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3
そうそう、安い身なりと空きっ腹でさ。
貧乏って以外、特徴も取り柄も無い子だったっけ、あたし。
不運か……
確かに、ここまでスカばかり掴んできた気がする。
まず親がスカ。
稼ぎが無い男と、仕事が長続きしない女の組み合わせで、おまけに二人とも自分勝手と来たもんだ。
子供の世話を押し付け合い、結局、実質的な育児放棄……確か、ネグレクトって言うんだっけ、今?
で、学校もスカ。
給食費が払えず、子ども食堂へ通うあたしを露骨にハブりやがってさ。そんな同級生、苛められる前に苛めるしか無いっしょ。
ヤケクソで荒れて、暴れて、不良人生まっしぐら。
人生丸ごと、初めから当たりが無い屋台のくじ引きみたいじゃん。
ヘックシ。
彩音が追憶の波間を漂う間、扉から洩れた声は、少年の耳にも届いたようだ。
ヘックシ! ヘックシ!
ドリフそっくりのくしゃみは一向に止まらない。
そう言や付き合う男もスカだったわ。エエトコのボンボンで、金だけ持ってる不良のトップ。
ルックスもキャラもスカなのは承知の上だけど、あんなにアホとは……
思わず彩音が溜息をつく。
少年の方は、又、好奇心が刺激された様子で目を輝かせ、
「トイレに誰かいるんだね。出てきてよ。冷蔵庫のコーラ、飲んだでしょ?」
「ヘックシ! 全然、明るい気分になんね~ぞ、俺は」
渋い表情で扉から千秋が顔を出した。
「マジか、コレ、コーラのせいって」
「僕はもう止まったけど、お兄ちゃん、何本呑んだ?」
「3本続けて……へ、ヘックシ」
「ん~、飲み過ぎ。それ死ぬまで止まらないかも」
「ふざけんな、このガキ!」
無邪気な宣告で、幼稚な感性を逆撫でされたらしい。少年へ襲い掛かるべく、廊下から床へ飛び下りるが、
ヘックシ。
くしゃみと同時に彼は足を滑らせ、レジカウンターの前でひっくり返る。
そちらを見た途端、彩音は息を呑んだ。
千秋の足を滑らせたものが、老婆の後頭部から洩れ出す鮮血と気づいたのだ。
白目を剥いた顔と御団子にした総白髪を淀んだ赤が染め抜き、何時の間にか、間仕切り奥の上り框は血の海と化している。
少年もレジの奥を覗き見、
「ひ、ヒトゴロシ……」
年相応の怯えを露わにした。
彩音は咄嗟に少年へ駆け寄り、もがく体を力づくで抑え込もうとして、
「あ、痛っ! 又、手を噛まれたぁ!」
老婆の時と違い、今度は右手だ。
千秋は彩音が挙げた悲鳴を、逃がすな、という意味に受け取ったらしい。
少年の首を締め、ねじり、へし折ろうと力を込めた時、唐突に「あ」と気の抜けた呻きを漏らす。
「これ、何だ?」
無造作に千秋は少年を放り出した。その代わり、不思議そうに右の手首辺りを見つめる。
「ヘックシ! なぁ、見てくれや、これ」
彩音の方へ腕をかざすと、手の甲に大きな腫瘍がある。
微妙に蠢き、見る見る膨れ上がっていく表面の割れ目から、鮮やかな橙色の膿みが染み出して、
「……かゆいんだけど、すごく」
言うや否や、千秋は腫瘍をかきむしった。
破けた部分から膿みが飛び散り、付着した皮膚を橙色に染めていく。
「かいぃ……かいぃ……かゆ過ぎる」
ボリボリと……かく。
膿が飛んだ所に新たな腫瘍ができる。
そこも、かく。
又、増える。
凄惨な無限ループが続いた後、彩音の前に立つ男は、全身くまなく色鮮やかな腫瘍に覆われていた。
「あれぇ? 変だなぁ? 何か、これ……良い匂いしねぇ?」
くしゃみは治まってきた様だが、今や千秋の頭は腫瘍の塊に過ぎない。
その口と思しき辺り、赤と橙色に爛れた裂け目から声が聞こえ、
「……凄ぇ、腹減ってきたわ、俺」
残った手持ちの駄菓子を残らず頬張る。ボリボリ噛んでそれでも足りず、指先が宙をまさぐる。
「千秋、しっかりしな! すぐ病院へ連れてってあげる」
「いや、でも腹が減って、腹が減ってよぉ。もう我慢できねぇっちゅ~か」
狂おしく首筋をひっかいた指が、柔らかな腫瘍を抉り、もぎ取った。吐き気を抑える彩音の前で、橙色の膿みから一層甘い香りが散る。
千秋だった異形は口らしき裂け目へ、菓子の代わりに腫瘍を押し込み、
「うめぇ! うめぇぞ、このかゆい奴」
肉塊をクチュクチュ噛む音がするから、多分、まだ歯は残っているのだろう。
千秋のポケットから床へ落ちた菓子の包みを、少年は一つ手に取った。
「このお菓子、沢山食べたの?」
「あぁ、うまいぼう、大好きだからな」
「これ『うまいぼう』じゃないよ。ホラ、『うまいぼ』、最後の字が抜けてる」
「対して違わね~じゃん」
「い~え、一字違いが大違い。だって、おいしいイボを作る駄菓子だもん」
荒い息遣いを漏らしつつ、腫瘍の塊が少し傾いた。多分、首を傾げたつもりなのだろう。
「お腹を空かせた不運な人に、幾らでも増える御馳走をプレゼント! そんな不思議な、不思議なお菓子なの」
「幾らでも……じゃ、このイボを治す方法は?」
「ん~、食べ過ぎたら、コーラと同じで」
「し、死ぬまで止まらねぇってか!?」
答えの代わりに小さく頷く。
今や少年は、自分を殺そうとした相手を憐れんでいるようだった。
千秋だった肉魂は、不明瞭さを増していく濁った声で、彩音へ手を伸ばす。
「助けて……助けてくれよぉ、彩音ぇ……」
「ひぃっ!?」
彩音は只、後ずさるだけだ。
伸ばした指先は腐食し、溶け落ち、既に三本しかない。
声の響きは痛切だ。でも一度食ったら、やめられない、止まらない。
手当たり次第に掻き、むしり、食う。
「うめぇ……かぃい……」
成す術無く彩音が見つめる間、自身を喰い荒らし、千秋の体は見る見る小さくなっていった。
「彩音ぇ……俺、ど、う、な、て……」
最後はとうとう頭だけになり、掠れ声さえ満足に出なくなる。
そして、不思議な駄菓子による効果の最終段階なのだろう。
残った部分の腫瘍が次々と破裂、膿の泥濘へ溶けていく。そして十秒も経たぬ内、泥濘さえ蒸発してしまった。
千秋であった肉片は、跡形も無くこの世から消滅したのだ。
「どう? ここのお菓子、やっぱり不思議でしょ?」
白い開襟シャツの少年がニッコリ笑う。
あどけない、何処にでもある顔。
その瞳孔が、ふっと縦に細くなり、猫の目に似た光を放つ。
彩音の背筋を悪寒が走った。
こいつ、本当に「不運な」客か?
むしろ、駄菓子屋へ客を招き入れる側なのでは?
気付いた瞬間、足は出口へ向いていた。
無我夢中で引き戸を開け、店の外へ飛び出していく。
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