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 朝になると、嵐がウソのように晴れ、柔らかい陽射しが降り注いでいた。  そよ風に小さな花が揺れ、空にはポッカリと浮かんだ雲がゆっくりと流れていく。 「幻影の祠が霧の中に浮かぶとき、山の神を鎮める力を宿す。  これは、霧幻山に伝わる伝承の一つです」  朝日に目を細めながら、両拳を空へ突き上げて伸びをする凜は、蓮の言葉を聞いていた。 「私、祠の裏にある時の迷宮をくぐり抜けてきたの。  細い洞窟だったから、バックパックを入口に置いて来たのだけど、出るときにはなかったから時空の歪みを抜けてきたのでしょうね」  近い将来結婚する女性が、歳をとって隣りにいる。  にわかには信じがたい話だが、彼女と肩を並べていると気分が落ち着いていた。 「もう食料も底をついたし、祠と洞窟を通って帰るとします」  何とはなしに、蓮が呟いた。  凜は双眸(そうぼう)を見開いて、彼の横顔を見た。 「私ね、あなたに聞きたいことも、話したいことも山ほどあったはずなの。  でも、実際に合うと、こうして一緒にいるだけですべて解決した気になったわ」  約束の丘は、永遠の愛を誓う場所とされている。  心の安らぎを求めて時々やってくる蓮は、不思議な巡り合わせを感じた。  隣りにいる女性に聞けば、自分の将来を垣間(かいま)見られるのだろう。  世の中がどう変化して行くのか、気にならないわけではない。  だが、この世界とは無関係に存在する、未来の世界とは別の運命を辿るのかも知れない。  だから、黙って足元の岩を踏みしめて歩いて行った。 「ふふ、お互いに、知りたいことがあるはずなのに、黙っているのは一緒よね。  あなたと結婚する前、エリートの堅物ってイメージが強かったの。  でも、ふらりと山へ行って()き物が取れたような顔して帰ってきたり、山の伝承に詳しかったり、ロマンチストな面もあるんだなって思ったのよ」 「僕は、ずっと必死に勉強して、火山の研究をして、疲れたら山に登る。  そんな狭い人生を送っています。  最期も山で死ぬのなら、この世界のどれくらいを見て生きていくのか、もったいない気もします」  独り言のように蓮は言った。 「祠に願掛けをしましょう。  私の世界にも、あなたの世界にも、価値ある未来が訪れるように」  ポケットから取り出したお守りをぶら下げて、手を合わせた彼女は、そっとそれを差し出した。 「これは、形見の品でしょう」 「本人に言われると、変な気分よね。  いいの、あなたが作ったお守りでしょう。  これを肌身離さず持っていてちょうだい。  そして、噴火に巻き込まれないように身を守ってね」  時の迷宮は、変わらず煌めきを湛え、ポッカリと暗い穴を開けて待っていた。 「じゃあ、会えて良かったわ。  くれぐれも、自分を大事にして生きてちょうだいね」  身を縮めて、彼女は洞窟に入りかけた。 「そうだ、もし長生きできたら、ヨーロッパにでも行ってごらんなさい。  日本とは違う文化に触れて、博物館めぐりでもするといいわ」  振り返らずに、小さく右手をあげて言った。  星屑のように輝く洞窟の中に、彼女の身体が影のような黒い塊に変わり、小さくなって、そして消えて行った。
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