【48】猶予

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【48】猶予

如月はいつものように、池袋の駅前からバスに乗った。 自宅マンション側のバス停で降りて、マンションに向かう。 だが、如月はマンションの途中で歩みを止めた。 小さな公園に入る。 今日は休日出勤なので、ビジネスバッグは持っていない。 ラフなバッグをベンチに置くと、素手で地面の土をかき集める。 「馬鹿だなあ…悠真…」 如月はその小さな小さな土の山に話し掛ける。 そこは夏休みに砂の城を作った場所。 「ミナミに嘘までついて…。 親友辞めてもいいなんて言って…。 そんなに困ったことがあるなら、まず一番に恋人に相談するもんだろ?」 如月が土の山にまた土を足す。 「悠真…信じてるよ。 いつまでも待ってるよ。 だけど困った時くらい、俺を頼ってもいいだろ?」 如月の瞳から涙が零れて、土の山を濡らす。 万歳をしている人間を作ろうとするが、ただの土の山に指先で作っていては上手くいく筈も無い。 如月は土の山をそのままに、公園の水道で手を洗った。 もう9月の終わりの水道の水は、真夏の時期が嘘のような程、ひんやりと感じた。 それから如月はハンカチで手を拭くと、砂の山が見えるベンチに座ってスマホを手にし、藤倉とやり取りしたのラインの履歴、数少ないメール、そして海で南野や五十嵐と撮った画像と、自分から藤倉に送った画像も全てピクチャアルバムから次々と削除する。 メールはゴミ箱からも消去した。 それでも如月の手が止まる。 この公園のこの場所で、藤倉が作った砂の城のバルコニーで万歳している砂の人間。 自分がこの公園のこの場所で作った、砂の城のバルコニーで万歳している歪な砂の人間。 如月の瞳から涙が溢れる。 如月は震える指先で、自分が作った砂の人間をタップする。 そして削除をタップする。 砂の人間が消える。 如月は身体を折って咽び泣いた。 それでも。 藤倉の作った万歳をしている砂の人間をタップした。 そして削除をタップ。 たったそれだけで、あんなに大切な思い出が消えた。 『それはね、玲那ちゃん』 藤倉のやさしい声。 『夢が叶った玲那ちゃんだよ』 如月はふと夜空を見上げた。 月に雲が掛かっていて、星が輝いている。 如月は泣きながら星を見て思った。 これから家に帰って、パソコンやデジカメ、ビデオカメラにDVDの記録も消そう それが悠真の望みなら 思い出は消えない いつだって思い出せる 悠真の太陽みたな笑顔も、やさしい声も 自分を抱きしめてくれた腕 裸で抱き合った温もり 口付けを交わした感触 いつか必ず、悠真に会える そして悠真がまだ知らない、もう一つの俺の夢を叶えて 俺の夢を叶えられるのは、悠真しかいないよ 如月はベンチから立ち上がると、土の山を見て微笑んだ。 悠真、『世界で一番嫌いじゃ無くなった』って言わないでくれて、ありがとう 俺はまた砂の城を作ろう そして悠真にメールしよう 例え、画像を消さなくてはならなくても、悠真が見てくれるだけでいい 如月は金木犀の香りに包まれながら、公園を後にした。 藤倉はマンションの窓から夜空を見ていた。 夜中から天候が急変し、雨が降り出していた。 手にはスマホ。 南野からのライン。 『お望み通り、玲那ちゃんの画像もメールもラインの履歴も全部消しましたよ。 藤倉さんの世界で一番嫌いじゃ無い人が、それが悠真の望みなら、叶えてやってくれよって言うんでね。 その人も消したでしょう。 五十嵐さんを説得するのがすっげー大変でしたけど』 藤倉は胸が詰まって、返事のトークが打てなかった。 南野には敵わない。 そして、ミナミ、ありがとう それから 玲那ちゃん、ありがとう 愛してるよ… それと、九条からのメール。 藤倉が一週間の予定をメールした返信。 藤倉の一週間の売人の予定が書かれている。 それに、 『木曜日、お疲れ様でした。 沢口さんも藤倉さんのルックスも態度も非常に感心していました』 とあって、次の木曜日、売人の仕事の他に、また沢口との『運び屋』の仕事が夜に入っていた。 藤倉は思わず、 『運び屋もするということは、俺はもう組の組員ということですか?』 とメールで訊いた。 九条の返信は直ぐに来た。 『藤倉さんは組員とは言えません。 あなたはあくまでも『Sweet Heat』の社員で、ちょっとしたアルバイトをしているだけです。 まさか藤倉さん程の方が、運び屋をやったからといって、怖じけ付いていたりしていませんよね? 自首なんて馬鹿げたことは考えていないと思いますが、もし自首をしたとしても、私達は痛くも痒くもありません。 所詮、トカゲの尻尾切りです。 ですが、余計な手間を私達に掛けさせた報復はさせて頂きます。 あなたの大切なお友達でね』 自首も出来ないのか… 藤倉は乾いた笑いが出るだけだった。 やっぱりミナミに頼んで正解だった 万が一、ミナミから玲那ちゃんのことが漏れたら… 藤倉の背中に悪寒が走る。 玲那ちゃん 俺のただ一人、愛する人 俺のただ一つの、生きている希望 夢 藤倉は空を見つめる。 雨が降っていても、藤倉には見える。 愛しい愛しい、輝く星が。 藤倉は翌日の月曜日になって、今日も『Sweet Heat』の仕事が休みなんだと気が付いた。 『Sweet Heat』で働くようになって、初めての連休。 藤倉は午前中に売人の仕事を済ませると、一度五反田の自宅マンションに戻り、また出掛けた。 電車で着いた先は、如月や南野、五十嵐と来た海。 藤倉は、如月の住むマンションの近所の公園で砂の城を作った時の道具を、捨てずに取っておいた。 いや、捨てられなかった。 海でも公園でも被った麦わら帽子も。 藤倉は麦わら帽子を被り、白い長袖のTシャツを着て、バケツに砂浜の砂と海水をシャベルで混ぜる。 砂が程よい固さになると、底に穴の空いたバケツに砂を移す。 砂が乾かないように時々、霧吹きで砂の山に水を吹き掛ける。 そうして、ヘラやコテを使いながら、砂の山に細工していく。 9月末の海を吹き渡る風は涼しい。 藤倉は砂の城が完成すると、砂の城の隣りに座り、砂の城をじっと見ていた。 段々と潮が満ちてくる。 藤倉は立ち上がり、砂の城の後ろに立った。 バルコニーで万歳をしている砂の人間にも、波しぶきがかかる。 砂の城が波に飲まれ、崩れてゆく。 崩れればいい 藤倉は思う。 消え去る物なら、何も問題は無い ここなら、玲那ちゃんにも気付かれ無いだろう 俺は何度でも砂の城を作ろう 玲那ちゃんの夢が叶うまで 玲那ちゃんの夢が叶うように願いを込めて 夕陽が海に沈んでいく。 藤倉は荷物を持つと、海に背を向けた。 藤倉は翌日の火曜日、顔の湿布を取って『Sweet Heat』に出勤した。 もう痣も殆ど目立たない。 その夜、待ち構えていたように、女の子に呼び出された。 昼間、売人の仕事をして、『Sweet Heat』で働いて、夜、好きでも無い女の子を抱いて。 如月からメールは来ない。 以前、如月のメールにあった通り、仕事が忙しいのだろう。 そうして木曜日の『Sweet Heat』の休みがやって来て、藤倉は昼間に売人の仕事をし、夜には前回と同じように運び屋もやった。 藤倉は今度は処理場で吐かなかった。 『荷物』をストレッチャーに移し変える時も、手が麻痺したように何も感じない。 沢口はそんな藤倉に、満足そうに笑った。 だが藤倉は、マンションに帰宅すると吐いた。 手も何度も何度も繰り返し洗った。 夕食を食べてからかなり時間が経っているので、吐く物は無い。 それでもえずき、胃液を吐き続けた。 やっと落ち着くと、口内洗浄液でうがいを数回した。 そして着ていた服を洗濯機に放り込み、薄地のスエットに着替え、ロフトの布団に潜り込んだ。 身体を胎児のように丸める。 後から後から涙が零れる。 「玲那ちゃん…玲那ちゃん…」 藤倉は譫言のように如月の名前を呼び続ける。 裸の如月を抱きしめたことが蘇る。 真っ白な肌。 滑らかな肌触り。 甘い香り。 まるで、昨日抱きしめたように。 そして、やっと藤倉の涙が止まる。 あれ程、嫌悪感に満ちていた心が鎮まる。 「玲那ちゃん…」 何も無い、真っ暗な空間に手を伸ばす。 その指先にさえ、如月を感じる。 藤倉は静かに目を閉じた。 それから二週間が過ぎ、10月も半ばになった頃、藤倉のスマホに南野から如月からのメールが転送されて来た。 『Fw.悠真へ 全然連絡出来なくてごめんな! やっと夏休みの間に溜まっていた仕事が終わったと思ったら、今度は新しいプロジェクトが始まってしまいました。 だけど小さなプロジェクトだったので、それも終わりました。 やっと一息吐けます。 悠真は元気ですか? 最近、急に寒くなってきたから、気温の寒暖差で風邪など引かないように気を付けて下さい。 この前、休日出勤が無かったので、久しぶりに作ってみました。 でも安心して下さい。 画像は消してあります。 少しは上手に出来たかな!? 玲那』 そこには。 やはりどう見ても、砂の城とは言えない砂の塊の画像と。 幸福そうに笑って万歳をしている砂の人間。 藤倉が運び屋の仕事を初めてこなしてから、九条は当然のように売人の仕事の傍ら、週に一度、運び屋の仕事も予定に組み込んできていた。 藤倉は九条の指示通り、売人の仕事と運び屋の仕事を両立していた。 あの海に砂の城を作りに行く気力も無かった。 万歳をしている砂の人間を指先でなぞる。 俺の身体の心配なんかして…自分はこの秋の日の中、砂の城なんかを作っている玲那ちゃん… もう水も冷たいだろうに… 藤倉はスマホをロッカーのバッグに戻すと、従業員用のシャワーに向かった。 これからまた女の子の相手をしなくてはならない。 シャワーを浴びる藤倉の瞳から、涙が零れて落ちる。 神様、もう少しだけ 家に帰って、もう一度だけ、玲那ちゃんのメールを読んでもいいですか? もう一度だけ、砂の城を見て、万歳をしている砂の人間を見てもいいですか? 幸福に満ちたあの笑顔を目に焼き付けてもいいですか? あと数時間、猶予をくれますか? そうしたら、また明日から、この最低な世界で生き抜いてみせますから 藤倉の涙がシャワーのお湯と共に、排水口に流れていった。
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