3.蜜月とヒント

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3.蜜月とヒント

わけがわからない。『部屋に来い』と言ったのは藤野さんだ。 「あんたなんて・・・あんたなんて・・・ッ!! 切り裂きジャックに殺されちゃえばいいんだッ!!」 死を望むほど、いや、無残に殺されるのを願うほど、藤野さんは私のことを嫌っている。嫌われるようなことをした心当たりは、紫月さんの恋人であること、か。 「藤野さん、私・・・」 「あんたはなんにもしていない!! なんにもしていないからムカつくのよ!!」 はっ、と藤野さんが口元を両手でおさえた。視線は私の背後、遥か上。私は恐る恐る振り返る。紫月さんが立っていた。藤野さんが私を見るよりも冷たい目で、紫月さんは藤野さんを見下ろしている。 「あ、あ、あの・・・、だ、旦那様、私は、その・・・」 紫月さんは私の肩を掴んでドアの前から遠ざけると、信じられないことをした。片手で藤野さんを思いっきり押したのだ。どたん、と藤野さんが倒れ込む音。それと同時にドアを閉め、ポケットから鍵を取り出すと外側から鍵をかけた。 「紫月さん、なにを・・・」 「俺は屋敷の主だからね。鍵を持っていてもなんら不思議ではないだろう?」 どうして鍵を持っているのか。どうして鍵を閉めたのか。聞きたい答えの半分は帰ってきた。 「文香さん」 紫月さんの瞳は、琥珀のように色素が薄い。 「こんな夜中に出かけたら、切り裂きジャックに襲われるよ」 初めて紫月さんの瞳を見た夜に聞いた台詞を、にやりと笑って言う。 「紫月さん・・・。まさか、目が、見えているんですか・・・?」 少し骨ばった長い指が、美しい蜘蛛のように紫月さんの横顔を這う。なにかを考えている。妙に色っぽいその仕草に魅入られ、私は逃げようという気が完全に失せた。 「回りくどいことをしたよ」 ダイヴできない。したくない。 本当のことを知るのが、怖くなった。 「・・・逃げないんだね?」 両の二の腕を掴まれて、顔を覗き込まれる。 紫月さんは捕食者の目をしていた。 私は、捕食されたい、と思った。 薄く笑った顔が、甘い香りと共に離れていく。 「おやすみ、俺の文香さん」 紫月さんが去っていく。私はその場にへたり込み、心臓がある位置のシャツを掴んだ。恐怖、謎、そして色香にあてられて、呼吸が整わない。かちゃ、と小さな物音に反応して、私は竦み上がった。藤野さんがドアを開けて、そっと、外の様子を伺いながら出てきた。藤野さんは泣いていた。 『こっちに来て』 そう書いた紙を私に見せる。私は黙って頷き、藤野さんの部屋に入った。 『ごめんなさい』 藤野さんが紙に付け加える。 『明日、全て話します。廊下を掃除する振りをして、貴方の部屋のドアの隙間から手紙を届けます』 私は頷いた。 『演技をして』 再び頷く。 「水無瀬様、申し訳ありませんでした・・・」 「いえ、怒っていませんから」 これは本心だ。 「本当に、申し訳ありません」 「藤野さん、泣かないでください。私は部屋に戻ります。おやすみなさい」 「はい。おやすみなさい」 私は部屋に戻った。睡眠薬を飲める時間はとっくに過ぎている。悶々としながら朝を迎えた。 「おはよう、文香さん」 紫月さんの目蓋は硬く閉じられている。 ・・・ように見える。 「おはようございます」 朝食の席、藤野さんは震えている、 「藤野さん、具合が悪いのかい?」 紫月さんが問う。 「いえ、平気です」 「無理はしないように」 「はい」 あの様子じゃ食事の味はしていないだろう。朝食後は勉強をし、昼食を摂り、趣味の執筆を少しだけして、昼過ぎ。待ち侘びていた手紙が届いた。 『水無瀬様、昨夜のことをお許しください。私、貴方に紫月様を盗られたくなかったんです。紫月様は二重人格です。昼は理知的で穏やかな旦那様。夜は享楽的で凶暴な紫月様になるんです。紫月様は毎夜、私の部屋に来て、私を抱きます。だから昨夜も私を抱くと思った。貴方にその光景を見せ付けて、貴方に紫月様から離れてほしかったんです。でも、紫月様は貴方を選んだ。私はそう長くは生きられないでしょう。紫月様は長年町を騒がせている『切り裂きジャック』と繋がりがあるようです。紫月様自身がそう仰っていましたから』 私は唇を噛む。続きを読む。 『それと、紫月様の目についてです。旦那様は盲目ですが、紫月様は目が見えています。以前、このお屋敷で働いていたメイド長の幸恵さんのことを覚えていますか? 幸恵さんが旦那様に冷たい態度を取り、嫌がらせをしていたのは、紫月様の攻撃性を自らに向かせるためです。そうやって幸恵さんは私を守っていてくれていたのです。嫌がらせにはもう一つ、目的がありました。旦那様を心身ともに弱らせ、物にぶつかって運良く事故死でもしてくれれば、と、幸恵さんが切り裂きジャックに殺される数日前に紫月様のことを私に教えてくれました』 だから藤野さんは『目明きの』紫月さんのことを知っていたのか。 『お願いがあります。私が逃げるまでの間、私を守ってください。この島は電波が悪く、電話がなかなか通じません。唯一の働き手である私が逃げ出せば、旦那様はお仕事も生活もとても困るでしょう。既に旦那様に許可を取り、一週間以内に新しいメイドを雇うことが決まっています。私がメイドに仕事を教える間、私を守ってください。我儘なお願いをしてごめんなさい。私は、紫月様を愛しています。だから警察には言いません。水無瀬様、私を守るために、夜は旦那様の部屋で寝るか、私の部屋に『遊びに来た』という名目で寝に来てください。貴方が居れば、紫月様も乱暴な手段には出ないはずです。この手紙は燃やして処分してください。消し炭にもじゅうぶん注意してください。よろしくお願いします』 私は何度も何度も手紙を読み返した。紫月さんが、二重人格。多重人格障害。解離性同一障害。そして恐らく、解離性健忘。感情や記憶を切り離して、それを思い出させなくすることで、精神的な苦痛を回避しようとする障害。切り離した感情や記憶が成長して、別の人格として表に現れることもある。 紫月さんの目が見えなくなったのは妻と娘が死んでしまったのがきっかけ。紫月さんは二人の死を受け入れられず、一族からの圧に耐え切れず、目を閉ざして、心を閉ざして、苦痛から逃げようとした。その結果が、新たな人格。その新たな人格に責任を押し付けてしまうほどに、紫月さんは苦痛を感じていたのだ。 『こんな夜中に出かけたら、切り裂きジャックに襲われるよ』 あれは、警告だったのだ。 「・・・は、ふふっ」 私は優越感を感じていた。 「ふふっ、ははっ、あはっ、あははははっ!」 藤野さんの愛しの紫月さんは、私を選んだ。 なら私も、紫月さんを選びたい。 「成程ねえ・・・」 紫月さんにダイヴしてもなにも情報が得られなかった謎が解けた。別の人格に、別の人間にダイヴしても、そりゃあ欲しい情報は得られない。私は準備をして紫月さんの部屋に向かった。 「文香さん、どうしたんだい?」 「お誘いを」 「お誘い?」 「キスしてください」 紫月さんは戸惑いながらもキスをする。私は誘うように、そっと、舌で唇を撫でた。 「ふ、文香さん、駄目だよ・・・」 「二十歳まで駄目、なんですよね? 紫月さん、あのね、挿入しなくても恋人らしく肌を重ねることはできますよ」 「こら! 駄目だって!」 そう言いながらも、抵抗は弱々しい。 そのあと。 紫月さんはシャワーを浴びている。私は寝室に入り、枕の下に藤野さんからの手紙を忍ばせた。そして何食わぬ顔で部屋を出た。夕食時の紫月さんの違和感には藤野さんも気付いたらしい。紫月さんは私を意識しているのだろう。顔を赤くして、食事を摂るのに時間がかかっている。私はちょっと意地悪でダイヴしてみる。 (き、気まずい・・・。清楚で可憐な文香さんがあんなこと・・・。憧れの文香さんとあんなことを・・・。れ、冷静に、あとで謝って、それから・・・) 『憧れの文香さん』だなんて、笑ってしまった。紫月さんはイカれてる。私のことを清楚で可憐だと思っているのだから。『清楚』という言葉と『可憐』という言葉を辞書で引いて目の前で朗読してあげた方がいいかもしれない。 「ごちそうさまでした。勉強があるので部屋に戻りますね」 食器はそのまま、と言われているので、私はなにもせず自室に戻った。今日の夜はキッチンに行かない。焦れたあの人は私に会いに来るはずだ。勉強をして過ごし、風呂に入って寝る準備を整え、睡眠薬は飲まずにベッドに寝転がる。初めての恋人と初めての情事に興奮したのもあって、目蓋を閉じていても神経が研ぎ澄まされている。 かちり。 小さな音がした。紫月さんが、鍵をしっかりとかけたはずの私の部屋に入ってきた。目蓋は開かれていて、ゆったりとした上品な笑みを浮かべている。ベッドから起き上がろうとした私の肩を押し、覆い被さる。紫月さんの長い髪がカーテンのように辺りを遮った。 「素敵な手紙をありがとう」 紫月さんは歯を、いや、牙を見せて笑う。 「本当は君にはなにも知られたくなかったんだけどね。さて、ご褒美が欲しいのかな? それとも、従順さを示して命乞いをしたいのかな?」 私は首を横に振った。 「紫月さんが私を選んでくれたから、私も紫月さんを選んだだけです」 にやりと笑いながら、それでいて探るような視線で、紫月さんが私を見る。怖いと感じているのも事実だが、それ以上に、冷たい美貌から放たれる濃密な芳香に私は酔いしれていた。 「可愛い文香さん。あまり俺を怒らせないようにね」 長い指が私の寝巻の胸元のボタンに伸びる。 「紫月さん、一つだけ聞かせてください」 「いいよ」 「・・・平成の切り裂きジャックは、誰なんですか?」 私はダイヴする。 (・・・ふふっ) 紫月さんは静かに笑うだけで、答えは得られなかった。問われた心は必ず揺らいで、必ずヒントが得られるはずなのに、この人の心だけは読めなかった。危険な状況なのに、もっと深くへ。時間をかけてダイヴする。 (本当に可愛いな、文香さんは・・・。大学なんか辞めさせてずっとここに閉じ込めようか。足の筋を切って永遠に俺だけのものにしたいくらいだ。いや、それよりも・・・) 「文香さん、具合が悪いのかい?」 「えっ・・・」 ダイヴの影響で吐き気と頭痛が少ししているのは確かだ。 「君とは無理やりしたくない。今日はもうおやすみ」 紫月さんは外したボタンを留め直すと、私の額にキスを落として優しく微笑む。そしてそのまま、部屋を出て行ってしまった。ぱたん。ドアが閉まる音。かちり。鍵が外側からかかった音。様々な要因で私の身体が発熱する。 「平成の切り裂きジャックは、一体、誰なんや・・・?」 二十年前から未だに捕まらない猟奇殺人犯。紫月さんの姪の誠さんを、義母の幸恵さんを殺した謎の人物。紫月さんは切り裂きジャックと繋がりがあると本人が言っていた。藤野さんの話をすべて信じるのなら、の話だが。 「今日は薬飲んでも寝られへんな・・・」 夜になると豹変する紫月さん。幸恵さんに暴力を振るい、藤野さんを抱いた。恐らく実父である執事にもなにかしらの凶暴性をぶつけていたのだろう。それ以前にも、きっと、誰かと、なにかを。知りたい。危険なのはわかっている。でもどうやって探ればいいのかもうわからない。平穏な、心痛い日々が過ぎていく。新しいメイドの葉山さんが来て、彼女がせっせと働き始めた頃。私が家に帰る日が来た。 「紫月さん、春になったとはいえ今日は雨で冷えますから、暖かくして過ごしてくださいね」 「文香さんも、足元に気を付けて」 私は紫月さんの手を両手で包み、爪にキスをする。それを見ていた葉山さんが『わ!』と小さな声で言った。 「藤野さん、葉山さん、ありがとうございました」 「またお越しくださいませ、水無瀬様」 そう言った藤野さんの表情は、暗かった。 私は無事に二年生になる。 医大生としてはここからが正念場だ。 「あっ! 文香君!」 大学を辞めた竹内と再会したのは、まったくの偶然だった。 「竹内部長・・・」 「あはは! まだ『部長』と呼んでくれるんだね」 「あっ、いえ、あの・・・」 「互いに近況報告でもどうだい? そこのカフェで」 「・・・はい」 断れなかった。 「・・・ふうん。恋人同士になったの。あのおじさまと」 「・・・はい」 私は紫月さんに対する不安、いや、『平成の切り裂きジャック』に対する不安を、紫月さんの名前などは伏せ、筆記も交えて竹内に話してしまった。竹内は人が変わったように落ち着いた人になっていて、話している間、激しい違和感を覚えた。この人が、あの、子供のようにはしゃいでいた竹内なのかと疑ったくらいだ。竹内はコーヒーを音も無く啜り、私の目を真っ直ぐ見た。 「調べさせておくれよ」 「えっ? し、調べる?」 「僕ね、今はフリーターをしているんだ。その合間に小説も書いてる。だから時間が有り余っていてね。なんていうのかなあ、このまま漫然と過ごすくらいなら、一矢報いたいというか・・・」 竹内が目を伏せる。 「僕は医者にはなれなかったけど、あの大学で『竹内部長』って皆に呼ばれるのが好きだった。大好きだったんだよ。ずっとこんな時間が続けばいいなあ、なんて思ったこともあるくらいね。だから、それを壊されて、やり場のない怒りを抱えていたんだ。ずっと燻っていたんだ。君と今日ここで出会えたのは運命だと思うんだ。僕は医者でも探偵でも小説家でもない。だから僕が一人藻掻いたところでなんにもならないかもしれない。でも、僕の気が済むまで、やりたいようにやれって、目に見えないなにかが僕にそう言ってるんだよ」 竹内が目を上げ、私を見る。私は唇を噛んでから口を開いた。 「でも、竹内部長。危険です」 「文香君、君も危険だよ」 「・・・そう、ですね」 「協力してくれるかい?」 私は頷いた。 「じゃあ、文香君はおじさまに鼻薬を嗅がせておくれ」 「鼻薬・・・」 「夏季休暇に、またあの屋敷に行くんだろう?」 「はい」 「君は抑止力になり得る。恋人として、おじさまと共に過ごしてくれるだけでいい。僕のことは気にしないで、楽しんでくれたまえ」 竹内はにっこりと笑った。その日はそれで別れた。後日、私は紫月さんに何度か手紙を送り、夏季休暇に屋敷に行く日取りを伝える。それを竹内にも伝えた。勉強で文字通り忙殺される日々が過ぎ、八月になる。私は九条家への船を出す港へ向かった。 「やっほー、ナナフシ女」 「うわっ! 久遠寺! なんでここに居んねん!」 港には大きな荷物を持った久遠寺が居た。 「あんたと竹内がカフェに入っていくところ、偶然見かけちゃってさー、あんな冴えない男とデートしてるのかなーと思って、私もカフェに入って後ろの席に座ってたんだよねー。気付かないなんてあんた達馬鹿でしょ。『恋人のおじさん』がどうのこうのーって言ってたから、ぜーったい九条のおっさんのことだと思って、夏季休暇中は毎日ここで待ってたの! さ、早く私も連れてって?」 「はあ!? なんでそうなるねん!!」 「私ねー? あんたのせいで友達が居なくなったの! パパとママにも『九条家であったことをペラペラ喋り過ぎだ!』ってめちゃくちゃ怒られて、『そんな子に育てった覚えはありません』だの『もう二度と甘やかさない』だの勝手なこと言われて家を追い出されたのよ! 私が今、どんな生活してるか知ってる? 知らないでしょ! 九条のおっさんにも文句を言ってやるんだから!」 船に乗る前なので気乗りしないが、ダイヴする。 (なんでもいいから船に乗って九条のおっさんに会わなきゃ! これは千載一遇のチャンス! 切り裂きジャックの謎でもなんでもいい! 弱みを握って九条のおっさんから金を巻き上げなきゃ! もうキャバをクビになるのも三件目であとは風俗しかない! そんなの絶対に嫌! 嫌! 嫌! 嫌! もう家賃も払えなくてヤバいのに新作のバッグ買っちゃったし!) 久遠寺椿は、本当に愚かな生き物だ。 「・・・ええで」 「やったー! 言質取ったー!」 久遠寺のことだ。今ここで私が断っても、強引な手段で紫月さんに会いに来るに違いない。いつ迷惑をかけられるのかとハラハラした日々を過ごすより、監視下に置いて、紫月さんに許してもらえなくても私が誠心誠意謝るしかない。 「久遠寺、一つだけ言いたいことが・・・」 「あーはいはいはい、カフェで竹内と話してたことは秘密ね? 秘密にしておいてあげるから連れていってね? じゃないと泳いででも九条のおっさんに会いに行って全部バラしちゃうからね? 勘違いしないでよね? あんたより私の方が偉いんだからね?」 「はあ・・・。わかったわかった」 船が来る。 「博文さん、お久しぶりです」 船頭の博文さんにお辞儀をする。 「文香様、お久しぶりです」 「あの、申し訳ありません。この人も船に乗せてあげてください」 「ええっ? 貴方は確か、久遠寺さん、でしたよね?」 「そうでーす!」 「勘弁してくださいよ文香様! 僕が旦那様に叱られちゃいます!」 「私が代わりにお叱りを受けます。誠心誠意謝りますから、どうかお願いします」 「えー・・・。わかりました。僕が旦那様に叱られないよう、ちゃんと言ってくださいね! さあ、お二人共、船にどうぞ。落ちないよう気を付けてくださいね」 船に乗る。道中煩く話しかけてくる久遠寺は黙殺した。島に着くと、葉山さんが迎えに来てくれた。 「お待ちしておりました、文香様。あら? そちらの方は?」 「久遠寺さんです。すみません、私があとで紫月さんに話しておきますから、彼女も案内してあげてください」 「そうですか、わかりました。では、ご案内します」 「葉山さん、藤野さんは?」 「彼女は・・・。今はもう居ません。メイドは私だけです」 藤野さんは、もう居ない。 「旦那様が文香様に会う日を指折り数えて待っていましたよ。このところ上機嫌なんです、旦那様」 葉山さんはお喋り好きらしい。紫月さんの様子を色々と話してくれた。特に変わった様子はないようだ。屋敷に着くと、紫月さんは玄関で待っていた。 「おかえり」 紫月さんはそう言った。 「ただいま戻りました」 私がそう返すと、くすぐったく笑う。 「紫月さん、実は去年の夏季休暇で一緒だった久遠寺が無理に船に乗り込んできてしまいまして・・・」 「こんにちはー! お久しぶりです、九条のおじさま!」 紫月さんは無言で、少し首を傾げた。怒られるだろうか。 「・・・ああ、久遠寺さんね。無理やり船に? まあ、いいよ」 「船頭の博文さんは怒らないであげてください。私が無理に頼んで博文さんは断れなかったんです」 「構わないよ。荷物を部屋に。文香さんは私の部屋へ」 「はい」 「文香様、久遠寺様、お荷物をお預かりします」 「ねーねー、メイドさん。私、お腹空いてるんだけどー」 久遠寺の煩い声にうんざりしながら私は紫月さんの部屋に行く。手でソファーに座るよう促され、その通りにした。紫月さんは冷蔵庫からメロンの絵が描かれた瓶とグラスを取り出し、冷えたグラスに瓶の中身を注いだ。 「どうぞ」 「ありがとうございます。あの、久遠寺のこと・・・」 「構わないと言っただろう? 何度も謝らない」 「はい・・・。ジュース、いただきます」 少し飲んで、私は目を見開いた。 「これすっごく美味しい!」 紫月さんが少年のように笑う。 「それはよかった。後ろ髪を引き千切る勢いでここに留めておきたくて、君の好きそうなものを色々と用意したよ」 「愛に重力を感じます」 「重たい男かな?」 「嬉しい重さです」 私は再びメロンジュースを飲んだ。甘いのにさっぱりしていて、ミルクの風味も感じる。紫月さんに好みを熟知されているのが、嬉しい。 「来たばかりなのに帰りたくなくなりました」 「ふふっ・・・」 「もう八月なんですね。九月から気が重い・・・」 「九月?」 「解剖実習」 「ああ・・・」 紫月さんが人差し指の腹で唇を撫でる。 「久遠寺の能天気さが羨ましいです。あ、ごめんなさい、こんな話をして・・・」 「いいんだよ。話してごらん」 「・・・本当に、久遠寺が羨ましいです」 「羨ましい。彼女が?」 「最低な理由ですよ。聞いたら私に幻滅します」 紫月さんは沈黙で先を促す。 「同情してしまうんです。この人、なんにもわからないんだなって。こんなふうになるまでに沢山つらいことがあっただろうに、それをわからないままで生きてこられたのかなって・・・」 「それは一種の優越感でもあるね」 「そうです。私の方がつらかったのにっていう、わけわかんない優越感。不幸の自慢。私は久遠寺のことをなにも知らないのに・・・」 「文香さん、一皮剥いでしまえば、人間なんて皆同じだよ」 紫月さんが手の平で、指で、自らの顔を撫でる。妙に色っぽい仕草だ。手はそのまま首筋を伝い、左の胸へと滑る。 「君も、私も・・・」 昼の部屋に、夜の月が浮かんでいる。 「俺もね」 紫月さんは心臓から手を離した。 「し、紫月さん、あの・・・」 「うん?」 声は酷く優しい。私は目を閉じ、深呼吸をした。 「船頭の博文さんのこと、怒らないであげてくださいね」 「わかっているよ。さあ、隣においで」 「はい」 紫月さんの隣に座ると、キスをされてソファーに押し倒された。 「んんっ」 「んふふ」 強烈に甘い香りがする。紫月さんの香り。なにも考えられなくなる。 「さて、クイズです」 紫月さんがにやりと笑う。 「部屋の鍵をかけたかどうか」 答えさせる気は無いらしい。再びキスされる。 「久遠寺に見られでもしたら・・・」 「それがどうした? 私は恋人とキスをしているだけだよ」 首筋に当たる息が、熱い。 「あ、あっ、ま、まさか、このまま、ここで・・・」 「キスだけだよ」 「どうして最後までしてくれないんですかっ」 「我儘な子だね。大人になってからだよ」 「うー・・・」 「なんて可愛いんだ、文香さん・・・」 ふと、気付いた。 夜の紫月さんは昼の紫月さんを見張っている? 間違いない。 主人格は昼の紫月さんだ。副人格が夜の紫月さん。主人格は現実からの苦痛を回避するために副人格に逃避する。だから副人格の夜の紫月さんは享楽的で凶暴なのかもしれない。今のこの行動も、光景も、見張っているはず。さっきの言葉は、その証明になるだろう。そして、昼の紫月さんはそのことに気付いていない。 治療法は、人格の統合か、それぞれの人格の平穏か。 紫月さんが苦しんでいるのなら、私はその苦しみを和らげたい。けれど、未熟な私が感情だけで動いていいことではない。私はどうすればいいのだろう。寝ても覚めても紫月さんのことばかりを考えている。勉強している最中だって頭の隅では紫月さんのことを考えている。 「紫月さん・・・当たってますけど・・・」 「ん・・・。私のことはいいよ」 「私がしたいって言ってもですか?」 紫月さんは唇を笑みの形に、歪めた。 「文香君」 「竹内部長」 勉強の息抜きに港町で買い物をするという名目で、喫茶店で竹内と会う。 「調べてきたよ。平成の切り裂きジャックについて」 竹内が音も無くコーヒーを飲んで、続ける。 「最初の犠牲者は二十三年前。それ以降は毎年被害者が出ている。被害者の共通点は『夜道を一人で歩いていた女性』ということだけ。年齢は最小で十八歳、最長で八十八歳。被害者は胸の谷間から臍の下まで鋭利な刃物で切り裂かれ、臓器が全て取り除かれている。医学に精通した者の犯行で間違いない。十八年前に指紋が一つ、十二年前に警察犬がにおいに反応したが、解決には繋がらなかった。具体的な被害者の数は不明。行方不明者も数に入れているみたいだ。でも、五十は確実だね」 「捕まったら死刑確定ですね・・・」 「港町では毎日警察がパトロールをしているし、自治体も見回りをしている。それなのに捕まらない。警察内部に犯人が居るのでは、という噂まであるみたいだ」 「大きなニュースになってもおかしくないのに、箝口令でも敷かれているんですかね・・・」 「複雑な事情があるのかな。警察の面子のためだとしたら笑っちゃうけどね」 「・・・一体、どんな繋がりがあるんだろう」 「文香君」 竹内が少し、間を置く。 「閉じ込められているのか、閉じ籠っているのか、どちらだと思う?」 私は返答できなかった。 「答えは『どちらも』だよ。若い頃は、品がありながらも激情に駆られやすい性格だったそうだ。正義感が強過ぎた、とも言われていた。跡継ぎの座を譲るかわりに医者になることを許され、勉学に励み、無事に医者になった年に見合いで紹介された女性を気に入り、結婚。三年後に妻は妊娠したが、難産により母子共々死んでしまった。産婦人科医であった彼は己の無力を呪い、酷く落ち込んで、閉ざした。憔悴して人が変わったように大人しくなったかと思えば、思い出したように激しく暴れ、手が付けられなくなってしまった。だから、跡継ぎを残すための『スペア』として閉じ込めて監視し、自らも誰も傷付けないために閉じ籠っているんだ」 私は妙な違和感を覚えた。 「そんな詳しい話、一体誰に?」 「同じ苗字の家があってさ。見張りのためにこの町に住んでいるらしい。こう言っちゃなんだけど普通の家だったよ」 「よく話してくれましたね」 「まあ、多少包んだからね」 驚いた。そんなことをしただなんて。 「その家、どこにあるんですか?」 「君には教えない。でも家族構成は教えてあげる。君ならわかるだろうから。父の正義、母の雪子、息子の博文の三人だよ」 博文。 船頭の名前だ。 「忠告されたよ。『探偵の真似事は程々に』ってね」 「・・・あの人は『恥部』ですよね。そんなに簡単に情報を貰えるとは思えない」 「僕もそう思う。敢えて情報を提供しているのかもね?」 「誰が敵か味方かわからない・・・。目障りに思っている誰かがそうしているのか、敢えて自身から情報を提供しているのか・・・」 「情報が増えるとわからないことも増えるね。さあ、今日はもう解散しよう。またね」 「はい。また」 私は屋敷に戻り、勉強して過ごす。夜更け、キッチンに紫月さんは居なかった。自室に行ってみる。ノックしても返答は無い。そっとドアノブを握ると、ゆっくりとドアが開いた。鍵はかかっていないのか、かけていないのか。寝室に続くドアから薄暗い闇にオレンジ色の灯りが漏れている。 「こんばんは」 紫月さんはベッドに仰向けになって本を読んでいた。 「び、吃驚した・・・」 「待ってたよ」 「もう隠さないんですね」 「隠す必要もないからね」 本を枕元に置き、起き上がる。 「ご奉仕してくれるかい?」 私は唇を薄く開き、息を吸う。頷き、紫月さんの足の間に跪く。 「可愛いね、文香さん・・・」 「んっ、ん・・・」 「そうそう、上手だよ。さて、文香さんの不安を取り除いてあげようかな。平成の切り裂きジャックは俺じゃないよ」 紫月さんが私の後頭部を掴み、喉奥まで無理に挿入する。 「そして私でもない。今までの人生で人を殺したのは二人だけ。妻と娘だけだ。竹内から聞いて知っているんだろう? 私が産婦人科医だったってね。妻は切迫早産で産院に運ぶ途中で死んでしまった。あの頃の私はまだ未熟だった。私が冷静になって適切な処置を取っていれば、妻も娘も死ななかった」 苛ついた声と私の呻きがぶつかる。 「君は俺をどうしたいんだ?」 ずるる、と喉から引き摺り出されて、思わず咳き込んだ。 「うっ・・・。げほっげほっ・・・。よ、嫁にしたいです・・・」 「は?」 今までの攻撃性が嘘のように、紫月さんは驚いた。 「わ、私、絶対に医者になりたいし、家庭に入って専業主婦とか無理なんで・・・」 「なにを言っているんだ君は」 「目が見えていようが、見えていなかろうが、どっちでもいいんですよ、紫月さんなら・・・。こんな不便な場所じゃ開業医もできないし、もう少し都会の方にですね・・・」 「は、あははっ! あははははっ! 君は本当に面白いな」 紫月さんは心底楽しそうに笑った。 「嫁いであげてもいいよ、俺の文香さん」 「紫月さん、私、薬の時間が・・・」 「なら早く。わかるね?」 私は頷いた。行為のあと、洗面台で歯を磨く。紫月さんはシャワーを浴び、私の後ろで身体を拭いていた。鏡越しに見ないように顔を背ける。紫月さんは一言も発さずに脱衣所を出て行った。寝室に戻ると、紫月さんは仰向けに寝転んで目蓋を閉じていた。ダイヴしても思考はない。寝ている。私は自室に戻った。睡眠薬を飲める時間はとっくに過ぎている。肉体的にも精神的にも疲れ果てたのか、薬がなくてもその日は眠ることができた。 翌日の昼過ぎ。私は妙な熱を発散するために紫月さんの部屋に行った。昼の紫月さんは、乙女でちょっとマゾヒスト。夜の紫月さんは、器用なサディスト。そんな感じがする。早く二十歳になりたい。早く大人になりたい。早く貪り合いたい。シャツの上から紫月さんの乳首を抓ると、紫月さんは嬌声を噛み殺そうとした。紫月さんにしがみついて背中に爪を立てれば、きっとこの人はこれ以上ないほど善がり狂ってくれるだろう。 「紫月さん、可愛い声、聞かせてください」 「んんっ、う・・・」 「気持ち良いですか?」 「文香さんも・・・」 「あっ・・・。うう・・・」 挿入をしない快楽は弱火で焦がすようなもどかしさを感じる。甘い時間はあっという間に過ぎていった。熱は少しは発散できたが、時間が経つとまた高まって来て、悩ましい。紫月さんはもうシャワーを浴びてしまったのでどうしようもない。諦めた私が部屋を出ようとドアノブを握った時だった。ソファーに座っていたはずの紫月さんが素早く立ち上がり私に近付くと、私の手ごとドアノブを掴んで、僅かに開いたドアを閉める。私は私の意思では開かなくなったドアを見つめるしかなかった。 「・・・紫月さん」 「わかるようになってきたね」 背を向けたまま話す。紫月さんはぴったりと私に身体をくっつけている。 「あの、当たってるんですけど・・・」 「二回戦」 「元気過ぎるでしょ・・・」 「若いんだから平気だろう?」 「・・・平気ですけど」 「本当に面白い子だね」 するり、と、身体を包むように手が這う。 「私だけ良い思いをするなんて不公平じゃないか」 「あうっ・・・。立てなく、なる・・・」 「ドアに凭れかかればいい。そんなことより、平成の切り裂きジャックが誰か知りたいかい? 可愛い声で鳴くたびに一つヒントをあげよう。演技をしていると判断したらお仕置きだ」 「そんな、あっ・・・」 「ヒントだ。切り裂きジャックは九条紫月ではない」 「うっ、んん・・・」 「意外と近くに居るのかもね?」 「ヒント、ですか・・・?」 「そうだよ」 私はドアに両手をつき、震える膝に言うことを聞かせようと必死になる。 「どうして私に、全部話すんで、ひあっ・・・!」 「うーん? お仕置きかな?」 「ちょ、ちが、いっ・・・!」 耳の裏を舐められて声が出てしまったのに、『お仕置き』として耳を軽く噛まれる。 「お仕置きかな」 「ちょっと、あっ! そんなところにキスマークつけないで!」 「ははっ、私には見えないよ」 「他の人には見えるでしょ!」 「本当に可愛いなあ、文香さんは・・・」 「どうして私に、そんなに・・・」 「一目惚れしたって言ったら信じるかい?」 「し、信じるけどぉ・・・」 「あはは!」 「・・・ヒント、くれないんですか?」 「ああ、そうだったね。君には決して手出ししないように命令してある。例え俺が君に拷問されていようともね」 「イカれてやがる・・・」 「違いない」 紫月さんが笑う。 「文香さん、可愛い声、聞かせてくれよ」 崩れ落ちるまでの間にわかったのは、切り裂きジャックは九条紫月ではない。意外と近くに居る。水無瀬文香には手を出さないよう命令されている。性別は男。中肉中背。年齢は四十代後半。紫月さんには逆らえないのではなく従っている。医学の知識がある。紫月さんが殺人を命令しているのではない。本人の意思で動いている。 「クイズはお終いかな?」 「も・・・立てな・・・むりぃ・・・」 「あはは! 生まれたての小鹿みたいだね」 「この、サディストが・・・」 「本当に可愛いね、文香さん」 紫月さんがズボンのベルトを外した。咥えさせるつもりらしい。 「もう顎が外れそうなのに・・・」 「すぐ済むよ。二回目だからね」 紫月さんの言う通り、たいして時間はかからなかった。搾取するような奉仕だった。私は部屋に戻り、シャワーを浴びて歯を磨き、疲れた身体をベッドに横たえる。 「紫月さんの馬鹿・・・」
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