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【6】お礼
藤倉は慌ててドアを開けた。
如月は「お仕事前にすみません」と言って、藤倉が以前渡した紙袋を差し出した。
如月は髪もセットされておらずサラサラで、普段着を着ている如月は、スーツ姿の如月より格段に幼く見えた。
「あの…俺、不器用なのでアイロンを掛けるのが下手でバンダナがあまり綺麗じゃないんですけど…洗濯はちゃんとしてありますから!」
藤倉は紙袋の中を見た。
ちょっと曲がって畳まれた赤いバンダナと緑の小さなポットが入っている。
「アイロンなんて別に良かったのに…」
藤倉がそう言うと、如月は真っ赤になって続けた。
「それで藤倉さんにどうしてもお願いがあります」
「何ですか?」
「俺にお礼をさせて下さい!
そのお握りとお味噌汁の分も。
お願いします!」
「だから…お礼はいりませんから…」
如月が大きな丸い瞳を見開いて、必死に言う。
「お礼…したいんです!
お願いします!」
藤倉はニコッと笑った。
「じゃあラーメン奢って下さい」
「ラ、ラーメン…?」
「ラーメン好きなんです。
でも俺の休みは平日ですけど」
「藤倉さんのお休みに合わせます!
次のお休みはいつですか?」
「明日と木曜日です」
「じゃあ、明日!」
如月がホッとしたように言って、にっこり笑う。
「明日?」
「はい!
時間は申し訳無いですけど、俺の仕事終わりでいいですか?
夜9時…いえ、8時には待ち合わせ出来ます。
します!」
「でも如月さん忙しいんじゃ…」
「いえ、大丈夫です!
好きなお店とかはありますか?」
藤倉はクスクスと笑った。
笑っていないと、なぜか泣いてしまいそうだった。
「如月さんにお任せします」
「はい!
じゃあまたラインしますね!
お忙しいところすみませんでした。
失礼します」
如月はペコリと頭を下げると、恥ずかしいのか真っ赤なまま逃げるように隣りの部屋に戻って行く。
藤倉はドアを閉めると、その場にずるずると座り込んだ。
本当に涙が零れて落ちた。
こんな風に必死になって、お礼がしたいなんて言われるなんていつぶりだろう。
学生の時?
それとも?
それでも自分が汚れる前のことなのは確かなことだ…
藤倉は玄関で咽び泣いた。
藤倉はひとしきり泣くと洗面所に向かった。
冷水で顔を洗い、充血止めの目薬を点す。
濡れた前髪をドライヤーで乾かすと、通勤着に着替えた。
通勤着と言っても私服なので、普段着と余り大差は無い。
それでも藤倉は、数少ないワードロープの中でも、お洒落になり過ぎないように注意している。
シンプルで目立たないように。
仕事場が仕事場だし、下っ端の藤倉が職場で目立って良いことなど一つも無い。
先輩達の反感を買うだけだ。
それは過去の経験からも、嫌と言う程分かっている。
それでも目ざとい人間は目ざとい。
藤倉が歌舞伎町に一歩足を踏み入れると、肩をポンと叩かれた。
「藤倉さん、今から出勤?」
振り返るとホストの高梨がいた。
この午後の日差しの中、真っ白な上下に書きなぐりのように様々な色がペイントされたド派手なスーツを着ている。
「はい、そうです」
高梨が馴れ馴れしく藤倉の肩を抱く。
「なあ、ウチの店に来ること考えてくれた?
藤倉さんなら半年、いや三ヶ月でトップクラスに上り詰められるぜ?」
「そのお話なら…お断りした筈ですけど…」
「そんな事言わずに考えてよ。
ホスト始めるなら25って結構ギリだしさ。
ソープランドのボーイなんかで働くより何十倍も収入増えるよ?」
「すみません。
今、時間も無いし…」
「あ、そうだな。
これから仕事なのに、悪い」
高梨が自信たっぷりにニッと笑う。
「俺も今から店外デート。
せいぜい貢いで貰ってくるかな。
じゃあ藤倉さんも気が変わったらいつでも電話して」
「失礼します」
高梨が抱いていた肩を離してくれて、藤倉は曖昧に笑ってその場を足早に離れる。
ブォンとエンジン音がして、真っ赤なポルシェが藤倉の横の車道を走り去る。
藤倉はホッと息を吐いた。
藤倉にホストにならないかと誘ってくるのは高梨だけでは無い。
勿論、最初は厳しいだろうが、高梨の言う通り、ソープランドのボーイなんかよりも桁違いに収入が増えるのは分かり切っている。
けれど、藤倉にそんな気は更々無かった。
まず自分の顔を、店前に晒さなければならないのかと思うだけでゾッとする。
藤倉は少し気分が落ち込むのを感じた。
だがこれから仕事だ。
落ち込んでいる暇など無い。
その時、如月の顔が頭に浮かんだ。
大きな丸い瞳を見開いて、必死になって言葉を紡ぎ、藤倉の返事ににっこり笑い、赤面しながら自分の部屋に戻って行った。
その一部始終が藤倉の頭に蘇る。
藤倉の胸がほんのり暖かくなる。
落ち込んでいた気分などふっ飛び、上昇する。
明日は如月と食事に行ける。
きっと律儀な如月のことだから、今頃美味しいラーメン屋を探してくれているかもしれない…。
藤倉は足取りも軽く『Sweet Heart』に向かった。
藤倉が店に着いてボーイ服に着替えると、先輩の田崎がロッカールームにやって来た。
「田崎さん、おはようございます」
「おう、おはよ」
田崎は自分のロッカーを開けると何やらゴソゴソしている。
藤倉がその後ろを通り過ぎようとすると、田崎が思い出したように藤倉に声を掛けた。
「そうだ。
実花さんからケーキの差し入れがあったんだ。
『藤倉ちゃんに渡して』って。
俺達の分まで買ってきてくれてさ。
あのドケチの実花さんがだぜ?
俺がここで働き出して初めてだよ~!
俺達もうビックリしちゃって!
お前の分だけ別箱に入ってるから。
休憩室の冷蔵庫に入れてあるから、休憩時間にでも食えよ。
あ、実花さんにお礼言っとけよ!」
「…はい」
藤倉は苦笑した。
実花とは数回セックスした仲だ。
だが、仕事上のこと。
実花は藤倉と初めてセックスをした後から、様々なアプローチを藤倉に仕掛けてきていた。
食事に一緒に行こう、休みに何処かに出掛けよう等など。
藤倉は上手く理由を付けて全て断ってきた。
差し入れか…
これじゃ断るに断れない…
案の定、ロッカールームから休憩室を抜けようとすると、丁度休憩中だった三上に実花のことを散々冷やかされた。
事務所に向かい、タイムカードをスキャンする。
するとチーフマネジャーの緒方が、パソコンから顔を上げた。
「藤倉、ご馳走さま。
実花からのケーキ旨かったよ」
緒方はニヤッと笑った。
「…そうですか」
「実花の奴、オーナーにもケーキ配ったんだぜ?
『藤倉ちゃんをよろしく!』って」
「はあ…」
「今日は実花が早番で助かったな~。
遅番だったらまた呼び出しだ」
「……」
「あ、そうだ、藤倉。
明日早番で出勤して貰えないか?」
藤倉は実花の話題が終わってホッとした。
明日は如月と出掛ける。
けれど如月は夜の8時に待ち合わせると言っていた。
早番は7:30~15:30まで。
十分時間はある。
藤倉は笑顔で「大丈夫です」と答えた。
「急にワリィな。
明日は予約が目一杯でさ。
人手が足りそうにないんだよ。
帰る時間が惜しかったら店泊しろ」
「はい」
藤倉は笑顔のままそう答えると、事務所を出た。
ボーイの下働きは様々だ。
藤倉はやっと立ち番のボーイを卒業したところで、それこそ食器洗いから出前の注文、使用済みタオルやシーツの分別、店の掃除等多岐に渡る。
但し、お客様と直接接するのは、お帰りの時の靴揃えくらいだ。
橘の店は、チーフマネジャーの緒方とマネージャーの柏原を除いて、十人のボーイで店を回している。
店は年中無休なのでギリギリの人数だ。
藤倉は下から二番目か三番目といったところ。
今住んでいるマンションも、橘が寮として借り上げてくれている。
橘だけは、藤倉の抱えている事情を知っている。
ここで働く以前から、橘と藤倉は南野を通じて顔見知りだった。
藤倉がもっと稼げる務め先を探していると橘が聞いて、「じゃあウチに来いよ」の一言で採用が決まった。
橘には感謝してもしきれないと藤倉は思う。
橘は、普段はオーナーと店長の仕事をこなす以外は、事務所の横の店長室に籠ってボーッとしていることが多い。
橘が藤倉に言うには、趣味の絵やオブジェの構想を練っているらしい。
たが橘の目は店の隅々まで行き届いている。
女の子の接客態度から売上げは勿論、ボーイの勤務態度まで。
あのやさしい橘が、一旦『使えない』と判断したら、容赦無くクビを切る。
その代わり、普段の橘は細かい所にも気が付いて誉めることも惜しまないし、気前も良い。
藤倉が以前寮として住んでいたマンションは、同じ店のボーイも四人住んでいた。
同じマンションに住んでいれば、自然と交流が生まれる。
藤倉にはそれが苦痛だった。
仲良くしたくない訳では無い。
けれど藤倉は、他人とは一定の距離を置いていたい。
だが職場と帰るマンションまで一緒では、避けようとするのは至難の業だ。
そこを橘が見抜いた。
藤倉が何も言わないのに、今のマンションに引っ越さないかと提案してくれた。
藤倉は一も二も無く承諾した。
以前住んでいたマンションより新宿には少し遠くなるが、一人になれる喜びの方が遥かに大きかった。
そんな橘は店の従業員皆から慕われている。
チーフマネジャーの緒方やマネジャーの柏原は盲信していると言っても良い程だ。
橘は藤倉の過去を知っているが、藤倉は橘の過去は何も知らない。
知っているのは元ホストだということ、両親が健在だということ、姉がいるらしいということぐらいだ。
藤倉はそれでもいいと思っている。
橘は店ではそれ程態度に出さないが、プライベートでは藤倉を本当の弟のように可愛がってくれる。
それだけで十分だ。
藤倉は今日もいつもと変わらず懸命に仕事に励んでいた。
夕方の休憩時間に、藤倉はコンビニで買った弁当を食べ、ペットボトルのお茶を飲むと、休憩室の冷蔵庫を開けた。
そこには、『藤倉ちゃんへ。実花からの差し入れだよ~!』とメモが貼られた小さなケーキの箱があった。
冷蔵庫を閉め、箱を開けると、美味しそうなフルーツタルトが入っていた。
藤倉はフルーツタルトを箱から取り出すと、そのままかじりついた。
休憩室に備え付けのサーバーから汲んだコーヒーで流し込む。
そう言えば忙しくて実花さんにお礼を言ってないな…
藤倉はその時気付いたが、実花は売れっ子だ。
予約だけで埋まる日も多いという。
女の子達は日払いなので、帰りは必ず清算の為に事務所に寄る。
藤倉は後で事務所に、実花宛てのお礼のメモを渡してもらうことに決めた。
休憩室に置いてある店のロゴ入りのメモに、実花宛てのお礼を書く。
それからスマホを手にした。
ラインの着信ランプが光っている。
まさか…
ラインを開くと如月からのトークだった。
『お仕事お疲れ様です。
美味しいラーメン屋を中目黒に見付けました。
藤倉さんさえ良かったらそこに一緒に行って貰えませんか?
夜8時に改札を出た所で待ってます』
藤倉は直ぐにトークを返した。
『明日は急に仕事になりましたが、8時なら余裕で行けます。
楽しみにしています』
すると直ぐにクマが喜んで『♪』マークを散らしているスタンプが如月から貼られてきた。
藤倉は思わず笑った。
如月の新しい一面をまた見た気がした。
「楽しそうだなあ、藤倉」
突然後ろから緒方の声がして、藤倉はハッとするとラインを閉じた。
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