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 表は相変わらず濃霧のベールに包まれ、視界が悪いままだった。長く店へ留まった気がするのに、霧が晴れる兆しも、朝日が射す兆しも無い。  白い静寂の渦中を泳ぐように進むと、前方から声がし、薄っすらと人影も見えた。  最悪だ。  今、一番合いたくない人種、警官が話している。蛇行するタイヤ痕が路上に残っているから、交通事故の現場検証だろうか?  彩音はさり気なく彼らに背を向け、もと来た方角へ戻ろうとした。  そして、間も無く気付く。  あのちっぽけな店の古臭い引き戸がどこにも見当たらない。  どうなってんの、一体!?  半ばヤケクソで警官達の屯する路上へ踏み込んでみたら、霧の狭間に千秋のシャコタン車が見えた。  実に酷い有り様だ。蛇行するタイヤ痕の先、ガードレールを突き破り、電柱へ正面衝突している。    さっきまで駄菓子屋の前へ停めておいた筈なのに……  困惑しつつ、彩音は壊れた車の前へ回り込んでみた。  フロントガラスがグシャグシャだ。  勇気を奮い起こし、損壊部から車内を覗くと、金髪の長身と助手席のヤンキー女、二人分の遺体がある。  あ、あたし、死んでる……千秋の隣りで、割れた頭から脳ミソはみ出しちゃってる。    酷い。キモい。    こんな死に方ってないよ。    でも、それじゃ、今、ここにいるあたしは? 「ホントについてないね、お姉さん」  声を掛けられ、振り向いた彩音の前に、あの白い少年が立っていた。 「事故で死んでから、お姉さんは店に来たんだ。とびきり運の悪い客の一人として」 「あ、あたしは死んでない! だって、おかしいじゃん、手の傷だって痛むのに」  掌をかざし、血が止まらない傷口を少年に見せる。だが、その歯型は妙に小さい。右も左も、人ではなく小さな獣が噛んだ痕跡に変わってしまった様だ。  そう、まるで猫の噛み跡……  ニャア。  小さな鳴き声で前方へ視線を戻した時、少年はもうそこにいなかった。  代わりにあの総白髪の老婆が佇み、白猫を抱いて、頭を優しく撫でている。 「そろそろ、あんた、気付いてるだろ。あたしの店はこの世とあの世の境目にある」  シャコタン車の激突で折れた電柱を、老婆は指差した。  まだ住所表示が読み取れる。  黄泉平坂3丁目。  聞いた事の無い地名だ。東村山三丁目ならドリフの歌で知ってるけれど……東京の郊外を走っていたつもりが、随分と遠くへ来てしまったらしい。 「あそこで起きた全てが幻。でも、一つだけ言えるのは」  あれだけ酷い目にあわされたのに、彩音に対して怒りや恨みを見せるでもなく、老婆の口調はあくまでおだやかだ。 「店には一度しか入れない。そして、行い次第では元の世界へ二度と戻れなくなる……教えたね、前にも」  ニャア。  又、猫が鳴く。掌の傷から血が滴り落ちる。  その痛みと恐怖に耐えかねて、彩音は老婆へ背を向け、逃げた。深い霧の中、あても無くガムシャラに、 「誰か……誰か、お願い、あたしを見て! あたしに気付いて!」  声を限りに叫ぶ。  しかし、その声は警官にも通行人にも届かない。  思い切って行き交う女性の一人に近づき、肩口へ触れてみたら、スッと指先がすり抜けてしまった。  黄泉平坂三丁目。  ごく稀に濃い霧を媒介として現実世界へ繋がるこの場所は、文字通り冥界との境界線に位置しているのだろう。  この世でもあの世でもない、閉じた空間。  目に映る人間や街の様子は、ほんの一時、浮かび上がる時空の揺らぎでしかない。迷い込んだら、生と死のどちらへも進めない永遠の迷宮なのだ。  あぁ、あたし、ツンじゃった……  受け入れざるを得ない絶望感と共に、取り巻く霧が一層濃くなる。  まるで灰色の部屋にいる気分だ。    母に取り残された、あのアパートの一室を思い出す。  置いていかないで!  そう叫んでも、目の前で閉じられてしまう玄関のドア。  安っぽいプラスティックケースの中に着替えだけ沢山詰め込まれた白いワンピースをまくり上げ、誰も助けに来ないのを承知でワンワン泣いて、涙を拭くしかなかったガキの頃のあたし……  まだ、あたし、あそこを出られないまま、閉じ込められているのかも?  一陣の風で僅かに開けた霧の狭間、立ち竦む彩音の前に立っているのは、もう老婆ではない。  猫を抱いた白いワンピースの少女。  昔の自分自身を前にし、彩音は怯えていた。これまで現れた誰より、顔を見るのが怖かった。 「諦めた方が良い。あなたの運命はもう決まったの」 「ここで、ずっと一人ぼっち?」 「ええ、でも、もし運命を変える不思議なお菓子を持っているなら……」  言い終える前に、再び吹いた風で渦巻く濃霧が少女と猫の姿を呑み込んでしまう。 「あ、待って! 置いていかないで!」  ニャア。  小さな鳴き声の方角へ視線を移した時、もうそこには白い猫だけしかいなかった。  チラリとこちらを振り返り、霧の彼方へ消えていく。  取り残された彩音には、駄菓子屋の主が残した言葉へ頼る以外、もう何の選択肢も無い。  不思議なお菓子?  指先でポケットの奥をまさぐってみる。  先程、千秋から渡された包みが四つ、入っていた。棒の形をし、『うまいぼう』の最後の一文字が欠けた駄菓子だ。  食べればどうなる?  怖い。  でも、このまま一人で永遠に彷徨うのも耐えられなかった。それ位ならイボになって消え失せた方が良い。千秋のように跡形も無く……  決心がつかず、どれくらい、霧の中で立ち尽くしていた事だろう。    ヘックシ!    間抜けなクシャミと共に、背後で誰かの気配が蠢いた。   「なぁ、彩音ぇ……一蓮托生っての、知ってる?」  粗野で幼稚な、聞き馴染みのある声だ。一度消滅した癖して、死の国から彩音を迎えに来てくれたのか?  嬉しさより恐怖が先に立ち、振り向く勇気が出ない。  すると、夜の交わりに誘う時と同じ要領で、腫瘍だらけの溶けた指が彼女の頬を撫で、耳元へ甘く囁く。 「へへ、俺がくたばる時は、お前、地獄まで道連れって事……」  甘酸っぱい匂いと生臭さが首筋へ当たる息遣いの中で入り混じり、白骨化しつつある指先が、真っすぐ駄菓子を指さした。  早く食えってか、オイ?  トコトン、スカだね、あんたって奴は。  でも、スカとスカの似た者同士、地獄へ行くなら一人よりマシかも……?  震える指で包みを破り、四本続けて口へ押し込む。  そして皮膚に強烈な痒みが生じるまでの、長い数秒間を彩音は待った。
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