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【7】あと、少しだけ
「あ、緒方さん、お疲れ様です」
藤倉が立ち上がって振り返る。
緒方はニヤリと笑うと唐突に言った。
「実花がさ~清算に来たのよ」
「は?はい…」
「指名も全部終わったし、これから客取ると時間外になるって」
「はあ…」
「そしたら実花の奴、何て言ったと思う?
藤倉ちゃんにケーキの感想聞きたいから、今直ぐ藤倉ちゃんを呼んで来てーって大騒ぎよ。
この俺にお前を呼んで来いだと」
「すみません!
あの…実花さんへのお礼なら、メモに書いて今事務所に渡して貰いに行こうと…」
藤倉がメモをテーブルから手に取ると、緒方がパッとそのメモを奪い、ボーイ服の胸ポケットにしまう。
「なあ、藤倉」
緒方が一歩、藤倉に近付く。
「この店で実花の相手が出来るのは、今まで俺だけだったんだよ。
実花はプライドが高いから、チーフの俺以外は嫌だって他のボーイなんて目もくれなかった」
「……」
「それが今じゃどうだ?
二言目には藤倉ちゃん藤倉ちゃん…。
お前、実花を落とそうとしてんのか?
ヒモにでもなる気か?」
「ち、違います!
俺だって好きで相手をしてる訳じゃありません!
断れるなら、断ってます!」
「ナマ言ってんじゃねえ!
この半人前以下のクズが!」
緒方のパンチが藤倉の腹にめり込む。
藤倉は身体をくの字にして、その場に崩れ落ちた。
「お前みたいなクズが実花を抱けるだけでもありがたいと思え!
付け上がってんじゃねえぞ!」
その時、コンコンと休憩室のドアをノックする音がした。
「緒方さん、ここですか?
柏原ですけど…」
「おう、入れ」
「失礼します」
休憩室のドアが開き、マネジャーの柏原が入って来る。
柏原はチラッと藤倉に目をやると、何も見ていないかのように話し出した。
「事務所で実花さんが拗ねちゃって大変なんです。
緒方さんはまだか、藤倉を呼べって。
俺の話なんて全然聞いてくれなくて…。
実花さんの相手は緒方さんじゃないと無理っすよ」
緒方が納得顔で頷く。
「実花も仕方ねえな~。
今、行くよ」
緒方はポンと柏原の肩を叩くと、休憩室を出て行く。
柏原は緒方が居なくなると、藤倉の前にしゃがんだ。
「藤倉、大丈夫か?」
「だ…大丈夫です」
「緒方さんに何かされた?」
藤倉は首を横に振った。
「何も…されていません」
柏原は藤倉を抱えて起こしてやった。
そして真っ直ぐ藤倉を見て言った。
「それでいい。
何かされても、されましたなんて絶対他人に愚痴るな。
回り回って緒方さんの耳に入った時には、余計な尾ひれが付いている。
緒方さんをもっと怒らせることになる。
緒方さんは仕事に厳しい人だから、新人のお前が変に目立つのが気に入らないんだよ。
早く一人前になれ。
そうすれば緒方さんも直ぐにお前を認めてくれる」
「はい…」
「頑張れよ」
柏原はニコッと笑うと、休憩室を出て行く。
藤倉はその後ろ姿を見送ると、どっと椅子に座り込んだ。
凄い勢いのパンチだった。
食べた物が逆流しそうだ。
藤倉はテーブルの上のスマホに手を伸ばした。
ラインを開いて、さっき見た如月のトークを見返す。
明日になれば如月に会える。
如月が探し出したラーメン屋で一緒に食事が出来る。
クマのスタンプを指先でなぞる。
「楽しみにしています…」
藤倉は小さく呟いた。
藤倉はその日仕事が終わった後、帰宅したかった。
明日は早番でも、如月と出掛ける為に、もうちょっとマシな服に着替えたかったからだ。
だが残業があった上、また女の子の相手をしろと緒方直々に言われてしまった。
相手の女の子は、今までのトップクラスの売上げを誇る女の子ではない。
中堅どころのトップといったところ。
藤倉には初めての相手だ。
女の子は部屋に現れた藤倉に飛び上がって喜んだ。
「藤倉ちゃんはトップのお姉さん達が独占してるって聞いてたから諦めてたけど、言ってみるもんだねー!」
「そうですか…」
藤倉が笑顔を作る。
「うん!
チーフマネジャーに訊かれたの。
誰か相手にして貰いたい奴いるか?って。
鬼の緒方さんから、そんなこと言われるなんて思ってもみなかったからビックリしたけど、思い切って藤倉ちゃんって答えたの!
そしたらホントに来てくれるなんて~!
超嬉しい!
今夜はサービスするからね~!」
女の子が藤倉に抱きつく。
藤倉も女の子を抱き返した。
結局、藤倉は店泊することになってしまった。
だが藤倉は、従業員の店泊用のベッドに潜り込みながら、それでも早番だから帰宅する時間は十分にあると思って安心していた。
それに15:30上がりなら、上手くすれば仮眠も取れる。
藤倉は如月のにっこり笑った顔を思い出しながら、眠りに就いた。
翌日は忙しかった。
藤倉は殆ど早番をやらないので知らなかったが、早番の一人が有休を取っているのだという。
藤倉はヘルプでは無く、いわばそのボーイの穴埋めだ。
慣れない早番を、その休んだボーイの分まで働かなければならない。
あっという間に午前中が過ぎた。
午後1時に休憩室で昼食を取っていると、マネジャーの柏原が休憩室にやって来た。
休憩室にいたボーイ達が口々に、柏原に「お疲れ様です」と挨拶する。
藤倉も「お疲れ様です」と言った。
柏原は藤倉の前まで来ると、言いにくそうに告げた。
「藤倉、悪いんだけど、18時まで残業してくれないか?
勿論、15時半以降は残業代ということで給料は計算させて貰うし…」
藤倉に拒否する権利など無い。
藤倉は笑顔で「分かりました」と答えた。
それにここから中目黒までは30分も掛からない。
約束の20時まで2時間もあれば、自宅に戻ってから中目黒に向かうことも十分出来る。
藤倉はその間に小休憩を挟みながら、18時まで働いた。
18時になって事務所に向かい、チーフマネジャーの緒方に「上がっていいですか?」と声を掛ける。
緒方はニヤッと笑った。
「上がる?
メシ行ってこいよ、メシ。
それで1時間しっかり休憩取れよ。
そんなんじゃ閉店まで保たねえぞ」
「閉店…ですか?」
「何だよ、柏原に聞いてないのか?
今日のお前はフルだよ。
その代わり残業の上に残業はしなくていい。
24時になったらキッチリ上がれ。
良かったな~藤倉。
残業代稼げて」
事務所でパソコンに向かっていた柏原が、緒方の背中越しに藤倉を見る。
その目は逆らうなと言っている。
頼みの綱の橘も今日は休みだ。
緒方は橘が休みだと分かっていて、今日のことを仕組んだのだ。
藤倉は目の前が真っ暗になった。
フラフラと休憩室に行き、ロッカーのバッグからスマホを取り出す。
ラインを開く。
昨日如月が貼ったクマのスタンプが楽し気に『♪』マークを振り撒いている。
藤倉は如月に、『すみません。今日は24時まで仕事になりました。ラーメン屋はまた今度にして下さい』とトークした。
如月からトークは無い。
藤倉は如月もきっと仕事中なんだろうと思った。
忙しそうな如月のことだ。
仕事場が何処かは知らないが、20時に中目黒に間に合うように必死に残業をしているのかもしれない。
藤倉は残念だな、と思っただけだった。
自分の人生なんて所詮こんなものだ。
緒方が、藤倉と如月の約束を知っている筈は無い。
だが緒方の嫌がらせと自分の楽しみが見事に一致する。
ほんの些細な楽しみも、お前には許されないのだと、運命が言っている。
藤倉はそれきり二度とスマホを見なかった。
24時に閉店になると、藤倉は緒方に笑顔で「お疲れ」と言われた。
そのまま事務所でタイムカードをスキャンして、ロッカーに向かう。
昨夜二時間しか寝ていないので疲労もピークだった。
手早く私服に着替えて、ボーイ服をランドリーボックスに投げ入れる。
店を出ると外は大粒の雨だった。
だが藤倉は店に戻る気にも、傘を買う気にもなれなかった。
JR新宿駅に向かおうとして、ふとスマホが気になった。
バッグからスマホを取り出す。
ラインの着信を告げるランプが光っている。
慌ててラインを開く。
如月からのトーク。
『中目黒のお店は午前5時まで開いてます。
藤倉さんさえ良かったら中目黒まで来て下さい。
無理なら連絡下さい。
待ってます』
藤倉は即ラインを閉じた。
新宿三丁目の副都心線まで走る。
雨が顔につぶてのように当たる。
けれど、痛みも感じない。
ひたすら走り、電車に飛び乗る。
たった16分が、物凄く長く感じる。
全身がびしょ濡れだったが、どうでも良かった。
中目黒に着くと、人波を掻き分け、また改札に向かって走る。
改札を出ると丁度正面に如月がいた。
如月はスマホを片手に人波を見ている。
「如月さん!」
藤倉が大声で呼ぶと、如月がにっこり笑って、大きな丸い瞳を更に丸くした。
「藤倉さん…凄く濡れてますよ?
傘は?」
如月が仕立ての良さそうなスーツのジャケットのポケットからハンカチを取り出すと、藤倉の顔をハンカチで拭う。
ハンカチからふんわりと如月のフレグランスの香りが漂う。
藤倉はその手をハンカチごと握った。
「如月さん…何時からここにいたんですか?」
如月はちょっと頬を赤くした。
「実は…俺も忙しくてスマホをチェックしてる暇が無かったんです。
藤倉さんのラインに気付いた時は、もう中目黒に向かう地下鉄に乗った後でした」
「それで…?」
「約束の時間にはここにいました。
もしかしたら藤倉さんのお仕事が早く終わるかもしれないと思ったら、動けなかったし。
それに俺、今週は今日しか早く抜けられそうにないんです。
だから、今日どうしても藤倉さんに会いたくて」
『どうしても藤倉さんに会いたくて』
藤倉は如月を抱きしめた。
「藤倉さん…?」
「すみません。
如月さんが濡れる」
藤倉の前髪から、雨の雫がポトリと落ちる。
如月がクスクスと笑う。
「濡れるのは構いません。
でもどうしたんですか?
気分でも悪いとか…?」
「気分は良いです。
如月さんに会えたから。
でも少し…疲れてます。
もうちょっとだけこうしててもいいですか?」
「…いいですよ。
藤倉さん、お仕事お疲れ様でした」
如月がやさしく囁く。
藤倉の瞳から涙が零れて、雨に濡れた頬に流れて落ちる。
如月はきっと雨に濡れていると思うだろう。
だから、あと少しだけ。
藤倉はそう思いながら如月を抱きしめていた。
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