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前編
綿毛の様な雲が疎らに浮かぶ青空の下、群青の大海原の上に一艘の船があった。乗っているのは漕ぎ手が一人のみである。若い男だ。乱れた髪と汗で湿った着物から、彼が沖に出てから長い時間が経過していることが窺える。どんぶらこ、どんぶらこと流されて疲労困憊の彼は、生気を失った顔を前方へ向けていた。だが、ふと目を見開き動きを止める。
「あれは……」
視線の先にある海上には、豆粒程度の大きさの黒い影が浮かんでいた。距離が遠い所為でその様に見えるが、恐らくは陸地であろう。彼は疲労と緊張の表れた顔を綻ばせ、櫂を握る手に力を込めた。
近付いてみると、眼前にある影は島であることが分かった。朽ち切ってはいない建物が点在しているので、きっと無人島ではあるまい。
(そう、島だ。ならば、俺の目指した先ではない)
船人は肩を落とす。これでは長々と舟を漕ぎ続けた甲斐がない、と。とは言え、彼の心身は疲労を訴えている。休息地は必要だ。彼は進路を変えないまま船を走らせた。
やがて、船は陸地に至る。砂浜に足を下し、船人は周囲の様子を観察した。知らない場所だ。彼の住まう漁村の近隣ではない。
(ここは何処の島だ? 見覚えのない草や木もあるが……)
彼は集落の周辺から出たことがない。しかしながら、遠方の地域には近場のものとは全く異なった形質の草木が生えていると噂で聞いており、よもや他国へ流れ着いてしまったのでは、と思い至った彼は途端に青褪めた。
兎も角、状況把握が必要だ。船人は彼に情報を提供してる人間を求めて島の探索を開始する。程なくして、目的の相手は見付かった。海辺に建つ小さな木造の建物の前にいた島の住民は、船人の方に背を向けて何やら作業を行っている様子であった。どういう訳だか胴がすっぽりと隠れる大きな亀の甲羅を背負っており、甲羅の上からは皴の寄った茶色い坊主頭が覗いている。老人であろうか。
「もし、そこの方」
船人は住民に声を掛ける。すると、相手は「ほ?」という奇妙な声を漏らし、振り返った。
「うわあっ!」
住民の顔を見て、船人は悲鳴を上げた。相手は人間の着物を纏っていたが、人間の姿をしていない。顎と白目がなく、頭部や手足は鱗に覆われ、平たい手足には鋭い爪が生えている。遠目で皴に見えたものは、鱗の境目であったのだ。背にある甲羅も相俟って、まるで大きな亀が人間の仮装をしている様であった。
「ば、化け物!」
そう罵っても、相手に傷心の色はない。僅かばかり表情に変化が見られたものの、そこにあるのは驚きであって怒りの感情ではなかった。
「おんやまあ、随分と古い言葉を使いなさる」
亀に似た怪物は、悪意なく船人に近付いてくる。慌てた船人は反射的に後退りをして両足が絡まり、尻持ちを突いてしまった。
「ひえっ! に、逃げっ……う、ああっ、腰が!」
腰が抜けた船人は砂地の上に寝転がり、傷む部分を擦る。それを見た怪物は足を速め、間を置かずして船人の側に来た。船人は「ひっ!」と悲鳴を上げるが、怪物は彼の失礼な振る舞いを歯牙にもかけない。口の下に手を当て、繁々と彼を眺めるだけである。そういった態度を取られることに慣れているのであろうか。
「ふむ……。お前さん、ひょっとして島の外から来なさったのか?」
亀の怪物の問いに、船人は「え?」と疑問の声で返す。恐怖が先に立って、相手が何を言っているのか、咄嗟には理解出来なかった。
しかし次の瞬間、船人は閃きを得る。
(ちょっと待て。「亀」? ってことは、ひょっとして――)
ある考えに至った船人は、恐る恐る怪物に尋ねた。
「確かに俺は島の外から来た者だが、お前様はこの島の住人かい? 人の言葉を喋る亀の話は聞いた覚えがある。龍宮の住人であると」
「ほっ、やっぱりお前さんも龍宮狙いであったか!」
「うん?」
やや嬉し気に発せられた言葉に、船人は首を傾げる。すると、怪物は親切にも補足説明をしてくれた。
「昔から、龍宮を目指して船出した人間が、誤ってこの島に流れ着くことが度々あったのでな。まあ、長らく途絶えておったのだが。前の者を送り出したのは、何時位であったか」
その言葉で微かな希望を打ち消され、船人は項垂れる。直前まであった恐怖心が直ぐには戻らない程の深い失望であった。そもそもが根拠に乏しい希望的観測に過ぎなかったというのに。
「龍宮でないなら、ここは一体何処なんだ」
「そうさのう、お前さんが生まれ育った場所から見たら、異界には違いないか。ここは現世と常世の端境よ。龍宮は常世と同一視されることもあるそうだから、龍宮の近所と言えるのやもしれん。だが、もう龍宮を目指すのは止めなされ。人であるお前さんの力だけでは、余程運に恵まれなければ辿り着けまいて。……おや」
怪物は首を海の方へと曲げる。船人も釣られて同じ方向を見る。そうして、海の上の空が何時の間にか黒雲に覆われていることに気が付いた。雲の合間から時折光が漏れる。日の光ではなく、稲光である。
「雨雲か? 今迄全く気付かなかった」
「お前さん、今日海へ戻るつもりであったなら、見送った方が良い。嵐にならずとも、間もなく日が沈む頃だ」
「否、しかし――」
言い掛けて、船人は言葉を飲み込む。
(こんな場所にずっと留まっていられるかよ。化け物が住んでるって分かってるのに)
そうは思っても、彼は口から本心を出さなかった。相手の機嫌を損ねれば無力な人間の彼はきっと成す術もなく殺されてしまうだろう。その可能性に思い至る程度には、船人は眼前の怪物の姿や今の状況に慣れてきていた。
船人の心中を察した怪物は、穏やかな声音を作って言った。
「大丈夫、大丈夫。儂も含め島の者は皆妖怪だが、お前さんを取って食う様なことはせんよ。安心なさい。お前さんは『えびす』であるから」
「え?」
「海から来た目出度いもののことさ。儂等の島では現世からの客人をそう呼んでおる」
「はあ……」
船人は不信感を抑えきれないという態度を取る。
(俺達の集落じゃ、その言葉は良くない意味も含むんだが)
とは言うものの、良い意味も存在するのは彼の故郷も同じだ。また、相手の気配からは悪意が感じられないので、嘘や他意は本当に存在しないのかもしれない。
「付いて来なさい。近くに空き家がある。襤褸屋だが、雨宿り位は出来よう」
妖怪を名乗る異形は船人に背を向け、歩き出した。船人はやや迷いはしたが、一先ず彼に従うことに決めた。
◇◇◇
空き家へ案内した後、亀妖怪は一度船人の側を離れた。食事と長旅で汚れた体を清める物を持って来る、と言い残して。深くは関わり合いになりたくなかったのと、何か企んでいるのではないかと疑っていた船人は、妖怪の申し出を遠回しに断ったが、聞き入れてはもらえなかった。
半刻弱経ってから戻って来た亀妖怪は、言い置いた通りに握り飯と水筒、手拭いの入った樽を抱えていた。そして、何故か大勢の妖怪を引き連れていた。亀妖怪は付いて来た者達を中に入れないまま戸を閉め、船人の前に座ってから荷物を床に置く。すると、他の妖怪達は朽ち腐って出来た壁の隙間に群がったり、先程閉じられた戸を勝手に開いたりして屋内を覗き込む。船人は恐る恐るそれらの様子を窺い、身体を強張らせた。
「どうしてこんなことに?」
「済まんな。えびすを見付けたら、届け出る決まりなのよ。お前さんについても島の重役に知らせたのだが、その時に聞き耳を立てておったのだろうなあ」
「だからって……」
船人は喚き散らしたい衝動を必死に抑える。
(異形しかおらぬではないか。やはり、ここは人の世界ではないのだな)
何事か起これば直様逃げ出せるよう、船人は足に力を込める。だが、その足は小刻みに震えており、上手くは行かなかった。
「重役が言うには、えびすが島を訪れたのは実に二百年振りであるとか。ならば若い者は言い伝えでしか、えびすを知らぬ筈だ。物珍しいのかもしれん」
亀妖怪は覗き見をしている妖怪達に向かってしっしっと手を振る。声の調子から暢気な印象を受けるが、一応不手際があったという自覚はあるらしい。
「『二百年』! 随分と長い間迷い人は出なかったのだな。俺はとんだ間抜けじゃないか」
船人は頭を抱え、亀妖怪は呵々と笑う。
「そりゃあ、本当に龍宮を目指そうなんて考える輩は愚か者に違いあるまいて」
「そっかあ。そうだよな……」
「差し支えなければ、教えてくれんかの。お前さんはどうして龍宮を求めたのか。ああ、食事の後でも良いから」
「否、大した理由ではないんだよ。売り言葉に買い言葉というか、只の力試しというか」
後ろめたそうに視線を反らしたものの、船人はやがて素直に仔細を語り出す。しかし、話したいことが彼の頭の中で上手く纏まっていないのか、始まりは亀妖怪の質問とは繋がりがなさそうな雑談じみた内容であった。
「俺の故郷にも『えびす』って言葉はあって、神さんの名前であると共に、海から流れ着くもの全てを意味しているんだ。生きてる人間だけじゃなく、塵とか流木とか。その、水死体とかもな。えびすは縁起物とされていて、どんな物でも粗末に扱われることはまずないが、皆本心では嫌な思いをしているんだよ。だが、時折高価そうな品が混ざっていることもあってだな。例えば金で作られた飾りとか、真珠や錦の切れ端とか。もっと分かり易い物だと、古い銭が似た様な時期に幾つも流れ着いたこともあったな。同じ海沿いの土地でも、うちは特別多いらしい」
「ほう、近くに金持ちの船でも沈んでるのかねえ」
「そう考えるのが自然なんだろうなあ。でも俺達は昔っから、それらは龍宮から流れて来たんだって信じていたんだ。沖には龍宮があるんだって。俺も頭の何処かでそれを信じてた。誰も本物を見ていないのにな。だから、他の奴との喧嘩中に漁師としての腕を笑われて、つい『お前達の誰も辿り着けなかった龍宮へ行って、俺の力を証明してやる』なんて言っちまったんだ。そうして沖に出て暫く経ったら、自分が今何処にいるのかが分からなくなって……」
「若気の至りだなあ。まあ、そういったこともあるだろうさ」
「後悔しているよ」
船人は苦笑して俯く。一方、亀妖怪は平たい腕を旨の前で合わせて唸った。
「ううむ、この島の物を持ち帰れば、もしかしたら龍宮に至らずとも技量や勇気の証明にはなるのかもしれんが、被害者を増やすのは勘弁してもらいたい所だ」
「分かってるよ。仮に持ち帰ったとしても、財宝の様な分かり易い物でなければ奴等は納得しないさ」
「住む者が少ない貧しい離島だからなあ。そういった物はないのよ」
「だろうな」
船人も当初の目的の達成は既に諦めていた。最早それどころではない。自分はこのまま海で死ぬのだろう、とさえ思っていたのだ。無事に帰還出来るだけで御の字だ。帰り道はまだ分からないが。
亀妖怪は胸に当てていた手を膝に戻した。
「取り敢えず、お前さんの事情は分かった。重役にも今聞いた通りのことを伝えておこう。ところでなあ、えびすが縁起物であるのはこの島も同じでの。お前さん達が来ると、吉日に祭りを行う仕来りなんだ。直近では明後日になるが、お前さんも参加してもらえんかのう?」
「ええっ! それって俺も何かしなきゃならないのか?」
「何、大した仕事じゃあない。ちょっとご馳走を食べてもらって、乗り物に乗って神社へ挨拶に行ってもらうだけさ。ああ、ご馳走と言っても『この島にしては』だがのう。お前さんは早く帰りたいと思っているのであろうが……」
円らな瞳を真っ直ぐに向けられた船人は、情に絆されはしなかったものの、僅かばかり悩んだ。妖怪達のことは未だに信用出来ない。眼前の妖怪は亀らしく鈍臭い動作で純朴さや可愛らしさを演じているが、人間にとって妖怪とはその多くが脅威たる存在だ。危険でなくとも決して近付きたい対象ではない。出来れば長居はしたくない。しかしながら、彼の肉体が決心を拒んだ。鞭を打って無理矢理動かしてきたものが、一時の休息を得て緊張が緩んだ所為で、上手く働かなくなってしまったのだ。そうなれば、心も次第に弱くなっていく。結果、彼は「まあ、その位なら……」と相手の提案を受け入れる方へ傾いてしまった。
「ところで、この島では何方の神さんを祀っているんだい? 異界であっても海の見える地域だから、俺達の故郷と同じなのかな?」
「恐らくは違うのではないかな。だが、種族は龍神だ。龍は現世でも知られていよう。『龍宮』などという言葉がある位だから――むっ、あの御方ならば龍宮について何か知っておられるやもしれんな」
「話せるのか!」
目的を達成出来るかもしれないという期待からではなく、龍神に対する信仰心交じりの好奇心に突き動かされて、船人は思わず腰を浮かせる。しかし、亀妖怪は首を横に振った。
「言葉を解するという意味ではその通りだけども、立場的に可能かと言われたら否だろうなあ」
「そうか……」
船人は浮かせた尻を再び床に下ろした。本人に自覚はなかったが、傍から酷い落ち込み様に見えたので、亀妖怪は船人の肩を優しく叩く。
「落ち込むな、落ち込むな。土産代わりに鱈腹食って帰りなさい」
「何から何まで、かたじけない」
沈鬱な気分で本心ではない謝辞を述べ、船人は床に拳を突いて深々と頭を下げた。
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