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──とん。
トン、トン、……
トン、トン、……
最初は小さく。
それは耳を澄ませなければわからないくらいの、小さな音だった。
あれ?
あの音は何かしら。
やっと終わった。
慣れないことばかり、まるで嵐のように降りかかってくる、いままで経験したことのない事柄を何とかこなして。
もうこのまま倒れてしまいたい、そう思って疲れて、自宅に帰ってきて。
「お母さん、何か聞こえる?」
「……」
母も心身ともに疲労の限界だったのだろう、どうやら自室に戻ると直ぐに床についてしまったようで、返事は帰ってこなかった。
彼女は、台所で冷たい水を一杯だけ飲むと、椅子に腰を掛けた状態で、音のする場所を探そうと耳をすます。
え、玄関から?。
こんな時間に誰かが訪ねてくるなんて。
もう夜も遅いし。あまりに急だったから。
弟の友人たちにも連絡していない。
少し不思議な気持ちになりながらも、疲れた体に鞭打って、足を玄関に向ける。
──どん。
どん。
どん。
聞こえる音も、少しはっきりしてきて。
音は、確かに玄関から。
そう、それは玄関の戸を叩く音。
夜遅く、家族が寝てるのを起こすのが申し訳なさそうな。
近所の家に響いて迷惑をかけちゃあいけない、そんな気遣いの入った音。
こんな夜遅くに、いったい誰?
カメラ付きインターフォンなんか付いていない古い家屋。
彼女は少し警戒しながら玄関に。
どん。
どん。
玄関からは、はっきりと扉をたたく音がする。
それと同時に、扉越しに小さな声も聞こえる。
「──ただいま」
その声を聴いて彼女は、驚く。
「姉さん、起きてる? ごめんね起こしちゃって」
「あなたは、誰?」
扉の向こう側の相手に、あらためて聞き返す。
だって、そんなことはありえないから。
「え? 何言ったんだよ、姉さん。俺だよ、オレ。可愛い弟だよ」
「そんなはずは、ありません。弟は遠くへ出かけました」
彼女は、扉の向こう側に届くように、はっきりと答える。
すると、扉をたたく音が、変わる。
ドン、ドン、ドン。
ドンドンドン。
「ただいま、姉さん、俺だよ、おれ。ふざけないで、入れてくれよ、姉さん」
ドーン、ドーン、ドォオオオーン。
扉をたたく音はどんどん大きくなっていく。
扉が壊れそうなほど、大きく揺れる。
「ただいま、姉さん……。お願いだ、扉を開けてくれよ、じゃなきゃ家に入れないよ」
扉の向こうからは、男性の悲痛な叫びも聞こえる。
その叫び声を聞いて、彼女は悲しそうな顔になり告げる。
「──カギはかかってないの。だから、ちゃんとドアノブを回して、自分の足で入ってらっしゃい」
「だめだ、だめなんだ。オレ、自分じゃ扉を開けられない。姉さんが開けてくれなきゃ、家に入れないんだ。お願いだよ姉さん、家に入れてくれよ」
彼女は扉を背にして、玄関で泣き崩れる。
弟は、交通事故で先ほど救急病院で息を引き取ったのだから。
ちゃんと成仏して、ただいま、と帰ってくるように願いながら。
(了)
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