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7 終章(慶長)
三弥と恋仲になった藤作は、なかなか本当の事を言い出せなかった。
苦悩する藤作に美弥が小槌を差し出した。
「お前様がそれで救われるのであれば」
藤作は必ず三弥の元に戻る事を誓い、雨姫村に向かって駆け下りた。
領主に小槌を渡すと、領主はニヤリとした。
これで雨姫山の加護がなくても、水がいつでも手に入る。
江戸になど納めやしない。
自分のものとするのだ。
領主は小槌が偽物だと叫んだ。
そして、偽物を持たせた雨姫山の女と藤作に厳罰を下すと通達した。
雨姫などこの村には必要ない。そこにあるのに、人が入れない山など燃やしてしまえば良い。
小槌はこちらにあるのだ。
領主は藤作を騙し、雨姫山に火を放った。
立ち上る煙。赤々と燃え広がる山肌。
森の生き物たちが逃げ惑う。
藤作は自分が犯した過ちを知った。
そもそも、領主は端から約束を守る気などなかった。
自分の欲のために、私財を増やすためだけに神器を手中にしようとしていた。
自分の過ちに気づいた藤作は木槌を領主から取り戻そうと、領主に飛びかかった。
それを阻止したのは、取り戻されたら年貢がより一層きつくなると考えた雨姫村の村人たちだった。
藤作はもがき、吠えた。
雄叫びを上げながらも小槌を奪い返し、轟々と火が立ち上る雨姫山に走り去って行く。その姿は荒れ狂う熊のようだった。
燃え盛る雨姫山の中で、藤作は美弥と山の生き物たちへの謝罪と悔恨を叫び続けた。
叫びながら、泣きながら、走り続けた。
ポツ、ポツと雨が降ってきたのは、その時だった。
いつものような優しい雨ではなく、雷鳴を伴う嵐のような雨だった。
滝のような雨が後から後から降ってくる。
燃え広がった炎が次第にぶすぶすと消え始めた。
あっという間に炎が消えると、今度はゴゴゴゴという不気味な地鳴りが響いた。
今まで聞いたことのないほど低く、不気味な地鳴りだった。
地鳴りを聞いた者は皆、山神の怒りだと思った。
美弥の名を呼びながら山頂に向かっていた藤作は、不思議な声がして辺りを見回した。
「祠へ。祠へ」
最初に雨姫山に入った時に見つけた祠があった。
人が入れるとは思っていなかったが、呼びかける声のとおり、藤作は祠に入った。
入口は狭かったが、祠の中は存外広く、藤作が膝を抱えて座るには十分な広さだった。
「扉をしめて!」
声のとおりに祠の扉を閉めた直後。
あり得ないほどの振動が襲った。
山の木々や土が川のように流れ落ちて行く。
扉の隙間から外の様子を見た藤作は恐怖で身体が震えた。
小槌を握りしめ、ただ、美弥の名をくり返し呟く。
山がどんどん崩れ落ちて行くのが分かった。
でもどうしもできない。
気がかりなのは村のことではなく、ただ、美弥を思った
土砂がやみ、辺りが静かになって藤作は祠から飛び出した。
その景色は、藤作にとって生涯忘れられないものとなった。
高くそびえていた雨姫山の山頂は崩れ落ち、半分くらいになっていた。
麓の雨姫村も土砂で埋まって何も見えない。
三弥、三弥。
藤作は崩れ落ちた山頂付近を彷徨い歩いたが、美弥と出会える事はなかった。
足元に転がっていた木切れを拾いあげると、自分の名と三弥の名が刻まれた、いつかの木板だった。
藤作は握りしめて、声にならない声で叫んだ。
なくなった雨姫山に、藤作の声だけが響いていた。
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