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【5】失態
藤倉はそっと如月を、如月の部屋のドアに凭れ掛けるようにして降ろした。
それから自分の部屋のドアの鍵を開けた。
如月のビジネスバッグを拾い、玄関の中に置く。
そして如月をまた抱き上げ、自分の部屋の玄関に入った。
藤倉は靴を脱ぐのももどかしく、急いで部屋へと上がった。
一直線にソファへ向かう。
如月を寝かせるように下ろす。
次に如月の靴を脱がしてやった。
靴を玄関に置いてソファに戻ると、如月が「苦しい…」と呻いている。
藤倉は上着を脱がせ、ネクタイも外してやった。
ワイシャツの釦も半分ほど外す。
そして冷蔵庫から500ミリリットルのペットボトルのミネラルウォーターを持って来て、蓋を開けた。
「如月さん、水です。
飲めますか?」
如月は薄目を開き、何とかペットボトルを掴む。
口に持って行き、一口二口飲んだかと思うと「吐く…」と呟いた。
藤倉は如月を支えてトイレに向かった。
如月が便座を抱いたのを確認して、背中を撫でてやる。
「吐く…」
「いいから吐いて」
如月はほんの少し吐瀉物を吐いただけで、苦しそうにえずいている。
如月が落ち着くと、藤倉は水を流した。
それから洗面所に連れて行く。
水を出してコップに注ぐ。
「口が気持ち悪いよね?
すすいで」
如月は言われた通り、ゆっくりと口をすすぐ。
「これ、口内洗浄液。
もっとスッキリするから」
藤倉がコップに注いだ口内洗浄液も、如月は素直に使った。
だが終わった瞬間、崩れ落ちた。
藤倉がとっさに抱き止める。
そのまま抱き上げ、ベッドに横たえる。
「如月さん、着替えよう。
俺が着替えさせるから。
如月さんは寝てればいいから」
如月が小さく頷く。
藤倉はクローゼットから、グレーのスエットの上下を出すと、如月を手早く下着だけにした。
そしてスエットを着せる。
如月をベッドボードに凭れさせ、またペットボトルを掴ませる。
「水を飲まなきゃ駄目だ。
飲めば少しは楽になります」
如月は何とか口元にペットボトルを持って行くが、ペットボトルを傾ける力も無いようだった。
藤倉は如月の手からペットボトルを奪うと、自分の口にミネラルウォーターを含んだ。
そうして如月の細い顎を手で固定して上に向かせると、如月の唇に唇を重ねた。
冷たい水の感触に如月が反射的に口を開く。
藤倉は小さく開いた口から水を流し込んだ。
如月がコクコクと水を飲み込んでいく。
藤倉はそれを何度か繰り返し、ペットボトルの3分の2程、如月に水を飲ませた。
それからベッドに横にしてやり、掛け布団を掛ける。
如月はされるがままになっている。
藤倉はふと思い付いて、如月の額に冷却シートを張った。
如月はまだ顔色は悪いが、だいぶ落ち着いたようだった。
如月がボンヤリと藤倉を見上げる。
藤倉はそっと如月の髪を撫でた。
「もう大丈夫。
ゆっくり寝て下さい」
藤倉の囁きに、如月が安心したように長い睫毛を伏せる。
如月がスヤスヤと寝息を立てるまで、藤倉はベッドの傍を離れなかった。
如月が完全に眠りに落ちると、藤倉は散らばった如月のワイシャツやスーツやネクタイをハンガーに掛けた。
ホッとすると、藤倉も一気に眠くなった。
如月に飲ませたミネラルウォーターの残りを飲み干すと、自分もスエットに着替え、予備の毛布を出すとソファに横になる。
睡魔は直ぐに訪れた。
如月は久し振りにゆっくり寝たと思った。
瞬きをしながら瞳を開ける。
見慣れた白い天井…では無かった。
確かに白い天井だが、見知らぬ照明が見える。
布団の中でハッとした。
カバーもシーツも見覚えが無い。
ガバッと起き上がって、思わず頭を押さえた。
酷い頭痛がする。
それに胃もムカムカする。
「あ、如月さん、起きた?」
何処かで聞いた声…
如月が頭を押さえながら声のした方を見ると、部屋着にエプロンをした藤倉が立っていた。
「ふじ、くら…さん?」
「どう?
どこか具合悪く無いですか?」
「頭が凄く痛いし、胃もムカムカします…」
「やっぱりね」
藤倉は一度何処かへ消えると、ミネラルウォーターのペットボトルと緑色の錠剤を持って戻って来た。
「これ胃薬です。
食前だから先に飲んで下さい。
俺はこれから昼飯を作るんで、それを食ったら頭痛薬を飲んで下さい」
「あ、あの…俺は何で…?」
「すみません。
俺、余り時間が無いんです。
今日も仕事なんで。
昼飯の時、説明します。
取り合えず、胃薬飲んで下さいね!」
藤倉にビシッと言われ、如月は胃薬をペットボトルの水で流し込んだ。
喉も渇いていて、一気に半分くらい飲んでしまった。
目の前のラックに自分が昨日着ていたスーツが綺麗に掛けられていて、如月は思わず自分の姿を見た。
グレーのスエットの上下を着ている。
如月はそっとベッドから降りた。
如月の部屋と造りは変わらない。
だが部屋の中は、如月の部屋より格段にシンプルで、尚且つ片付いている。
如月はソファの横に置かれた自分のビジネスバッグを見て、思わず声を上げそうになった。
見事に角がヘコんでいる。
昨夜、何をしてしまったのかと思うと、自然と悪寒がした。
必死に記憶を辿る。
昨日はプロジェクトが無事完遂し、終業後、プロジェクトチーム全員で打ち上げがあった。
確か二次会でカラオケ、三次会で飲み直ししようということになって…チャンポンさせられたような気がする…それから一人でタクシーに乗った…マンションに着いたところまでは覚えている。
その後の記憶が無い。
如月がバッグの前にしゃがんで、うんうん唸っていると、藤倉が「如月さん、大丈夫ですか?」と声を掛けた。
如月は飛び上がらんばかりに返事をした。
「だ、大丈夫です!」
「あ、貼り替えましょうか?」
「貼り替える?」
またパタパタと藤倉が何処かへ消える。
そして白い布のような物を手にして戻って来た。
「おでこ、貼り替えます」
藤倉が如月の額から冷却シートを剥がして、新しいものを貼る。
スーッとした刺激が、頭痛のする頭に心地好い。
「じゃあメシ食いましょう!
如月さん、ダイニングテーブルまで来られますか?
それともローテーブルの方がいい?」
「どっちでも…」
「じゃあダイニングテーブルまで来て下さい」
と言っても、数歩歩けばダイニングテーブルだ。
如月は大人しくテーブルに着いた。
藤倉がトレイに丼とレンゲを乗せて来る。
「海鮮粥。
丁度シーフードの冷凍があったから。
どうぞ」
熱々で湯気の立つお粥は、とても美味しそうだった。
胃薬が効いてきたのかムカつきもほぼ消えていた。
「いただきます」
如月はお粥をレンゲで掬うと、フウフウと息を吹き掛け口に運ぶ。
「美味しい!」
そう言う如月に、藤倉がニコッと笑う。
「良かった!
中華風だけど」
「すっごく美味しいです!」
如月はパクパクと食べていく。
藤倉が今度はクスッと笑う。
「それ、癖ですか?」
「え?」
「頬っぺた一杯にして食べるの」
如月は真っ赤になって、両手で口元を押さえた。
「そう…です。
よく同僚にも笑われます」
「いいじゃないですか。
美味しそうに食べてくれて嬉しいです」
藤倉はニコニコと笑って、自分も食べ出した。
如月は恥ずかしかったが、お粥の美味しさに負けて、藤倉より先に食べ終わってしまった。
藤倉が食べ終わるのを、お茶を飲みながら待つ。
藤倉が「ごちそうさまでした」と言ってお茶に手を付けたところで、如月が口を開く。
「藤倉さん、訊いてもいいですか?
昨夜、俺、何かご迷惑をお掛けしたんじゃ…」
藤倉は悪戯っぽく笑った。
「正確に言うと今朝です」
「今朝…」
「4時半頃、如月さんはマンションのエントランスでうずくまって、動けなくなっていました」
さっきまで真っ赤だった如月が、サーッと青くなる。
「意識も朦朧としていて。
危なかったので、俺が抱いてここまで運びました。
本当は如月さんの部屋に運びたかったんですけど、如月さんは鍵も出せない状態で。
バッグまで落としてしまって」
如月は何も言えず俯いた。
「それで如月さんが苦しいと言ったので、まずスーツのジャケットを脱がせました。
それから如月さんが吐くと言って…」
「吐いたんですか!?」
如月がガバッと顔を上げる。
「吐きました…けどトイレで、です。
それから口をゆすいだら、また倒れてしまって。
それで俺がベッドに運んで、着替えさせて寝かせました。
あ、俺はソファに寝ましたから。
ご心配無く」
「すみません!」
如月はテーブルに付く程、頭を下げた。
「ご迷惑をお掛けして、本当にすみませんでした!」
「そんな…頭を上げて下さい。
大したことはしてないし」
「してます!
藤倉さんがここに運んで下さらなかったら、どんなことになっていたか…。
きっと大騒ぎになっていたと思います。
本当にすみません!
それと、ありがとうございました!」
藤倉が息を吐いて席を立つ。
如月はそれでも頭を下げたままでいた。
如月の目の前に、水の入ったグラスとシートに入った白い錠剤が置かれる。
「鎮痛剤です。
如月さんはそれを飲んで、もう少し休んでいって下さい。
俺は仕事に行きます」
「でも…!」
如月が顔を上げる。
「兎に角、薬を飲んで」
藤倉に促されて、如月は鎮痛剤を飲んだ。
「そしたらせめて鎮痛剤が効くまで、ベッドで横になってから帰って下さい。
これ合鍵です。
使ったらドアのポストに入れておいて下さい」
銀色の鍵がテーブルに置かれる。
「藤倉さん、でも…」
藤倉がまたニコッと笑う。
「歩けませんか?
歩けないなら、また今朝みたく抱いてもいいですけど」
如月はパッと赤くなると、そそくさとベッドに向かう。
藤倉がクスクスと笑いながら、その後を追う。
如月がベッドに入ると、藤倉は満足そうに頷いた。
「それで出来れば少し寝て。
この部屋にある物は自由に使って下さい。
盗まれるような物は何も無いし。
飲み物も冷蔵庫から自由に飲んで下さい。
それと」
藤倉がローテーブルの上のメモ帳にペンを走らせると、メモを一枚破って如月の枕元に置いた。
「ラインのIDです。
何かあったら連絡下さい」
如月は赤い顔のまま、コクッと頷く。
「じゃあ、俺は後片付けと支度があるんで」
藤倉がベッドを離れる。
如月はベッドの中で丸くなった。
恥ずかしかった。
酒に強い如月にしては大失態だ。
ここまで他人に迷惑を掛けたのは、学生の時以来だった。
だが少しすると、段々眠くなってきた。
駄目だ…藤倉さんを見送らなきゃ…
そう思いながらも如月は眠りに落ちて行った。
藤倉は安らかに眠る如月の髪にそっと触れて、「お大事に。行ってきます」と言うと部屋を出た。
『行ってきます』なんて言うのは、何年ぶりだろう。
藤倉は心が弾んでいた。
まるで小さな頃、弟と田舎の祖父母の所で、綺麗な小石を見つけて秘密の宝箱に仕舞ったり、昆虫を捕まえた時のような懐かしい気持ちだった。
自分の部屋に如月が眠っている。
相手は二日酔いで動けないだけだと分かっていても、まるで大切な宝物のように思える。
その気持ちは『Sweet Heart』に着いても変わらなかった。
ソープランドの下働きをこなしながら、気分良く働けた。
そして夕方の休憩時間にスマホを見て頬が弛んだ。
『如月玲那です。
今日は大変お世話になりました。
無事に帰宅しました。
お礼がしたいので、ご都合のよろしい時に連絡を下さい』
藤倉は如月にトークした。
『無事に帰れて良かったですね。
お礼なんていりません。
帰りは午前1時を過ぎます。
明日も仕事です。
俺のことは気にしないで下さい』
如月さんは『玲那』っていうんだ…
藤倉はお礼云々より、名前を知れたことが嬉しかった。
それきり如月からトークは無かった。
その夜も藤倉は店の女の子を抱くことになった。
それでも以前ほど、嫌悪感も惨めさも感じなかった。
女の子とキスをして、そう言えば如月にも口移しで水を飲ませたんだと改めて思い出した。
真っ赤に染まった唇だった…
あれはキスとは呼べないけれど、せめて今日くらいは如月との『キス』だけに浸りたかったな、と、それだけが残念だった。
そして翌日の昼過ぎ、藤倉の家のインターフォンが鳴った。
モニターを見て驚いた。
如月が立っていた。
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