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【46】乾いた瞳
藤倉は翌日の水曜日も変わり無く仕事を終わらせた。
売人の仕事が未だにこれ程、神経を圧迫しているのだと、初めて気付いた。
それに好きでも無い女の子とセックスをしなくて済むのも、物凄く気が楽だ。
その日も通常の残業をやって、終電で帰れた。
藤倉は帰りの電車の中で、顔の痣が治らなければいいのに、とさえ思った。
寝る前には思い切り如月との思い出に浸って、幸せな気分で眠りに就いた。
そして木曜日がやって来た。
藤倉は昼に合わせて、南野の住む田端の駅前の南野御用達の持ち帰りの弁当屋で、南野の好物の特上ハンバーグ弁当を買って南野の家に行った。
南野は藤倉の訪問に喜んだ。
だが、藤倉の顔の湿布を見ると眉を顰めた。
南野に怪我の原因を訊かれたが、藤倉は「転んだだけ」としか言わなかった。
南野もそれ以上、何も訊かなかった。
それからは対戦ゲームをしたり、お互いの近況を話したりしていると、あっという間に夕食の時間になった。
南野は藤倉が中華が好きだからと言って、中華料理をデリバリーしてくれた。
南野が本当に奢ってくれて、藤倉が大袈裟に驚いて見せると、南野にパチンと頭を叩かれた。
嬉しそうに食べる藤倉に、南野が笑って「これから仕事なのに楽しそうですね」と言った。
藤倉も笑って「ヘルプだし、大したこと無いから」と答えた。
それから田端から逆算して亀戸に20時に着く時間になると、藤倉は南野の家を出た。
南野は藤倉が玄関で靴を履いていると、一枚の写真を差し出した。
それは。
如月が作った、砂の城のバルコニーで万歳している砂の人間の画像をプリントアウトした写真。
南野は微笑んで言った。
「これ、寝室に飾ってあるんです。
ご利益ありそうでしょ?
それこそ夢が叶いそうな」
藤倉は何も言わず南野に背を向けて、後ろ向きに手だけ振って玄関のドアを開けた。
亀戸の指定されたコンビニ前に、20時丁度に、白い軽トラックが横付けされた。
運転席から男が顔を出すと、「藤倉さん、助手席に乗って」と言った。
その顔は確かに九条のメールに添付されていた画像の沢口で、藤倉は素早く助手席のドアを開けると車に乗り込んだ。
藤倉がシートベルトを装着すると、沢口が直ぐに車を発進させる。
沢口は運転しながら、陽気に言った。
「九条さんから聞いてると思うけど、俺、沢口哲。
よく若く見られるけど40いってるから。
藤倉さんは藤倉ちゃんって呼んでいい?」
「あ、はい」
「それでダッシュボード開けてみて?
藤倉ちゃんの名刺が入ってるから。
今日はうちの会社名だけ覚えてくれればいいから」
藤倉がダッシュボードを開ける。
名刺ケースが一つ入っていて、取り出す。
中身の名刺も一枚取り出すと、
『有限会社 沢口商会 藤倉悠真』
と印字されていて、沢口商会の代表電話番号と住所も印字されていた。
「うちはね、内職メインの会社なの。
藤倉ちゃんはその荷物を搬入先に運んでるドライバー、分かった?」
「はい…」
藤倉が振り向いて荷台を見ると、大小様々な段ボールが詰まれている。
「検問があったりしたら、俺が答えるけど、念の為ね」
『検問』
その言葉に藤倉の胸がドキッとする。
つまり検問に遭ったら、嘘をつかなければならない物を運んでいるということだ。
ただの内職屋ではない。
けれど、そんなことは剣持に命じられた時から分かっていたこと。
何を運ぶのかは知らないが、ヤクの売人よりマシな筈だ。
沢口は明るくて、やはり九条のメールの画像で見た印象通り海好きで、サーフィンやスキューバダイビングなどをやっている、楽器の演奏もやるなどと藤倉に話した。
沢口が好きだという洋楽を聞きながら、夜の道を車は走って行く。
1時間もすると、沢口が「着いたよ」と言った。
森に囲まれた工場と言った感じの建物。
「ここ、何処ですか?」
藤倉が周りを見回しながら訊くと、沢口が笑ってナビを指差し
「まだ埼玉。
かなり北部だけどね。
今は暗くて良く見えないけど、結構工場があんだよ」
と言って、閉まっている門の前に車を停め、運転席から降りて行く。
藤倉からは見づらいが、門の横に備え付けられた数字のボタンを押しているようだ。
すると、門がひとりでに開く。
沢口が運転席に戻って来て、車を敷地内に入れる。
するとまた、門がひとりでに閉まる。
工場らしき建物の端にある小さなドアが開き、細長いベッドのような物を押した男が一人出て来る。
年齢は良く分からない。
40~50代といったところか。
能面のように無表情だ。
沢口は藤倉に「降りるぞ」と一言言うと、さっさと車を降りる。
藤倉も急いで車を降りた。
沢口が車の荷台を開けて、ポンポンと段ボール箱を車内で動かしている。
藤倉は緊張が解れていくような気がした。
沢口はいかにも軽そうに荷物を持っては、置いていく。
中身は相当軽いのだ。
内職の荷物に違いない…それなら違法な内職の荷物って何だろう…?
藤倉がそう疑問に思いながら、沢口の行動を見ていると、沢口が「藤倉ちゃん、頼む」と言った。
そこには細長い段ボールがあった。
沢口が引き摺りながら引き寄せるのを、藤倉も手伝う。
「よし、乗せるぞ」と沢口が言って、箱の端を掴む。
ふと見ると、さっき建物から出て来た男が荷台の傍に立っていて、隣りに病院で使うようなストレッチャーが置いてあった。
「藤倉ちゃん、反対側を早く持て!」
沢口が低く言って、藤倉は慌てて箱の反対側を掴み、持ち上げた。
その箱は見た目よりかなり重たかった。
何とかストレッチャーに乗せる。
建物から出て来た男が無言で、建物に向かってストレッチャーを押して行く。
「よし!終了!」
沢口がニカッと笑う。
「あれも内職の品ですか?
随分、重たかったですけど…」
藤倉がストレッチャーと共に去って行く男の背中を見ながら言うと、沢口は声を上げて笑った。
「剣持さんも人がワリィよな~。
全部、俺から説明しろってか?
追加料金貰うぞ、まったく!」
「沢口さん?」
「丸太だよ、丸太」
沢口は何でも無いように言った。
「丸太?」
藤倉がキョトンとして沢口を見ると、沢口がまた笑った。
「嘘だろ?
丸太も知らないで来たのかよ?
剣持さんのお気に入りのヤクの売人って聞いてたけど…。
そういや、素人をわざと使ってるって言ってたな。
サツの目を誤魔化す為に」
藤倉は思わず黙った。
沢口は笑顔のまま言った。
「丸太、死体だよ、死体。
組で出ちゃったやつをここで処理してもらうワケ。
ここはスゲー施設でさ、骨まで綺麗サッパリ…」
沢口の声が遠くに聞こえる。
じゃあ、俺が段ボール越しに触ったのは…
藤倉は猛烈な吐き気に襲われた。
我慢出来ずに、その場で吐いた。
藤倉が吐く物が無くなり、えずいていると、沢口が「終わったか?」と言って、藤倉が吐いた跡を2リットルのペットボトルの水で流してくれた。
藤倉が呆然としてしゃがんでいると、沢口が今度は500ミリリットルのペットボトルを、藤倉の目の前に差し出した。
「さっきの水は水道水。
初めてのヤツは大抵こうなるから、用意しといた。
こっちはちゃんとしたミネラルウォーター。
良く冷えてるから。
うがいでもしろよ」
藤倉は震える手でペットボトルを受けとると、うがいを繰り返す。
沢口が立ち上がり、藤倉を見ながら言う。
「藤倉ちゃん、あんた、相当剣持さんに気に入られちまったんだな。
これであんたはヤクの売人だけじゃ無く、死体遺棄の共犯だ。
もう組員と同じだな。
これからは丸太運びもやらせる気だぜ、きっと」
沢口の声が藤倉の耳を素通りする。
何故だか、如月がこの前送って来たメールに添付されていた如月が爆笑している画像が頭に浮かんで離れない。
「藤倉ちゃん、そろそろ行くぞ。
こんな所に長居は無用だ」
沢口がポンと藤倉の背中を叩く。
藤倉はフラフラと立ち上がると、車の助手席に向かった。
助手席に乗る前、一瞬、夜空を見上げた。
星が瞬いている。
煌めいている。
藤倉は助手席に乗り込んだ。
藤倉がシートベルトをすると、沢口が車を発車させる。
藤倉はフロントガラス越しに、星を目で追っていた。
涙は出なかった。
泣く気も無かった。
星が見えなくなってしまう。
乾いた瞳で星を追いながら、藤倉は思った。
ヤクの売人がなんだ…
丸太運びがなんだ…
俺はそれ以上のことをしただろう?
星が見られて
星を愛せて
幸せじゃないか
ただ一つ、後悔があるとすれば
星に触れてしまったことだけだ
俺は玲那ちゃんを汚した
俺が触れた素肌や唇が、元通り綺麗になりますように
でも
あの人なら、直ぐに綺麗になれる
あの人の自ら光る輝きが、俺なんかの汚れなんて直ぐに消し去る
玲那ちゃんの心から、俺も消え去った時、俺は安心して玲那ちゃんを愛し続けられるんだよ
だから、早く俺を忘れて…
「どうした、藤倉ちゃん。
急に落ち着いちゃって~」
運転しながら横目で藤倉を見る沢口に向かって、藤倉はにっこり笑った。
「ちょっと未来を考えてて…」
「未来!?」
沢口が素っ頓狂な声を上げる。
「丸太運びやって、未来なんて考えて笑えるなんて、藤倉ちゃん、見掛けによらず大物だな~。
剣持さんが気に入るのも分かるわ!」
藤倉は笑うだけで、何も言わなかった。
ただ、星を目で追い続けていた。
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