでしょう。 今、栄養剤と精神安定剤を点滴しています。 それが終わったら帰られて結構です。 それにしても」 風間は今度はニヤッと笑った。 「あなたを蹴った奴は、人を蹴り慣れてますね。 急所を上手く外しているし、打撲も大したことは無い。 橘は誰が蹴ったか言いませんが。 単なる従業員同士のありふれた喧嘩だと言って」 「……」 風間が藤倉の右手の人差し指から、バイタルチェックの器具を外す。 「点滴が終わったらナースコールを押して下さい。 看護婦がやって来ます。 打撲の痛み止め、湿布、それと栄養剤を処方しておきますから、当分朝晩飲んで下さい。 それでも身体の倦怠感や精神的疲労感が取れなかったら、またいつでも再診して下さい。 それじゃ、他の患者さんが待ってるので、失礼」 風間はそう言うと、さっさとカーテンを閉めて出て行った。 風間が居なくなると、橘が小声で言った。 「この病院は夜の6時から朝の5時までやってる、夜間診療専門だ。 歌舞伎町の水商売なんかで、警察や救急車を呼ぶまでも無いが、治療をしたいっていう患者を受け入れている。 風間先生は、あれでも大学病院にいたんだ。 それが何故だか10年くらい前からこの診療所をやってるんだよ」 「…そうですか」 「緒方には俺からしっかり言っておいたから。 緒方は、実花が男に騙されて借金を背負って、ホステスやキャバ嬢すらやったことの無い水商売のド素人でうちの店に勤め出して、一から実花をトップに数えられるようになるまで育て上げた。 実花にとっては緒方は恩人で、唯一甘えられる存在でさ。 緒方もそんな実花を可愛がってた。 そこに藤倉ちゃんが現れた。 実花にとっちゃ藤倉ちゃんみたいな男に出会ったのは初めてだから、夢中になってる。 それに自分が指名すれば、藤倉ちゃんと一時でも恋人気分を味わえるしな。 でも緒方とも切れて無い。 実花はプライドが高いから、チーフマネージャー以下の人間なんて普通は相手にしない。 それに実花にとって緒方は特別だからな。 別に緒方は、藤倉ちゃんが実花の相手をするから、怒ってる訳じゃない。 実花を泣いてまで拒否したから、実花を侮辱されたように感じたんだ。 それに藤倉ちゃんと緒方は元々相性が悪いだろう? 俺は相性が悪かろうが、仕事がスムーズに行くなら問題無いと思ってる。 だからまあ今回のことは、確かに暴力を振るった緒方が悪いが、喧嘩の範囲で収めてやってくれないか? 藤倉ちゃんには勿論それ相当のお詫びをする。 だけど緒方の気持ちや実花の気持ちも汲んでやってくれ。 実花はソープ嬢っていう地獄の生活の中で、藤倉ちゃんに抱かれて、普通の恋人同士みたいな夢見てんだよ。 それを緒方も知ってるから…」 藤倉はニコッと笑った。 「もう、いいよ、そうちゃん! 俺も悪かったんだ。 嫌なら嫌で実花さんのところに行って、ちゃんと断れば良かったんだ。 馬鹿みたいだよね。 いい年した大の男が泣き喚いてさ」 「藤倉ちゃん…。 でも泣きたくなるようなことがあったんだろ?」 「俺が大袈裟なだけ! そうちゃんも知ってるでしょ? 俺が泣き虫だって。 それに昼間、仕事の先約があるそうちゃんを交番なんかに呼び付けて、大事な仕事の邪魔をしたんだ。 緒方さんはそのことも怒ってた。 でも俺が怒られるようなことをしたんだから、当然だよ。 それに実花さんのことがプラスされたんだ。 俺が全部悪い! 気にしてないよ!」 橘はホッと息を吐いた。 「藤倉ちゃん、すまない」 「だからー何でそうちゃんが謝るの? 俺こそ、ごめんね!」 「あ!そうだ!」 橘が思い付いたように、藤倉のバッグを掴む。 「スマホ、壊れてたら言ってくれ。 弁償するから。 三上の話じゃ、倒れた藤倉ちゃんの手から滑り落ちただけだから、壊れてないだろうって言ってたけど」 「うん、分かった! 家に帰ったら、良く調べてみるよ」 藤倉はまたニコッと笑った。 藤倉の点滴が終わると、会計も全て橘がしてくれた。 藤倉は処方された薬類を受け取った。 橘はタクシーで藤倉の五反田のマンションまで送ってから帰って行った。 藤倉は部屋に入ると、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、ソファに座り、それをゴクゴクと飲んでペットボトルをローテーブルに置くと、ソファに寝転んだ。 指先一本動かすのも、億劫だった。 痛み止めと湿布があるんだっけ… 栄養剤は今日は点滴をしたので、明日から飲めばいいと言われている。 藤倉はローテーブルに放り投げておいたバッグを掴むと、引き摺るように引き寄せた。 ゆっくり起き上がると、バッグを開ける。 薬の入った透明な袋の影にスマホが見えた。 痛み止めをミネラルウォーターで流し込むと、スマホのホームキーを押す。 スマホが明るく光る。 色々弄ってみたが、壊れているようには見えなかった。 最後に。 メールの受信BOXを開く。 『Fw.悠真へ』 消えて無かったんだ… 藤倉はもう一度だけ、如月からのメールが見たかった。 如月の文章を噛み締めるように、読む。 砂の城の画像。 万歳をしている砂の人間。 幸福に満ちた輝く笑顔。 「俺の夢はね…玲那ちゃん…」 藤倉は歪な砂の人間に語り掛ける。 「玲那ちゃんの夢が叶うことが俺の夢だよ…」 藤倉はメールを削除する。 ゴミ箱からも消去する。 藤倉はスマホを宝物のように胸に抱いて、声も無く、ただ涙を流した。 翌日、藤倉は昼前に起きると、南野にラインをした。 『ミナミ、今日昼飯か、夜、空いてるなら飲みにでも行かない?』 南野からは直ぐにトークがあった。 『無理です~! 昨日から仕事が大詰めで会社にカンヅメにされてます~。 アップするのは、明日の午前1時頃かなあ?』 クマが項垂れているスタンプ。 『そっか。 じゃあ木曜日にでも会おうか?』 『いいですね!じゃあ木曜日に! ねえ、藤倉さん』 『何?』 『不器用な頑固者にあんなに好かれて幸せですな! 万歳!』 藤倉は思わず微笑んだ。 確かに不器用で…頑固者だ… 藤倉は目を閉じた。 如月が今まで送ってくれたメールが次々と瞼の裏に浮かぶ。 愛してるよ、玲那ちゃん 俺が愛している人が、俺に恋して信じてくれている ミナミの言う通りだ 幸せだよ どんな生活をしていても 俺は幸せだよ… 藤倉は夕方、売人の仕事に行く前、『それ』に気付いた。 昨日、緒方に蹴られた頬が痣になって少し腫れている。 昨夜は疲れていたし、泣いたせいもあって、湿布も貼らずに、そのまま眠った。 それきり湿布のことは忘れてしまっていた。 痛みはそれ程無いが、今からでも湿布を貼った方が良いだろうか? 考えて、止めた。 売人の仕事が終わって、帰って来てから、湿布を貼ろう。 明日には腫れも色も多少は何とかなるだろう。 それから、藤倉は家を出た。 九条に指定された商店街の外れにある、橋のたもとで、九条を待つ。 藤倉は九条が現れる5分前には、待ち合わせ場所に到着するようにしている。 それから5分後に九条が現れ、藤倉に封筒を渡し、そのまた5分後にその封筒を渡す相手が現れる。 もう慣れたものだ。 だが、藤倉が橋のたもとに着くと直ぐ、デニムの尻ポケットに入れていたスマホが、電話の着信音を鳴らした。 素早くポケットからスマホを取り出す。 取り敢えず今は切ろうとして、スマホの画面を見て驚いた。 『九条光一』と表示されている。 九条が売人の仕事の前に、電話をして来るなんて初めてだ。 藤倉は慌てて通話をフリックした。 「はい?」 『今直ぐそこを離れて、駅に向かって歩いて下さい』 「え…?でも…」 『いいから早く離れろ! 決して走るな! それから電車に乗って消えろ!』 藤倉が初めて聞く、九条の切羽詰まった怒鳴り声。 藤倉は通話を切ると、駅に向かって歩き出した。
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