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 眼前にあった試練の峰は、次第に薄ぼんやりとして霧の中へと消えて行く。  目の前に広がる約束の丘には、目の覚めるような美しい花をつけた草原が広がる。  そして、ぽつんと古びた山小屋が建っていた。  緑の草原に、薄汚れた白壁とベージュの切妻屋根の小屋が、ロマンチックな風景を描き出す。  この世の物とは思えない美しさに、ため息が出るほどだった。  小屋に入ると数日分の食料と水を確認して、ミカン箱のような木箱に腰かけてひと心地ついた。  暗い室内には、テーブルと椅子になる箱が隅にきちんと揃えてあった。  パソコンも、冷蔵庫も、水道も、電灯さえもない。  時間がとてもゆっくりと流れる気がした。  緊急用にスマホだけは持っているが、電源を入れるつもりはなかった。  外は束の間、晴れたりするが、ほとんどどんよりとグレーの雲に包まれ、霧が立ち込めていた。  山頂があった方向を見ても、真っ白な霧に閉ざされている。  一つ伸びをして頭の後ろに手を組んだ蓮は、荒い設えの床にゴロリと横になった。  ずっと坂を登ってきたため、足はジリジリと溜め込んだ疲労が波打つ。  このまま横になっているだけでも、充分に休暇を満喫できるな、と思いながら眠りに落ちていった。  霧幻山には、精霊や神様が数多く住むとされ、伝承が多かった。  山小屋がる約束の丘は、恋人同士で訪れて永遠の愛を誓い、幸せを願う場所とされている。  だから壁にはカップルの名前や愛の言葉が無数に彫られていて、古い文字が消えかかると、新しい文字が上書きされ、層を成していた。  蓮は独身だった。  帝都大学理学部を卒業後、国家公務員として日本中を転々としながら気象庁で火山や地震の調査研究に没頭する毎日を送ってきた。  待遇は申し分ないし、思春期に志した仕事に就くことができた。  胸を張って毎日庁舎を闊歩し、部下に指示を出し、責任ある立場になった今、何不自由なく暮らしている。  だが、何かが足りない。  薄暗くて何もないこの部屋は豊かだった。  風の音と土の匂い、窓から見える霧に包まれた風景。  心をいつも緊張させて暮らしていた都会の生活から解放されると、自分自身という存在が自然と一体になって気分が良かった。
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