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やっと一人になれた。今は何もしなくていい。それだけを嚙みしめて暗闇に身をゆだねた。
ふっと、鼻先を何かが撫でた。
「あ……」
枯れ切った体に瑞々しい感覚が染みわたると同時に、名を呼びたい者の名前を知らないことに気づいてもどかしさが口をついて出た。
気配が流れた方向へ目を向けると白壁にぼんやりと人影が写っていた。瞬きする間にも影が消えてしまいそうな気がして、ずっと目を離さずに走り寄った。
垣根の隅の枝折戸の外に、虹売りが悄然と立っていた。
「ご無事でしたか?!」
「若様こそ、ご無事で……」
虹売りは途中で言葉を飲み込んだ。思わず聞いてしまったのだろうが、翰林院での出来事は普通に考えれば虹売りは知らないはずだ。
「痛みはありますが、大事ありません。やはり、全てご存じの上で姿を消されたのですね。瓶の中の水を使って、私を見守り、助けて下さった……」
「見守るとおっしゃっていただくと慰められる思いですが、後をつけるなど……若様を軽んじる、小賢しくおこがましい行いでございました」
「いえ、私のような子どもが学師様と懇意ですぐにお目通りが叶うなど、信じろと言う方が無理な話なのです」
「……申し訳ございません。私どものようなものは……退け時を気にするもので」
そんなつもりはなくても、ナギは結局のところ虹売りを跪かせていたのだった。
「あなたが無事であれば、それでよいのです。私の至らぬ指図など無くとも、あなたの方がよほど世間をご存じでしょうから。私は幼く、未熟です。頼りない子どもです。守られているのに、あなたを助けたいと思っていました。上手くいけばあなたがまた浪切に出入りできるようになるのではと、勝手にそんなことを考えていました。おこがましいのは、私の方です」
枝折戸の軒先からぽちゃんと水たまりに雫が落ちた。いつの間にか雲間から、小さい方か大きい方かわからないが、月の光が差し込んできて虹売りを淡く照らし出した。その面持ちはもはや悄然というよりも暗く、ためらいを多く含んでいた。
「もったいないご厚意、ありとうございます。若様は、きっと良きご領主様になられましょう」
水色の視線がしばし空中を漂った後、ぴたりとナギを捉えた。
「若様の事を、ご領主様のお子様としてではなく、次代のご領主様として、お話してもよろしゅうございましょうか」
昨日までのナギであれば、気を引き締めると同時に大人扱いされたことを喜んでいただろうが、今は少し手が震えた。
「……はい。今日、父を訪ねられた件ですね」
虹売りはうなずくと、声を一段落とした。瞼が半分閉じられて、過去を見る目になった。
「天嶮より南のことでございます……」
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