【8】叶わぬ願いを叶えるために

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【8】叶わぬ願いを叶えるために

藤倉が身体を離すと、如月は「まだ髪が濡れてます」と言って、藤倉の顔を拭ってから丁寧に髪も拭いてくれた。 「じゃあ、行きましょうか」 如月がそう言って折り畳み傘を開く。 「藤倉さんも入って下さい。 ラーメン屋はここから3分位です」 藤倉は如月の手の傘を持った。 「藤倉さん?」 如月がキョトンとして藤倉を見上げる。 「俺の方が背が高いから…」 藤倉の言葉に、如月がニコッと笑う。 「そうですね。 ありがとうございます」 藤倉はなるべく如月が濡れないようにと傘を傾けるものだから、如月に「藤倉さんが濡れます!ちゃんと傘に入って下さい」と怒られた。 二人で一つの傘で寄り添いながら、ラーメン屋に向かう。 そのラーメン屋はビルの1階にあり、外観がガラス張りで、藤倉ならラーメン屋と気付かずに通り過ぎてしまいそうなお洒落な店構えだった。 中もお洒落な雰囲気で、席はL字型の大理石調のカウンターのみ、壁はコンクリートの打ちっぱなしで、磨きあげられた厨房のステンレスが光り、客もカップルか女性客ばかりだ。 「ここね、柚子塩ラーメンの淡麗が有名なんです。 藤倉さんはどうしますか?」 券売機の前で如月に訊かれて、藤倉は「それでいいです」と答えた。 如月も笑って「俺もです」と言って、チケットを二枚買う。 ラーメンはさっぱりしていて、程好くコクがあり、真夜中に食べるにはピッタリだった。 ラーメンを食べ終わると直ぐに店を出る。 ラーメン屋では話らしい話は出来なかったが、藤倉はそれでも満足だった。 すると如月が、「藤倉さん、明日のお仕事も午後からですか?」と訊いてきた。 「はい。午後からですけど…」 「じゃあもう一軒付き合って貰えませんか? 藤倉さんとちゃんとお話したいんです」 藤倉は夢じゃないかと思った。 如月から誘われている…。 だが次の瞬間ハッとした。 「如月さんは朝から出勤ですよね? 遅くなって大丈夫なんですか?」 如月はふふっと笑った。 かわいらしい笑顔だった。 「一晩くらいの徹夜なんて平気です。 それにそんなに引き留めたりしませんから心配しないで下さい」 「…分かりました。 お付き合いします」 「良かったあ!」 如月が嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑って、藤倉は胸が締め付けられた。 また一つの傘に二人で入り、如月に案内されて歩く。 ラーメン屋から1分も歩かない所に、ひっそりとアボガニーの扉があった。 店名の看板も何も無い。 「ここは…?」 藤倉が訝しげに問うと、如月は「紹介制のバーです。一見さんお断りってところです」と事も無げに答える。 「ラーメン屋を教えてくれた同僚が良く利用しているらしいんです。 ラーメン屋に行くなら、是非行ってみろと言われて。 ちゃんと紹介用のカードも貰って来ましたから」 「はあ…」 藤倉はそんなバーに入ったことは無かったので、如月の後に続いた。 こじんまりとした店だが、バーの内装は高級そうで、客も店に釣り合った、それなりな人ばかりだ。 如月は、出迎えに出たバーデンに名刺のような物を二枚渡している。 バーデンがにこやかに二人をカウンター席に案内する。 スツールに並んで座ると、カウンターの内側から中年のバーテンが「何になさいますか?」と訊いてきた。 藤倉はカクテルなんて知らないに等しいので黙っていると、如月が笑顔で言った。 「今、ラーメンを食べてきたから、雰囲気が変わるものがいいかな。 あまりアルコールの高く無いもので」 「かしこまりました」 バーテンは軽く頭を下げると、如月達の前から離れる。 藤倉はそんな注文の仕方もあるのかと、ドギマギした。 如月はおしぼりで手を拭くと、藤倉に笑い掛ける。 「藤倉さんはお仕事が忙しそうですね。 どんなお仕事をされているんですか?」 藤倉は言葉が出なかった。 すると、如月が眉を下げて笑った。 「すみません。 自分から言うべきでしたね。 俺は財務省に勤めています」 「財務省…?」 藤倉は黒目がちの目を見開いた。 如月が慌てて続ける。 「役人だからって嫌わないで下さいね。 今、役人は叩かれてばかりだから…」 藤倉は首を横に振った。 「嫌ってなんていません。 少し驚いただけで…」 「そうですか。 良かった」 如月がホッとしたように笑顔になる。 「それで藤倉さんはどんなお仕事なんですか?」 藤倉は焦った。 まさかソープランドのボーイをやってるだなんて言えない。 軽蔑される。 その時、南野の顔が浮かんだ。 南野のいつもの言葉。 『藤倉さんもうちにくればいいのに』 「…何でも屋です」 「何でも屋?」 如月が小首を傾げる。 「コンピューターの修理から草むしりまで何でもやります」 「へえ! 凄いですね!」 如月が大きな丸い瞳をキラキラさせて、藤倉の顔を覗き込む。 そこにバーテンが、トールグラスに入ったカクテルを持って来た。 如月の視線がカクテルに移る。 カクテルは綺麗に三層に別れている。 「これは何て言うカクテル?」 如月の問いかけにバーテンは優雅に微笑む。 「hiding pIace 当店のオリジナルです」 「隠れ家かあ。この店にピッタリだね」 「桃のリキュールがベースになっております。 お口直しには丁度よろしいかと」 「そうだね。ありがとう」 またバーテンは軽く頭を下げ、去って行く。 如月はカクテルに口を付けると、「美味しい!」とグラスを見つめる。 藤倉も黙ってカクテルを飲んだ。 確かに美味しい。 だが、味に浸るより、藤倉の頭を駆け巡るのは如月が財務省に勤めているということだった。 自分とは天と地の差だ。 しかし如月は、無邪気に藤倉に質問を続ける。 「藤倉さんは会社でどんな部門の担当をなさってるんですか?」 「…俺はコンピューターが苦手なので、コンピューター関係以外なら何でもやります」 「凄い! だからお仕事が終わる時間も遅いんですね!」 「まあ…」 藤倉はカクテルを一口飲むと、話題を逸らした。 「如月さんは何歳なんですか?」 「俺は25です」 「俺もです。同い年だったんですね!」 「そうなんだ~」 如月がニコニコと笑う。 「藤倉さん、それじゃあ敬語は止めましょうよ。 同い年なんだし、職場でもないし」 「…いいんですか?」 「勿論!」 すると如月は、ぷっくりとした桜色の唇に、細く白い人差し指を当てて考え出した。 「藤倉さんって呼ぶのも何だかなあ…。 藤倉さんは友達に何て呼ばれてますか?」 藤倉はクスッと笑った。 「親友は『藤倉さん』です。 敬語が口癖の奴なんです」 「えーっ!じゃあ藤倉さんって呼ぶしかないかあ~」 如月も笑う。 「如月さんは何て呼ばれてるんですか?」 「学生時代にはキサレナとか呼ぶふざけた奴もいましたけど。 玲那くんとか玲那ちゃんとか名前で呼ぶ友達が多いですね」 「名前…いきなりハードル高いですね」 「いいじゃないですか! 名前で呼んで下さいよ!」 藤倉は悪戯っぽく笑った。 「じゃあ俺も名前で呼んでくれますか?」 如月はパッと赤くなると、カクテルをぐびぐびと飲んだ。 「ちょ、ちょっと…如月さん!」 藤倉が如月の手からグラスを奪う。 「ゆうま…」 小さな声がした。 藤倉の胸がドキンと鳴る。 「呼びました。 藤倉さ…悠真も呼んで下さい」 如月が真っ赤な顔で瞳を潤ませ、藤倉を見上げる。 「玲那…ちゃん…」 藤倉も小さく呟く。 如月がコクッと頷くと言う。 「これで…敬語もナシだからな」 如月が藤倉の手からトールグラスを奪い返した。 それから藤倉と如月は「玲那ちゃん」「悠真」と呼び合いながら、敬語も使わず、普通の友達のように話が弾んだ。 だが藤倉は二杯目のカクテルを飲み終えたところで、帰ろうと提案した。 自分は寝ようと思えば昼過ぎまで眠れる。 だが如月はもう2~3時間しか寝る時間が無い。 如月は、酒には強そうで酔った素振りは見せなかったが、藤倉の提案に素直に頷いた。 もう電車も無いのでタクシーで一緒に帰る。 如月は楽しそうだった。 仕事が忙しくて学生時代の友達と飲む機会は格段に減り、仕事場の人と飲むのは気を使うから、こんな楽しい夜は久し振りだと笑った。 部屋に戻る時も、「悠真、お休み!またな!」と上機嫌で帰って行った。 藤倉は部屋に入ると、照明を点けて、真っ直ぐ脱衣所に向かった。 雨に濡れた服を脱ぐと浴室に入り、熱いシャワーを頭から浴びる。 ざっと頭から身体を洗って、浴室から出る。 スエットの上下に着替えて、冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを出し、ソファにドサッと座って飲んだ。 ローテーブルの上には藤倉が置いた、雨に濡れたバッグが置かれている。 藤倉はノロノロとバッグを開けて、財布を取り出した。 店から出る時、バーテンに渡された銀色の会員証と数枚の名刺サイズの紹介カード。 そして。 如月の名刺。 藤倉は名刺を切らしていると言って誤魔化した。 如月の名刺には、『財務省 大臣官房 総合金融課 如月玲那』と記されている。 スマホでラインのIDもメアドも交換した。 藤倉は如月の名刺を、そっとローテーブルに置いた。 そしてベッドに入った。 目を閉じても如月の『悠真』と呼ぶ声が甘く響く。 如月の笑顔、敬語じゃない話し方。 その全てがぐるぐると藤倉の頭を巡る。 藤倉は「やめてくれ…」とひとり呟いた。 如月に会う度、どんどん惹かれていく。 南野の言う通り、一目惚れだったのかもしれない。 まさか二度と会えないと思っていた人に再会出来た。 そして見た目だけでは無く、内面を知る度、また惹かれる。 違う もう好きになっている 誰かを好きになる資格なんて無いのに 「やめてくれよ…」 藤倉は歯を噛みしめた。 そして好きなった相手は、省庁に勤める人間。 自分はソープランドの下働きのボーイ。 それだけでも、好きになっても仕方の無い相手なのに 職業に貴賤は無い そんなの分かってる そしてそれが建前だということも分かってる 自分は根っから汚れている この手は血に塗れている 「やめてくれ…頼むから…」 藤倉の瞳から我慢しきれず涙が零れる。 誰も好きになんてなりたくない ひとりでひっそりと生きて行きたい そんな願いすら、叶わないのか 『悠真!』 如月の笑いながら自分を呼ぶ声。 藤倉は思わず、「玲那ちゃん…」と呟いて後悔した。 だが言葉は止まらない。 「玲那ちゃん…玲那ちゃん…」 藤倉は如月の名を、泣きながら呼びながら、もう二度と如月に会わないようにしようと決心した。
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