星矢先輩の背中

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星矢先輩の背中

 真夏の件は頭の片隅にこびりついてはいるけど、美味しい社食を頂いて身も心も満たされた。やるぞと気持ちを漲らせて自分も持ち場へ戻った。淡々と、かつスピーディーに作業をこなしていく。  ホテルで提供される全ての洋菓子は、ここで働くパティシエが製造している。なかでもウェディングケーキといった特殊なものも含まれるため、パティスリー部門は工程ごとに枝分かれしている。さらにフルーツカット、オーブン係、生地の仕込みなど細分化。限られた時間の中で膨大な量のスイーツを作り上げなければならない。まさにスピード勝負。効率のよいオペレーション能力も問われてくる。  一日で製造するその膨大な量といったらそれはもう! 入社した頃はあまりの忙しさに腰が抜けそうになった。  チームワークで連携を取り、四苦八苦しながら最高のものを作り上げる。裏舞台で働く私達は直にお客様の顔は見えないけど、スイーツを食べた全ての人が笑顔になるようにと心を込める。それこそがホテルパティシエの真骨頂なのかもしれない。  ふと壁掛け時計に目をやると午後14時20分。そろそろ小休憩を取ろうかと思っていたところ、   「小波ちゃん、ひと段落したらこっち手伝ってもらっていい?」  星矢先輩に呼ばれる。ということはロールケーキを巻く作業だ。これはもう覚悟を決めるしかない。やるしかないのだ。 「わかりました。もう少しかかります」 「了解」と先輩。  ビュッフェ用カップケーキの仕上げがひと段落してから向かった。職場復帰してから一週間が経つ。ようやくいつも通りの勘を取り戻せていることに安堵する。 「星矢先輩、お待たせしました」 「悪いね」 「いえ」  星矢先輩はロールケーキを巻く作業に集中する。薄く焼き上げた生地の上に生クリームを手際よくかつ丁寧に塗る。カットされたフルーツをたっぷり乗せる。それを一気に巻いた。 (作業に無駄がない!) 「星矢先輩、仕上げお願いします」  と後輩がやってきた。冷蔵庫から持ってきたロールケーキが入ったトレイを作業台へ置いた。 「ありがとう」  失礼しますと言って、今度は巻きたてのロールケーキが入ったトレイを持っていく。去り際、「奏先輩、お疲れ様です。失礼します」とフレッシュな声に現場の士気も上がる。 「お疲れ様」 「小波ちゃんも先輩の貫禄でてきたなあ」 「星矢先輩、からかわないでください」  マスク越しで見えないのをいいことに唇をぷうっと突き出す。 「ごめんごめん。さ、やろうか」    綺麗にデコレーションされたロールケーキはすぐ切らずに、生地と中身を落ち着かせるため、一旦冷蔵庫で冷やしておくのがセオリー。そうすると切りやすくなる。  私は先輩の隣でスポンジの上に生クリームとフルーツをのせていく作業をこなす。先輩の手元を数秒おきに見た。定規で測っているわけでもないのに寸分の狂いもなく同じ感覚でカットしていく。途切れることのない美しい作業によって洋菓子の芸術作品を生み出していた。これこそが生きた教科書なのだと今だけ瞬きを止める。 「巻くの上手くなってるじゃん」 「ありがとうございます。私、なぜか巻く恐怖症に陥ってましたからね」  マスクで見えないけど苦笑い。 「確かにそうだったかもな。もう心配いらないよ」 「先輩のご指導のお陰です」  いやいや小波ちゃんの努力の証だよ、と褒め上手。 「小波ちゃん小休憩入った?」 「まだこれからです」 「巻き終わったら一緒に入ろう」 「はい」  お喋りはここまで。巻きに集中だ。  この五年間、巻く恐怖症の呪縛から解けないまま、様々な技術を習得してきた。素早く巻かなければと急ぎ過ぎて、結果スポンジ生地が割れてしまう。そんなジレンマと闘いながら地道な作業を繰り返し体に叩き込んでいくしかないのだ。  出来ないことを出来るようにする、という言葉は自分で決めた教訓である。今までもこれからもプロのパティシエとして堂々と名乗れるよう努力を惜しみたくなかった。    星矢先輩と休憩室へ向かう途中、従業員用のコンビニに入った。無糖の紅茶飲料を選んでレジへ並んだ。先輩は「それ頂戴」と言ってペットボトルをスッと抜かれた。 (何が起きた?) 「会計お願いします」 「先輩、自分で払いますから!」 「じゃあこうしよう。ロールケーキ上手く巻けた記念ってことで」 「何ですか、その記念」 「まあまあ、ジュースくらいおごらせてよ」  「はい……ありがとうございます」  この押し問答、星矢先輩に軍配が上がる。 「はいどうぞ」  飲み物の他にシュークリームが一つ。 「ありがとうございます。これもですか?」 「そう、記念に」  そう、私は大のシュークリーム好き。このコンビニのシュークリームは150円と安価なのに完璧な美味しさ。コンビニスイーツ侮るなかれ。 「小波ちゃん、シュークリーム好きって言ってたからね」 「知ってたんですね」 「部下の好みくらい知っておかなきゃ」 「さすがです」    従業員専用の休憩室は十五階にある。遥か遠くのスカイタワーも見える眺めは、疲れた社員の心を急速に癒していく。贅沢にもほぼワンフロアを占めていて、カフェのような落ち着いた雰囲気という造り。パーテーションのあるスペースはちょっとしたミーティングにも使えるのでお昼時は争奪戦となる。 「五年目で上手く巻けたって恥ずかしいですね、私」 「誰だって苦手なものくらいはあるよ。僕だってデコレーションするときは緊張で手が震えるし」 「まさか先輩がですか──……そんなの微塵も感じませんでした」  それは初耳と目を見開く。 「小波ちゃん驚きすぎ」   午後15時の空は晴天で雲は一つもない。遮熱ガラスの向こう側は夏日のような暑さだというのに、こちら側は窓際でも快適に過ごせている。並んで座る星矢先輩は私の方へ体を向ける。 「小波ちゃんは好きな人いるの?」  仕事とはあまりにも無関係で、あまりにも唐突な質問に意表を突かれた。好きな人か。いるにはいるんです、この胸の中に。 「好きな人はいます。でもここにはもういません」  自分でそう言い切っておいて目頭が熱くなった。 「それはもしかして亡くなったの?」 「はい」 「ごめん。僕、デリカシーないこと聞いた」 「いえ、先輩には関係ないことだから大丈夫です」  「関係ないか……」  そう言って目を伏せると、長いまつ毛がさらに視線を遮った。 「僕でよければ話聞くからさ。気晴らしになるなら何処でも付き合うよ。なんかこういうときにありきたりのことしか言えなくてごめんな」 「いえ、気遣いありがとうございます」  星矢先輩、貴方はずっと変わらずに優しいままです。失敗して落ち込んだときも、上手くいかなくて悔しくて泣いたときも貴方は優しかった。たくさん励ましてくれました。先輩の支えがなかったらこの仕事を辞めていたかもしれない。  友達と呼ぶには失礼で、好きになって恋をするなんてそれこそ厚かましくて。私にとって星矢先輩はとても大切で尊敬する人です。その気持ちは五年経った今でも変わりませんし変わらないでしょう。ずっと憧れの人でいさせて下さい。
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