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幸せの時間
ひとつの夢でもあった、パティシエとして招かれる講師の仕事。
高二の冬休み。通っていたカフェでケーキ作りの講習会があるのを知った。勇気を出して、その講習会に奮起して参加することに決めた。
教室ではお菓子作りの基本を丁寧に教わる。
ケーキを作る際、工程のどれひとつとっても省いてはいけないということ。ひとつでも手間を惜しんで省いてしまえば再現できないというくらい緻密なものだった。にこやかに話すその女性講師の、見事なまでの仕事ぶりに心が躍る。
小麦粉をふるいにかける作業も面倒だからと省かないこと。スポンジのふくらみに影響する。繊細な作業によって出来上がったケーキを眺めた。
自分の中でパティシエという職業が憧れから将来就きたい仕事と思うようになる。まだ高二という余裕から卒業後の進路先もあやふやだったけど、女性講師との出会いがきっかけで私の目指すものが明確になった。そんなこともあって、この仕事の話をもらえた時は飛び上がるように嬉しかったのを今でも忘れてない。
講師という新たな仕事。何よりもスイーツを作ることが大好きであることは揺るがない事実だけど少々不安もある。それでも楽しみの期待感が遥かに上回っているのは確かだった。
講師として初仕事であるスイーツ教室。何を作ろうかとあれこれ考える。
12月でクリスマスシーズンとくればオーソドックスな苺のデコレーションケーキが頭から離れない。いやもうこれしかないんじゃないかというくらいに私の中の私が推してくる。
シンプルなケーキこそ手を抜けない。でも生徒さんには楽しく作ってほしい。
実は細やかな気配りが必要であったりスピードも求められるお菓子作り。それをどう伝えていくかが課題かと思う。完璧な仕上がりじゃなくてもいい。不格好でもいい。たった一つのオリジナルの楽しさを伝えたい。
星矢先輩からアドバイスしてもらったように自分の言葉で伝えよう。伝え方はうまくないかもしれないけど、ひとりひとりに寄り添って向き合えばきっと伝わる。
ともかく来週に行われるスイーツ教室のことで頭がパンクしそうになっていた。
「小波ちゃんお疲れ様、難しい顔してるな」
雪夜くんは頭を傾ける。愛くるしい猫のような目つきでこちらをのぞき込む。
「雪夜くん、お疲れ様」
「眉間にシワ寄ってる。もう仕事終わる時間だよね」
考え事しながら作業してたから全然気づかなかった。こんなしかめっ面した先輩がいたら、後輩も声かけづらいよねと思う。反省。
「えへへ、ほんとだ。シワになっちゃうね」
「夜道、気をつけて帰ってね」
「ありがとう」
雪夜くんから「はい、あげる」と手渡された小さな紙袋。ずしっと重たい。更衣室に戻り紙袋を開けてみた。ぶわあっと香るバターの香り。中には小さな丸い形のクッキーがたくさん詰まっている。添えられていた小さな紙切れを読んだ。
【小波ちゃん。突っ走るのもいいけれど、たまには休息してよね。by雪夜】
丸っこい字で走り書きされた紙を見て視界がゆるりと揺れた。また雪夜くんからのサプライズプレゼントに嬉しさが込み上げる。
いつも欲しいとき欲しい優しさをくれる同期の雪夜くん。そして同じ道を歩くパティシエとして憧れの存在でもある彼。
袋からひとつクッキーを取り出して口へ放り込む。やさしい甘さの中に卵の味がしっかりと際立ち、バターの香りが鼻を突き抜け口の中いっぱいに広がった。
ああ、幸せ。心からそう思った。
こうして心が癒されて、ほんの一瞬でも幸せな時間を与えてくれるお菓子たち。お菓子の甘みは食生活において必ずしも必要ではないかもしれないけど、私にとってはとても大切にしたい存在だった。
人を指導する立場になった今でも、誰かに支えてもらいながら生きていることを痛感させられている。それは決してだめなことじゃない。それでいいんだ。
今日は家に帰ったら、このクッキーの甘さに身を預けるくらい甘えてみようと思う。わりと甘え下手な私だから、クッキーが相手なら丁度いいのかもしれない。温かい紅茶を淹れて何もかも投げ出してリラックスしようと決めた。
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