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気まぐれな低気圧の発生により、灼け付く暑さが一段落した八月中旬。
東京近郊のその町は早朝から濃い霧に包まれていた。
朝の光は朧げで、一寸先は闇、じゃなく何処もかしこも真っ白け。
どうにか識別できるのは、昭和末期に造成された住宅地の、色褪せた古い町並みと言った所か。
そんな中、二車線の公道を明らかにスピード違反で走行する車があり、
「畜生、何でこの辺、コンビニ無ぇの?」
ハンドルを握る金髪の青年・大矢千秋が、酒臭い口でぼやくと、
「早く大通りに出りゃ良いじゃん」
寝ぼけ眼をこすりこすり、助手席の東野彩音が言った。
「それが堂々巡りしてる感じでさ……道わかんね~つうか」
言い返す千秋は、令和になってまた増え始めたと言う暴走族の元メンバー。
20才で「卒業」した後も、相変わらずシャコタン改造車で深夜の暴走を繰り返している。
彩音も元レディースの腐れ縁だが、この時はうんざり口調で、
「カーナビ通り行きゃ良いじゃん」
と不愛想に言い返した。
「そっちも調子悪ィ。やべぇ、俺、喉カラッカラなのに」
「何でもいいから、店見つけて。早くトイレ行かね~と、あたし……」
「濡らすなよ、俺のシート」
「……殺すぞ、バ~カ!」
毒づく彩音を無視、フロントガラスに目を凝らす千秋が、あっ、と声を上げる。
白い霧の中から、不意に白い影が現れ、車の前を横切ったのだ。
野良猫か?
霧の只中、真っ白い頭とコントラストを成す漆黒の瞳が彩音の視線と交わる。
そして、すぐ強烈な衝撃が来た。
猫を助けたいと言うより、車を汚したくない一心なのだろう。千秋の無茶なハンドル捌きで、車体が横へ大きくスピン。
制御不能のまま、突っ込む靄の先に灰色の電柱が垣間見え……
シートベルトをしていない彩音は、ダッシュボードで頭を強打し、危うく意識を失いかけた。
「バカッ、何やってんの!?」
「へへ、結果オーライ。こんな朝早くコンビニ以外に開いてるトコ、あんのな」
止まったシャコタン車の窓越し、千秋が指さす路地片隅に小さな店舗がある。
どうやら駄菓子屋らしい。
ガラス張りの引き戸の向う、今では珍しい縦型冷蔵庫が見え、
「おっ、瓶コーラ!」
言うなり、千秋は車を飛び出した。
後を追う彩音が道路を横切る際、軽く周囲を見渡してみる。スピンに伴うタイヤ跡が目立ち、白猫の姿は何処にも無い。
あれは錯覚だったのだろうか?
店に入ると、紐で冷蔵庫に繋がる栓抜きを使い、千秋がコーラを開けていた。
「あ、もうパクッてる」
「ちゃんと店番してね~方が悪いンよ」
喉を鳴らしてラッパ飲みする千秋の横を通り抜け、彩音は奥を覗き込む。
狭い店だ。住宅と一体化しており、間仕切りされた上り框の先に細い廊下がある。
トイレらしき扉を見つけ、間仕切りを跨いだら、レジ台の陰から声がした。
「へぇ、便所借りようってのに、一言も無しかい?」
ギョッとしてそちらを見ると、店のちっぽけさに見合う小柄な老婆がいる。
隠れていたのか? 小さすぎて千秋が見逃したのか?
どちらにせよ、丸く御団子にした総白髪の下、奥二重の目で、突然の闖入者への敵意を剥き出しにしている。
「全く、最近の若い奴らときたら礼儀を知らないねぇ……」
「あ~、そう言うの、今はカンベン」
吐き捨てて廊下に上がり、彩音はトイレの扉を開いて駆け込んだ。
呆れ顔の老婆へ千秋が毒づく。
「婆ぁ、失礼だろ? それが客に対する態度かっつ~の」
「ふん、コーラ泥棒が良う言うわ」
「あぁ?」
「いきなり車を乗り付けたかと思えば、酒臭い匂い、プンプンさせて」
千秋の眉間に縦皺が寄った。
粗暴にして単純、幼稚。上から目線にキレやすい千秋が荒れ始める兆しだ。
「……オイ、それ、説教か、クソ婆ぁ!?」
すっきりした顔で彩音が便所を出た時は、もう手遅れだった。
右手のコーラ瓶を、千秋は思い切り老婆へ投げつけ、
「やめてっ!」
彩音の叫びと、瓶が皺に覆われた額のド真ん中へ直撃するのがほぼ同時だ。
カウンターへ凭れていた老婆の体は後方へ吹っ飛び、段差がある床の上へ転がり落ちた。
間もなく伏せた頭の下に血溜りが生じ、見下ろす彩音の顔は一気に青ざめる。
「うわっ、千秋、コレ……くたばったんじゃないの」
「事故だ、事故! 俺、婆ぁに当てる気ねぇし」
「あ、あたし、共犯じゃないからね。そこだけ、ちゃんと覚えといてね」
すぐ病院へ運べば手当が間に合うかもしれないのに、そこは考えもしない。
何といっても二人は長年の不良仲間だ。
性根が腐った者同士、醜い内輪揉めを繰り返した挙句、
「ねぇ、どうせヤバいなら、この際……」
彩音の唇から一層醜い提案が出た。
その指差す先、老婆が倒れた勢いでレジスターのトレイが開いている。
駄菓子屋だから小銭商売である反面、現金しか扱わない上、意外に札も多い。もしかしたら老婆の生活資金も、まとめて管理していたのかもしれない。
「フフッ、毒を食らわば皿まで、って知ってる?」
「へへッ、知ンね~けど、お前が何を言いたいかは分ったぜ」
早速、千秋が金品を漁り始める。
その勢いで、店頭に並ぶ駄菓子へも、彼は片っ端から手を伸ばした。
「あ、何、食ってンの、千秋!?」
「いや~、この店、うまいぼうの味が揃っててさ」
「……どういう神経してんだか」
「でもコレ、名前が変なんだよな。もしかして、ニセモノかも?」
千秋が見せた菓子の袋を見ると、確かに「うまいぼう」の最後の「う」の字が印刷されていない様だ。
「ま、うまけりゃ良いけどさ。ホレ、お前も食え」
ボリボリ続けざまに齧り、彩音へも何本か投げてきた。
体を屈めて拾った弾み、老婆の首に掛かったネックレスが彩音の目に留まる。
「あ、これ、高く売れそうじゃん」
首から貴金属のチェーンを外そうとした途端、老婆が閉じていた目を見開き、
「ひぇぇええええっ!」
やけに甲高い悲鳴を上げた。
慌ててその口を左手で抑える彩音だが、
「あ、痛っ!?」
「どうした?」
「ば、婆ぁ、噛みつきやがった。離せよ、コラ、死にぞこない!」
老婆も必死なのだろう。黒ずんだ前歯が親指の下の柔らかい肉へ食い込んでいく。
痛みと恐怖で彩音はキレた。
力一杯、白髪に覆われた後頭部を何度も床へ叩きつけ……グシャリ、と言う嫌な手触りと共に、老婆の手足が動かなくなる。
食い込んだ歯を彩音が左手から引き抜くと、傷口から腕へ血が伝った。
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