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1.不思議な出会い
今日も雑音が煩い。
(新生活、ドキドキするなあ)
(自然にしなくちゃ・・・)
(今日から医大生だ。頑張るぞ!)
「ちょっと! ナナフシ女! なんであんたがここに居るのよ!」
甲高い声を上げたのは、久遠寺椿。私に何度も噛み付いてきた女だ。
「なんでて、大学受験に合格したからやろ」
「あんたなんかが医者になれるわけないでしょ! さっさと帰りなさいよ!」
「今まで親の七光りでその態度で通ってきたんやろうけど、それ、もうやめたほうがええで。周り見てみ。『なんだあのヒステリックな女は』って顔されてるで」
「はあ!?」
「命を預かる仕事の勉強のために皆ここに居るねん。遊びやないんやで」
「水無瀬文香の分際でクッソ生意気なこと言ってんじゃないわよ!」
ひそひそ、と自分を非難する声が聞こえたのか、久遠寺は顔を真っ赤にする。
「ハン! ま、あんたなんかどうでもいいわ! あんたどこのサークルに入るの? テニスサークルには来ないでよね! 学校でも話しかけないで! 同じレベルの人間だと思われたら困るから! それじゃ!」
久遠寺は一方的にそう言うと、席に戻っていった。
「あほくさ」
独り言つ。ここは医療を学ぶための大学だ。医大は一年生は皆、教養を学ぶので、目指す分野が違う人間も最初は同じスタートを切る。だから久遠寺もここに居る。私は子供の心を診る『児童精神科医』を目指している。何故目指しているのか。私は生き物の心の声を読み取ることができる『ダイヴ』という能力を持っている。過去にスキューバダイビングをした時の感覚に似ていることからこう名付けた。この力で、過去の私のような不幸な子供を救いたい。
動植物の声を正確に読み解くのは難解だ。理由は人語ではないから。人間の心の声は厄介だ。濁流のようにめまぐるしく変化し、言葉が浮かんでは沈んでいく。ダイヴしていなくても、私が聞きたくないと思っていても、心の声は勝手に聞こえてしまうことがある。特定の物事に対して強く感情を働かせている時ほど、ハッキリとした言葉で読み取ることができる。
ダイヴのデメリットは三つ。一つ。ダイヴ中は外部の刺激に反応できなくなること。周囲の人間には急に黙り込んで睨み付けているように見えるらしい。二つ。ダイヴ中は無防備になること。三つ。ダイヴする深度や時間も関係するが、酷い吐き気や激しい頭痛がすること。強い感情だらけのところに行くと勝手にダイウしているような状態になり、抗えない吐き気と頭痛に襲われる。酷いと失神してしまうこともある。
対処法は二つ。
一つは睡眠薬を服用すること。私自身の意識を曖昧にすることで感情を読み取る思考する力を下げる。デメリットは眠気に抗えず眠ってしまうことだ。夜はふとした瞬間に捕食される小動物や虫の心の声が聞こえて眠れなくなることがあるので、毎夜服用している。もう一つは私が混乱すること。恐怖や痛み、怒りや悲しみに支配されることで思考する力を下げる。デメリットは言うまでもない。
初めての講義を終えると、私は文芸サークルの部室に向かった。高校時代の二つ上の先輩がここに所属しているのだ。部室のドアをノックする。こんこんこん、三回。すぐにドアが開いた。
「おおっ!! 君が噂の水無瀬文香君!? 新入部員だあ!!」
「あ、噂の竹内部長」
「そうそう!! 浪人も留年もしてる親不孝者!! ささ、入ってくれたまえ!!」
初対面とは思えない挨拶を交わして、私は部室に入った。
「もう、竹内部長ったら」
先輩の九条誠が笑う。誠さんの隣に座っていた女性が立ち上がり、私に歩み寄った。
「初めまして。私は泉桃子です。九条さんと同じ三年生です。大の恋愛小説好きです。よろしくね」
「初めまして。水無瀬文香です。好きなジャンルはホラー、サスペンス、ミステリです。よろしくお願いします」
互いにお辞儀をする。
「僕が噂の竹内秀一!! 浪人しまくりで留年もしているので無駄に年だけ重ねている!! 皆が愛称と蔑称を兼ねて『竹内部長』と呼んでいる!! オールジャンル楽しむよ!! よろしく!!」
「よろしくお願いします」
「ねえ、文香ちゃん。もう一人、誰か誘ってきてくれないかしら?」
「サークルに、ですか?」
「うん。サークルって五人からじゃないと認められないのよね。年が変わって人数足りなくなっちゃって。竹内部長と、私と、泉さんと、文香ちゃんで、四人。あと一人・・・」
こんこんこん。
「あのー、サークルに入りたいんですけど・・・」
そう言って部室に入ってきたのは、久遠寺だった。
「あー! やーっぱりナナフシ女、ここに居た!」
何故か嬉しそうにしている。
「ナナフシ女?」
泉さんが久遠寺を軽く睨む。今まであまり睨まれたことがないのか、久遠寺は怯んだ。
「ああ、いいんですよ泉さん。ほら、私は身長が184cmもありますから、よくナナフシに例えられるんです」
「そう? 悪意があって言ってるように見えたけど」
「私は気にしませんから。それより廃部なんかにされたら学生生活の楽しみが半減どころか激減です。久遠寺を入れてあげましょう」
久遠寺は顔を真っ赤にした。
「そうよ! あんたのせいよ! テニスサークルも他のサークルも『同レベルに思われたくないから』って入部を断られたんだからね! あんたが責任とって文芸サークルに入れなさいよ!」
「なに言ってるのこの子?」
「いつもこんな感じなんで…」
「ふうん」
「なにその態度! ムッカつく! ナナフシじゃないなら紙魚よ紙魚! この紙魚女!」
久遠寺の心の声が聞こえてくる。
(なんでいつもこいつが話の中心に居るのよ! 私の方が綺麗で可愛くて頭も性格も良いし、お金持ちなのに!)
初めて会った時からこうだ。私が関西から関東に引っ越してきた時から。小学校二年生から、中学、高校と、なんの因果か久遠寺とはずっと同じクラス。そして大学も。
「泉さん、文香ちゃんの言う通り久遠寺さんはいつもこんな感じよ。そんなことより、他に誰も入部しなかったら廃部になっちゃうんだし、いいんじゃない?」
「そう? 九条さんと文香さんがそう言うなら・・・」
「わーい!! 新入部員が増えて文芸サークルも安泰だ!! さあ、君も自己紹介したまえ!!」
「フン。久遠寺椿です」
「わはははは!! これで廃部は免れた!! ってことで歓迎会をするか!! 僕は貧乏なので居酒屋はNGだ!! 文香君と椿君はお酒が飲めないから、コンビニでジュースとお菓子でも買って、部室で色々と語り明かそう!!」
「いいですね! 買い出しは私と文香ちゃんで行ってきます! 行きましょ、文香ちゃん」
「はい」
そういうことになり、私は誠さんとコンビニで色々と買い込み、部室に戻る。
「うーん、青春したいですなあ!!」
と、竹内が言う。
「青春、ですか?」
「サークルの強化合宿、とかさあ!!」
「わお! いいですね!」
誠さんが乗る。
「大学生なんだから、夏季休暇を利用して皆でどっかに泊まりに行って、文豪のカンヅメの真似と洒落込むのはどうかね!!」
「竹内部長、私達は構いませんけれど、単位大丈夫ですか?」
「ぐっ・・・」
「いいじゃない泉さん。父に頼んで良さそうな場所を見つけておくから」
「そう?」
「そう! い、い、の。医大生の生活ってたった六年しかないのよ? この年の、私達だけの思い出、作りたいじゃない! あ、そうだ! 私が何度も遊びに行っている、叔父様のお屋敷はどうかしら? 絶海の孤島なのよ? いかにもなにか起きそうでワクワクしない? 近くの町は昭和の風景が色濃く残っていて、山も海もあるから自然と触れ合えるの。そんな場所でゆったりと小説を書くなんて、素敵じゃないかしら?」
「いいねえ!! 『九条グループ』のご令嬢は言うことが違う!!」
「は? 九条さんってご令嬢なんですか?」
久遠寺が苛立つ。
「裕福な家庭ではあるけれど、ご令嬢なんてたいそうなものじゃないわよ」
「へー。そうですか」
「よーし!! そうと決まれば早速詳しい日程を決めようじゃあないか!!」
騒がしい竹内、気の強そうな泉さん、気さくな誠さん、そして久遠寺。やかましい夏になりそうだと思いながらも、私は少しだけドキドキした。
時が過ぎ、夏。
私達は屋敷に向かう船に乗っている。
「竹内部長、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫だぁ・・・」
竹内は船酔いしていて、泉さんが背中をさすっていた。
「博文さん、叔父様は元気?」
「はい。お元気ですよ」
誠さんは船頭のおじさんと楽しそうに話をしている。私は久遠寺と二人、黙って並んで座っている。私は本を読んでいる。久遠寺は誰とも話そうとしない。
(誰か私に話しかけなさいよ!)
自分から話しかけるのは嫌らしい。面倒な女だ。
船が島に着いた。
案内が船頭から執事のお爺さんに変わり、屋敷の中に入る。落ち着いた色合いだが、しっかりと豪華な内装だ。家具の一つ一つも遠目に見ても質が高い。
「叔父様っ!」
「やあ、誠」
屋敷の主、誠さんの叔父は、2mに近い長躯で、艶が失われていない黒髪を真っ直ぐに伸ばした、端正な顔立ちをした男だった。白い杖をついている。
盲目。
切れ長の目の、食虫植物の棘のように長い睫毛に彩られた目蓋は、閉じられている。
「初めまして。こんな田舎に来ていただいてありがとうございます。賑やかな一週間が過ごせそうで嬉しいよ。おっと、自己紹介が遅れた。九条紫月です。よろしくお願いします」
「部長の竹内秀一です!! よろしくお願いします!!」
「泉桃子です」
「水無瀬文香です」
「久遠寺椿ですー! おじさま、素敵ですねー!」
竹内に続き、順に自己紹介をする。
「我が家だと思ってゆっくり寛いでください。では・・・」
九条さんはゆっくりと歩き、去っていった。執事が私達を部屋に案内する。私は荷物を部屋に置き、ベッドに腰かけて窓の外を見た。美しく恐ろしい海が広がっている。海は怖い。膨大だから。
「ふう・・・」
疲れた私はそのまま仰向けになり、眠ってしまった。目を覚ましたのは空腹からだった。外は真っ暗だ。まずい。やらかした。
「うわっ、やってしもた・・・。薬のために腹になんか入れた方がええけど、どうしよ・・・。誰か居らんかな・・・」
立ち上がり、月明かりを頼りに部屋の電気を点ける、鞄から薬が入ったポーチを取り出し、部屋の電気を消して廊下に出て、気付いた。
「キッチンどこや」
『とりあえず荷物を置きましょう』と部屋に通されたので、いつどこで食事をするのか、それすらわからない。バッグの中のスポーツドリンクは船旅が長かったのでかなり飲んでしまい、薬を飲むには足りない。洗面台の水で飲むのはちょっと嫌だ。キッチンを探して、コップを拝借して、自分で洗って、あとで謝ることしか思い浮かばなかった。
私が居るのは二階。そういえば、とズボンのポケットから携帯を取り出して時刻を確認する。午前二時。あ、電波繋がってない。絶海の孤島だから電波が悪いのか。あまり重要でない考えはすぐに消えた。誰かを起こすという手段もこれで消えてしまった。
階段を降り、キッチンを探す。すぐに見つかった。開け放たれたドアから灯りが漏れていて、その中で九条さんが酒を飲んでいた。
「誰ですか?」
「あっ、すみません。水無瀬です。お部屋に案内していただいたあとに眠ってしまって、薬を飲むためにお水を一杯頂けないかと」
「ああ、水無瀬さん。少しお待ちを」
九条さんに頼んで誰かを起こしてもらうのは気が引けるし、許可を取ったとしても盲人の横で冷蔵庫を漁るのは気まずい。私は食事は諦めた。九条さんは立ち上がり、するすると迷いない足取りで食器棚の前まで行くと、硝子のコップを取り出し、水を汲んだ。さっきまで座っていたソファーの対面にコップを置き、元の位置に座り直す。
「どうぞ」
「すみません、いただきます」
私は対面のソファーに座り、ポーチから薬を取り出し、飲む。
「水無瀬さんさえよければ、少し私と話をしませんか?」
「はい。喜んで」
「水無瀬文香さん、でしたね。出身は関西ですか?」
「はい」
「ふふっ。イントネーションが独特でしたので」
「あっ、すみません。気を付けているのですが・・・」
「気を付ける?」
「はい。良く思わない人も居ますから」
「そんな、私はそうは思いませんよ。人間の声は最も美しい楽器です。長い年月を経て培われた独特の言葉の音は、素晴らしいものです」
「えっ・・・。初めて言われました・・・。私、方言がキツい地域出身ですから・・・」
「すみません。嫌な思いをしましたか?」
「いえ、違うんです。でも揶揄う人も居ますから。揶揄うってことは不愉快なのかなって・・・」
久遠寺とかね。
「私も少しだけ、気持ちがわかるかな。私の英語はイギリス訛りなんですよ。知人に教えてもらったのですが、彼はイギリス人でね」
「わ、えいごにも、なまりが・・・」
「ん? どうされました?」
まずい。空腹で飲んだから睡眠薬が速攻で効いた。
「あの・・・、すみません、もう、へやにもどります・・・」
私はソファーから立ち上がろうとして、ふらついてしまった。九条さんが慌てて立ち上がり、手で空中を探りながら私に近付き、肩に触れる。
「すみません、私が無理を言ったからですね」
「ち、ちがうんです・・・。あの、わたしがのんだの、すいみんやくで・・・」
目を閉じたまま、九条さんが驚く。
「くすりがきいてくると、ろれつがまわらなくなるんです。ひとりであるけますから、だいじょうぶです」
「そういうわけにはいきません。部屋まで送ります。立てますか? 掴まってください」
「あの・・・。はい、おねがいします・・・」
血液が炭酸水になったかのようにしゅわしゅわしてきた。かなり効いている証拠だ。有無を言わせぬ優しい圧に負けて、私は九条さんの手を借りて立ち上がった。九条さんが自らの腕に巻き付けるように私の手を誘導する。ふわり、漂う甘い匂いは、香水か。やたらと良い匂いだ。
「私が無理に引き留めたからでしょう。謝らないでくださいね。部屋はどこですか?」
「にかいの、かいだんをあがってひだりての、ふたつめです・・・」
「行きましょう。ゆっくり」
盲人の九条さんに介助されるなんて、なんて申し訳ない。
「かいだん、あります」
「ありがとうございます」
ゆっくり、階段を登る。
「ここですか?」
「はい」
九条さんがドアノブを探し、握った。部屋の中に入り、ベッドまで連れて行ってもらってしまった。
「すみません、くじょうさん・・・」
「紫月と呼んでください」
「えっ」
「それから、謝るのではなく、感謝するんですよ」
「すみま、あっ・・・」
「ふふっ・・・」
信じられない。睡眠薬で寝ぼけているのか。
九条さんは、紫月さんは、なにをしているんだ。
私の頬を両手で包んで、唇を重ねている。
初めてのキスは、高い酒の味がした。
「おやすみなさい、文香さん」
「お、おやすみなさい・・・」
私は間抜けな返事をして、ゆっくりと部屋を出ていく紫月さんの背中を見送った。
翌朝。
執事に呼ばれて食堂へ朝食を摂りに行った私は、気が気でなかった。紫月さんは何事もなかったかのように『おはようございます』と声をかけてくる。私は震える声で『おはようございます』と返すしかなかった。
「おはよう文香ちゃん! 全員揃ったわね。あとで話があるの。ちょっぴり不謹慎な面白いお話よ。楽しみにしていてね」
「は、はい」
紫月さんがパンを噛むたび、グラスに唇をつけるたび、私の心臓が煩くなる。黙れ。黙ってしまえ。どうして昨日、あんなこと。
「・・・さて、ちょっぴり不謹慎な面白いお話、叔父様も同席してくださる?」
「いいよ」
「あのね、この辺りの町に出るのよ、『平成の切り裂きジャック』が・・・」
「切り裂きジャックっていうと、アレかい?? 1888年に、イギリス、ロンドンで猟奇的な殺人を繰り返した、正体不明の連続殺人犯かい??」
「そうです。二十年くらい前から、出るんですよ・・・。被害者は皆、女性。胸部から下腹部まで切り裂かれて、内臓を切り取られた状態で発見されているんです・・・」
「ちょっと! そんな危険な場所に連れてこないでよ!」
「あははっ、ごめんね久遠寺さん。でも大丈夫よ。だって被害者は皆、罪人なんだもの」
「ざ、罪人?」
「そう。被害者の口内に『ただし罪人は皆、死ぬ』って書いた紙があるんですって。ねえ、竹内部長。インスピレーションが沸きませんか?」
「沸くねえ!!」
紫月さんが呆れたように溜息を吐く。
「危ないことに首を突っ込んではいけないよ」
「わかってるよ、叔父様。でも私たちは文芸サークルで、これは強化合宿なの。掌編でも短編でもいいから、一本くらいなにか書かないと、ね?」
「まったく・・・。文香さんはどんな小説を書くんですか?」
「えっ! わ、私ですか?」
いきなり話を振られたので、しかも『文香さん』と昨夜のことを思い出さざるを得ない呼び方をされたので、挙動不審になってしまった。
「文香ちゃんは凄いよ。文字数を指定されたらその中できっちりと書いてくるの。どんなテーマでもね。そう簡単にできることじゃないよ」
「へえ・・・」
「えーっ! でも水無瀬さんが賞を取ったとか聞いたことありませんけどぉ、所詮その程度ですよねぇ?」
久遠寺がにやにやしながら言う。
「賞も取れないのに必死に書いてなぁにが面白いんですかぁ? 結果が出ないならいくら書いても無駄だと思うんですけどぉ?」
「久遠寺さん、貴方も文芸部員なんですよね?」
「私はぁ、最近目覚めたばかりなのでぇ。小説も芥川賞を受賞した作品しか読みませんしぃ」
紫月さんが私の方に顔を向けた。私は目を逸らしてしまった。紫月さんは盲目なのに、何故だか、熱のある瞳で見られている気がして。そしてその瞬間、気付いた。私は混乱していて、周りの心の声が聞き取りづらくなっていた。食事を終えたあと、部員で集まり、雑談を楽しんだり、作品について真剣に討論したり、より良い作品作りのために意見を交換する。あっという間に時間が過ぎて、昼食。そのあとは勉強をして、夕食。
「文香さん、このあと、少し話をしませんか?」
「あ、は、はい・・・」
「なあに? 叔父様、文香ちゃんがお気に入り?」
「まあね」
「もうっ、あんまり夜遅くまで引き留めちゃ駄目だからね?」
「気を付けるよ」
久遠寺はつまらなさそうにしていた。なにかを察したのか、竹内と泉さんは逃げるように行ってしまった。私は紫月さんと向かい合ってキッチンのソファーに座る。執事がテーブルにジュースとフルーツを配膳して、お辞儀をして去っていった。
「あ、あの・・・」
「見えもしないのに一目惚れをしたと言ったら、呆れますか?」
言葉が出ないが、不思議と嫌悪感は沸かなかった。
「貴方の声と話し方が、耳に気持ち良い。ずっと聞いていたいくらいだ。酒の勢いだなんて言い訳はしません。自分の意思で貴方にキスをしました」
「・・・変な人、ですね」
紫月さんにダイヴしてみる。
(拒絶しないのか? 何度話しても、やはり可愛い・・・)
可愛いだなんて思われていたのか。
「・・・私も、変な人、かもね」
「文香さん、も?」
「私、呆れるほど、紫月さんのことを知りませんよ」
「なら、知ってほしいな」
「・・・独身ですか?」
「独身だよ」
「一人が寂しいから、金に物を言わせて色んな女を口説いてるとかじゃないですよね?」
「正直な子だね。いいね」
紫月さんが笑う。
「君の顔に触りたい」
「化粧が崩れるんで駄目です」
「嘘が上手だね。化粧品の匂いがしない。汗の匂いもね。もうお風呂に入ったんだろう?」
「・・・負けました」
「ふふっ・・・」
私は立ち上がり、紫月さんの隣に座る。
「触っても?」
「どうぞ」
大きくて骨ばった神経質そうな手が、私の肩に触れる。
「・・・やっぱり、線は細いな」
するすると、肩から首を伝って頬まで上がってくる。僅かに震える指先で、私の目元を、鼻を、唇をなぞる。
「キツい顔立ちをしてるね」
「褒め言葉です」
「睫毛が柔らかい」
「そう、ですか?」
「可愛い人・・・」
「・・・紫月さんの話、聞きたいです」
「そうだったね。仕事は翻訳家だ。目明きの時は医者をしていたので、その関係で色々とね。でもそれだけでは食べていけない。祖父の遺産を食い潰して生きている、寂しい男だよ」
どうして私は昨日会ったばかりの男に、こんなにも惹かれているのだろう。
「結婚していたこともあるんだ。妻を愛していたよ」
意外な言葉に、息を飲む。
「勝気で可愛い人だった。でも身体が弱くてね。出産に耐え切れず、子供も生まれてこられなかった。私はそのことで心を病んで、気が付いたら目が見えなくなっていたよ」
なんともない、とでも言いたいように、紫月さんは笑う。
「年は五十二になる。趣味はラジオを聞くこと。でも、一方的に話をされるより、こうやって言葉でやりとりをできる会話の方が好きだ。執事とはなにも話さないのでね。だから君達の強化合宿の話を喜んで受け入れたというわけだよ」
「・・・あんまり、触らないで」
「あっ、ごめんね」
「私、男性経験がないんだから、刺激が強過ぎます」
ダイヴしなくてもわかる。
「・・・なに喜んでるんですか」
「い、いや、そういうわけじゃ・・・」
「悪い大人ですね。初心な子供相手になにしてるんですか」
「三十四歳差だから・・・、親子ほど年が離れているな・・・」
「というか姪と二歳差ですよ?」
「うわっ・・・」
「自分がしていることの重大さがわかりましたか?」
「文香さん、私は本気で、あっ・・・!?」
紫月さんの手を取り、太腿に乗せる。流石に胸に当てる度胸はなかった。心臓の音が聞かれてしまうのもあるから。
「ど、どこに・・・」
「太腿」
ごくり、と紫月さんが喉を鳴らす。
「紫月さん、若い女の子がお金目当てで近付いてきているとか、考えないんですか?」
「君はそういう子じゃない」
「騙される人は皆そう言うんですよ」
「仮にそういう子だとしても、構わないさ」
遠慮がちにだが、しっかりと太腿を撫でられる。
「文香さんこそ、金に物を言わせたおじさんが、若い子を騙しているとか・・・」
「貴方はそういう人じゃない」
「ふふっ、騙される子は皆そう言うんだよ」
「んっ、くすぐったい」
「こ、これ以上は駄目だよ」
するり、手が逃げていく。
「紳士ですね」
「あまり大人を揶揄うんじゃないよ」
「父親にも身体を触らせたことないんですからね?」
「ど、どうして昨日会ったばかりの私のことを・・・」
紫月さんは真っ赤になって縮こまりながら、ぽそぽそと言う。
「先手必勝で動いたのは紫月さんですよ」
「それは、その・・・」
「なんだろ、自分でもよくわかりません。そろそろ部屋に戻りますね。おやすみなさい」
「おやすみ・・・」
私は自室に戻り、不思議と満ち足りた気持ちで睡眠薬を飲んで寝た。翌日、昼食を摂ったあと、私は部屋に訪ねてきた誠さんと話をする。
「えっ? 紫月さん、女性嫌いなんですか?」
「ええ、重度のね。叔父様、背が高いし顔立ちも整っているし、教養もあるし、なによりお金があるからね。目が見えないのをいいことに『わたくしがお世話しますぅ』と言って強引に迫ってくる女が、昔は沢山居たらしいよ。それで女性不振になって、そのまま女性嫌悪になっちゃったの。身内には優しいけどね。文香ちゃんのことかなり気に入ってるみたいだけど、なにかしたの?」
「な、なにかって・・・。私、初日に部屋に荷物を置いたまま寝ちゃいまして、起きたら夜中だったんです。水を一杯頂こうとキッチンを探したら、そこで紫月さんが晩酌、あ、いや、お酒を飲んでいたので、少しお喋りをしました」
お洒落に酒を飲んでいるのに『晩酌』と言うのはおっさん臭過ぎると反省し、訂正する。
「そっかあ。叔父様、話し相手に飢えてるからなあ・・・。文香ちゃんがお喋りしてくれて嬉しかったんだろうね。ねえ、文香ちゃん。叔父様、素敵な人でしょ? 優しくしてあげてね」
「はい」
その日の夜も、私はキッチンに行ってみた。紫月さんはやはり酒を飲んでいた。
「こんばんは、紫月さん」
「こんばんは、文香さん。なにか飲むかい?」
「お願いします」
紫月さんは冷蔵庫から小さな瓶を取り出し、立派な食器棚からグラスを取り出し、琥珀色の液体を注ぐ。
本当に目が見えていないのか?
そう疑ってしまうほど、するすると動いている。グラスを置くと、紫月さんは座り直した。
「お酒を模して作った、所謂ノンアルコールだよ」
「悪い大人ですね。ありがとうございます」
梅の風味が香る、甘くてさっぱりした飲み物だ。
「美味しいです」
「それは良かった。二十歳になった君と酒を飲むのが楽しみだ」
「気が早いですね」
「君こそ、私に会いたくて堪らないからここに来たんだろう?」
「色々とお話をしたくて」
「どうぞ」
「・・・なんでもいいですか?」
「なんでもいいよ」
「なんで髪を伸ばしてるんですか?」
「ああ、これね」
紫月さんは髪を一束手に持つ。五十過ぎの男の髪なのに、乙女の髪のようにオレンジ色の灯りを反射していた。
「触手のようなものだよ。風向きがわかる。それとね、目が見えない状態で首筋に刃物が行き来するのが怖いんだ。だから腰まで伸ばして自分で切っているんだよ」
「それで毛先が不揃いなんですね」
「恥ずかしい一面を知られてしまったな」
「切りましょうか? 毛先」
「いいのかい?」
「母と二人で切り合いっこしてたので、腕は確かですよ」
「今度お願いしようかな」
「わかりました」
「君の髪を触りたい」
「髪の毛まだ乾いてないんで駄目です」
「・・・これは本当だな。湿った匂いがする」
「鼻が利くんですね」
「耳もある程度ね。鼻の方がよく機能してる」
「・・・指先や唇も、ですか?」
紫月さんはにんまりと笑った。
「君は今、魔法にかかっているんだろうね」
妙なことを言う。
「一度しかない大学生活、初めての夏季休暇。仲間と共に訪れた不思議な場所で出会った、変わった男。たった一週間のできごとだ。短いからこそ、有限だからこそ、尊く感じる。元の生活に忘れれば私のことなんて忘れるだろう。一方的に好意を寄せて、君に悪いことを・・・」
なんだこいつ。急になにを言っているんだ。
一人で暴走して一人で無かったことにしやがって。
私は立ち上がり、紫月さんの横に座る。
「文香さん?」
後ろ髪に手を回し、強引に唇をくっつける。
「なっ・・・!」
「別に構いませんけどね、お酒の勢いだった、気の迷いだった、お遊びだったって言われても。でもちょっと、いやかなり、傷付いたかも」
「そ、そうじゃない!」
ダイヴしなくても強い気持ちが雪崩れ込んでくる。
(なんて可愛いことを・・・。駄目だ、自制しろ! 未来ある若者に私は・・・。こんなの初めてだ。まるで溺れているみたいだ・・・)
「溺れさせてあげましょうか」
紫月さんは、酷く困惑した。私は初めて、自分の力を悪用した。
「だ、大学を卒業するまで、待ちます!」
私の肩を掴み、がばっと遠ざける。
(自制しろ、俺! 自制しろ、俺!)
おや、意外。『私』は余所行きらしい。
「甘ったるい雰囲気吹き飛ばしてあげますよ。小説のネタの取材にも来たんです。2007年の、平成の切り裂きジャックのことを教えてください」
「危ないことに首を突っ込んじゃいけないよ」
「紫月さん以外には取材しません」
「・・・仕方ないな」
紫月さんは小さな溜息を吐いた。
「誠が言っていた通り、女性だけを狙う猟奇殺人鬼だ。1888年の犯人と違うのは、女性の年齢と職業を選ばないことだ。2007年の切り裂きジャックの方が悪質だよ。犯行は必ず夜に行われている。暴行した痕跡は無く、遺体から推測するに医学に精通した者だろうと、私も容疑者の一人として警察に疑われたことがあるよ」
「そんなめちゃくちゃな・・・」
「だろう? 全盲であることから容疑者からは外されたが、腹立たしいのに違いはない。被害者は年に一人は必ず。最多は確か八人だったかな。それが二十年も続いている。テレビで大々的に報道されてもおかしくない事件なのに、なにが絡んでいるのか、箝口令でも敷かれているのか、事件のことを知る人間は被害が出ている港町の住民だけ。犯人は未だに捕まっていないし、なにが目的なのかすらわからないんだよ」
「被害者に接点や共通点は無いんですか?」
「無いみたいだね。『ただし罪人は皆、死ぬ』というメッセージの『罪人』がなんの罪を犯したのかもわからない。だから文香さん、絶対に、夜は屋敷の外に出ちゃいけないよ」
「はい、わかりました」
ほう、と紫月さんは安堵の息を吐いた。
「しかし平成の切り裂きジャックは、切り取った内臓はなにに使い、どう処理したんでしょうか?」
「思い付く理由は幾つかあるが・・・」
「教えてください」
「誰かに売ったか、コレクションとして飾っているか、調理して食べたか」
「うわ、なんにせよ碌な話じゃないですね」
「私が知っている情報はこれで全てだよ」
「ありがとうございました」
「お礼が欲しいな」
「紫月さんがあたふたするから甘い雰囲気吹き飛ばしたのに?」
「あ、あたふたはしてない。君ともっと話がしたいだけだよ」
「じゃあ、身長何cmですか?」
「198cm」
「靴のサイズは?」
「30ぴったり」
「大きいですね・・・」
「私だけ突然変異でもしたかのように大きいんだよ。そのせいで母は色々言われたみたいだ」
「私の母もそうです。不義の子じゃないかって」
「君と私は似ているね」
「うーん、どうかなあ」
「ふふっ、歳を重ねないと、わからないかもね」
「似ているって言うなら、人生相談に乗ってくださいよ」
「いいよ」
「自分を演じることに、疲れる時があるんです」
真剣な悩みだ。
「私、馬鹿にされるのが大嫌いなんです。だから『格好良い』って言われるような服装をしてる。威嚇してるんです。そういう意味では高過ぎる背に感謝してます。皆『格好良い』って言ってくれるから。でも本当は、大好きな水色の、可愛いのが着たい。女の子らしいことしたいんです」
紫月さんは黙って聞いている。
「でも、『似合わない』って言う人は絶対に居る」
小学校に転校して間もない頃、可愛い服を着て登校したら久遠寺にひたすら『似合わない』と馬鹿にされた。私はそれ以来あいつが嫌いだ。
「好きな気持ちを否定されたくないから、怯えて威嚇してるんです。背が高くて格好良い『水無瀬文香』って女を演じてる。それが嫌だってわけじゃないんですけど、たまに疲れちゃうんですよね。威嚇が通じない相手と接すると凄く疲れちゃう。紫月さんに『可愛い』って言われて、なんだか、その、人生相談っていうより愚痴になっちゃった。ごめんなさい」
紫月さんは首を横に振り、笑った。
「水色が好きなんだ」
「そう。淡い水色が好き。白いレースも。似合わないのにね」
「ふふっ、見えないよ」
「自虐が過ぎますよ」
「少しだけ、身体を触っていいかな?」
「えっ、いいです、けど・・・」
「採寸だよ。採寸」
「あ、さ、採寸・・・。いいですよ」
私は紫月さんの手を取り、ドキドキと血が波打つ胸に当てた。手はするすると、私の身体の上を、ゆっくりと滑っていった。
「覚えたよ」
「なにか、プレゼントしてくれたり?」
「楽しみにしていてね」
「はい」
「さ、もう寝なさい」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
私は自室に戻り、睡眠薬を飲んで寝た。
幼い頃の夢を見た。
酒瓶を持って暴れる父。
頭を殴られて、そこで目が覚めた。
「・・・はあ。嫌な夢」
まるで『幸せになることを許さないぞ』というような、父の、あの気持ちの悪い目。
「あほらし」
朝の準備を整えて、食堂に向かった。
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