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本気で恋する瞳
取締役は食通のようだった。そしてちょっと居心地の悪くなるような話を始めたので、明日香は身構えた。
彼は、九州には美味しいものがたくさんあるから、一緒に行こうと言い出したのだ。
「いまは日帰りで行けちゃうよ、九州なんて。朝一の飛行機に乗って、最終便で帰ってくれば問題ないでしょ。」
と、取締役は言った。
明日香にしてみれば、問題大ありだ。いくらうかつな明日香でも、最終の飛行機に確実に乗り遅れることぐらい、わかっていた。
行ってしまえば最後、言い訳や理由なんていくらでも作れる。「会社の偉いひと」である取締役に立てついたところで、いいことなんてひとつもない。
結局、明日香はその話に乗らなかった。食事もあらかた食べたところで、お手洗いに行くことを勧められた。帰り道も長いから、と。そして、ぴかぴかに磨かれた鏡の前で手を洗って出てみると、「行こう。」と彼は言った。
なんのことはない、トイレに行かせている間に、会計は済んでいるのだった。古き良き時代のジェントル。今時の男の子は、きっとそんなことしない。
美味しいものを、一流のお店で奢ってもらったはずなのに、いまいち気分の弾まない帰り道だった。男だったんだ、このひとも。そう思ったら、やりきれなさでいっぱいだった。
九州の夜を想像したら、ぞっとして鳥肌が立った。明日香は車のなかで、自分の身体を抱きしめていた。
さっきと同じ歌手の曲が流れる。くたびれた。早く帰りたい。
先ほどと同じ楓の街路樹の下で、渡良瀬取締役は車を停めた。
「これ、プレゼントしようと思って。」
取締役は、МDを車から取り出した。
「最近、注目してるフランスのアーティスト。いい声してたでしょ。」
明日香は実物のМDを見るのは初めてだった。結構小さくて薄っぺらい。手書きの小さな文字で、曲名がびっしり書かれていた。渡良瀬取締役は、老眼鏡を掛けながら、フランス語の文字をひとつひとつ書き込んでくれたのだろうか。
だけど明日香は、МDを聴く機械なんて持ってない。もうとっくの昔に絶滅したと思っていたМD。
手渡した取締役の目に、さっきまでの大人然とした余裕は微塵もなくて、切なく、不安げに揺れる少年のような光があった。
その瞳のままほほ笑むと、車を降りて、外から助手席のドアを開けた。
ああ、このひとはこの瞬間、本当に私に恋をしているんだ。
明日香は切なくてたまらなくなった。本気で恋する瞳を見たのは、何年ぶりだろう。だけど、応えるなんて無理だよ。
たとえ九州一泊だって、絶対やだよ。明日香にとって取締役は、あくまで年老いた男なのだ。
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