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「はあ」阿久津理櫂(りかい)は大きく肩を落とした。  二十七年間生きてきて、こんな情けないことはなかっ……いや、思い返せば何度もあった。告白する前に先手を打たれるあれだ。藤井さんの可憐な表情と言葉が思い出される。  ――阿久津君とはずっと仲良しの同僚でいたいな。また恋バナとかも相談させて。  今日は、藤井さんが兼ねてから行きたがっていた、新宿南口のナチュールワインの美味しいビストロをようやく予約できたので、意気揚々チャンスを掴んだつもりで誘った。痛んだのは財布だけではなく心も、か。振られたけど、藤井さん。やっぱり可愛かったなあ。  こんな夜は、一人でやけ酒するしかない。荻窪の自宅の一駅手前、中央線・阿佐ヶ谷駅で下車。改札を抜けると左手にふらふらと飲み屋街を抜け、少し静かになった通りに、その店はぽつんと佇んでいた。居酒屋・あさがや。  暖簾は涼やかな水色で、小さな金魚を描いたデザインの風鈴が夏の音を奏でている。すりガラス越しにはコの字とテーブル席が二組で、こじんまりとした店内の様子が見える。まだ火曜だけど、いっか。木の引き戸をそっと開けると「いらっしゃい」と、丸眼鏡で白髪の大将が穏やかに声をかけてくる。 「カウンター、どうぞ」
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