0人が本棚に入れています
本棚に追加
4
表は相変わらず濃霧のベールに包まれ、視界が悪いままだった。長く店へ留まった気がするのに、霧が晴れる兆しも、朝日が射す兆しも無い。
白い静寂の渦中を泳ぐように進むと、前方から声がし、薄っすらと人影も見えた。
最悪だ。
今、一番合いたくない人種、警官が話している。蛇行するタイヤ痕が路上に残っているから、交通事故の現場検証だろうか?
彩音はさり気なく彼らに背を向け、もと来た方角へ戻ろうとした。
そして、間も無く気付く。
あのちっぽけな店の古臭い引き戸がどこにも見当たらない。
どうなってんの、一体!?
半ばヤケクソで警官達の屯する路上へ踏み込んでみたら、霧の狭間に千秋のシャコタン車が見えた。
実に酷い有り様だ。蛇行するタイヤ痕の先、ガードレールを突き破り、電柱へ正面衝突している。
さっきまで駄菓子屋の前へ停めておいた筈なのに……
困惑しつつ、彩音は壊れた車の前へ回り込んでみた。
フロントガラスがグシャグシャだ。
勇気を奮い起こし、損壊部から車内を覗くと、金髪の長身と助手席のヤンキー女、二人分の遺体がある。
あ、あたし、死んでる……千秋の隣りで、割れた頭から脳ミソはみ出しちゃってる。
酷い。キモい。
こんな死に方ってないよ。
でも、それじゃ、今、ここにいるあたしは?
「ホントについてないね、お姉さん」
声を掛けられ、振り向いた彩音の前に、あの白い少年が立っていた。
「事故で死んでから、お姉さんは店に来たんだ。とびきり運の悪い客の一人として」
「あ、あたしは死んでない! だって、おかしいじゃん、手の傷だって痛むのに」
掌をかざし、血が止まらない傷口を少年に見せる。だが、その歯型は妙に小さい。右も左も、人ではなく小さな獣が噛んだ痕跡に変わってしまった様だ。
そう、まるで猫の噛み跡……
ニャア。
小さな鳴き声で前方へ視線を戻した時、少年はもうそこにいなかった。
代わりにあの総白髪の老婆が佇み、白猫を抱いて、頭を優しく撫でている。
「そろそろ、あんた、気付いてるだろ。あたしの店はこの世とあの世の境目にある」
シャコタン車の激突で折れた電柱を、老婆は指差した。
まだ住所表示が読み取れる。
黄泉平坂3丁目。
聞いた事の無い地名だ。東村山三丁目ならドリフの歌で知ってるけれど……東京の郊外を走っていたつもりが、随分と遠くへ来てしまったらしい。
「あそこで起きた全てが幻。でも、一つだけ言えるのは」
あれだけ酷い目にあわされたのに、彩音に対して怒りや恨みを見せるでもなく、老婆の口調はあくまでおだやかだ。
「店には一度しか入れない。そして、行い次第では元の世界へ二度と戻れなくなる……教えたね、前にも」
ニャア。
又、猫が鳴く。掌の傷から血が滴り落ちる。
その痛みと恐怖に耐えかねて、彩音は老婆へ背を向け、逃げた。深い霧の中、あても無くガムシャラに、
「誰か……誰か、お願い、あたしを見て! あたしに気付いて!」
声を限りに叫ぶ。
しかし、その声は警官にも通行人にも届かない。
思い切って行き交う女性の一人に近づき、肩口へ触れてみたら、スッと指先がすり抜けてしまった。
黄泉平坂三丁目。
ごく稀に濃い霧を媒介として現実世界へ繋がるこの場所は、文字通り冥界との境界線に位置しているのだろう。
この世でもあの世でもない、閉じた空間。
目に映る人間や街の様子は、ほんの一時、浮かび上がる時空の揺らぎでしかない。迷い込んだら、生と死のどちらへも進めない永遠の迷宮なのだ。
あぁ、あたし、ツンじゃった……
受け入れざるを得ない絶望感と共に、取り巻く霧が一層濃くなる。
まるで灰色の部屋にいる気分だ。
母に取り残された、あのアパートの一室を思い出す。
置いていかないで!
そう叫んでも、目の前で閉じられてしまう玄関のドア。
安っぽいプラスティックケースの中に着替えだけ沢山詰め込まれた白いワンピースをまくり上げ、誰も助けに来ないのを承知でワンワン泣いて、涙を拭くしかなかったガキの頃のあたし……
まだ、あたし、あそこを出られないまま、閉じ込められているのかも?
一陣の風で僅かに開けた霧の狭間、立ち竦む彩音の前に立っているのは、もう老婆ではない。
猫を抱いた白いワンピースの少女。
昔の自分自身を前にし、彩音は怯えていた。これまで現れた誰より、顔を見るのが怖かった。
「諦めた方が良い。あなたの運命はもう決まったの」
「ここで、ずっと一人ぼっち?」
「ええ、でも、もし運命を変える不思議なお菓子を持っているなら……」
言い終える前に、再び吹いた風で渦巻く濃霧が少女と猫の姿を呑み込んでしまう。
「あ、待って! 置いていかないで!」
ニャア。
小さな鳴き声の方角へ視線を移した時、もうそこには白い猫だけしかいなかった。
チラリとこちらを振り返り、霧の彼方へ消えていく。
取り残された彩音には、駄菓子屋の主が残した言葉へ頼る以外、もう何の選択肢も無い。
不思議なお菓子?
指先でポケットの奥をまさぐってみる。
先程、千秋から渡された包みが四つ、入っていた。棒の形をし、『うまいぼう』の最後の一文字が欠けた駄菓子だ。
食べればどうなる?
怖い。
でも、このまま一人で永遠に彷徨うのも耐えられなかった。それ位ならイボになって消え失せた方が良い。千秋のように跡形も無く……
決心がつかず、どれくらい、霧の中で立ち尽くしていた事だろう。
ヘックシ!
間抜けなクシャミと共に、背後で誰かの気配が蠢いた。
「なぁ、彩音ぇ……一蓮托生っての、知ってる?」
粗野で幼稚な、聞き馴染みのある声だ。一度消滅した癖して、死の国から彩音を迎えに来てくれたのか?
嬉しさより恐怖が先に立ち、振り向く勇気が出ない。
すると、夜の交わりに誘う時と同じ要領で、腫瘍だらけの溶けた指が彼女の頬を撫で、耳元へ甘く囁く。
「へへ、俺がくたばる時は、お前、地獄まで道連れって事……」
甘酸っぱい匂いと生臭さが首筋へ当たる息遣いの中で入り混じり、白骨化しつつある指先が、真っすぐ駄菓子を指さした。
早く食えってか、オイ?
トコトン、スカだね、あんたって奴は。
でも、スカとスカの似た者同士、地獄へ行くなら一人よりマシかも……?
震える指で包みを破り、四本続けて口へ押し込む。
そして皮膚に強烈な痒みが生じるまでの、長い数秒間を彩音は待った。
最初のコメントを投稿しよう!