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しかし誰も俺と同じように不満げな表情をしている者はいなかった。納得し賛同の言葉を発する者か、焦ってスマホで調べ物をし始めた者、電話を掛けている者ばかりだ。
「おい西川はどうするんだろう? 辞めるのかな?」
「阿部がいなくなったら大きな穴が開くが仕方がない」
「鈴木とは定年まで共に働きたかったな」
「おい、美奈子、離婚してくれ!」
「いやいや浮気じゃない。旧姓に戻れば辞めなくて済むから」
「宏美! 結婚してくれ! お前の籍に入る! 森山になるよ!」
「年内に山の字の名字を持つ彼女を見つけられるだろうか……」
「改名って家庭裁判所でできるんだっけ?」
そんな声で社内は騒然としていた。
誰も不平だと訴える者はいない。山の会に入ろうと必死になっているか、諦めて絶望の表情を浮かべているだけだ。
俺は信じられなかったが、その年の終わりに社長の宣言は現実となった。
社名は『三井商事』から『山の会商事』に変わった。会社を興した初代社長の三井の名を捨てたのはまだしも、それなら現社長の名前をとって仙田にすればよいものを、山の会の名称が社名にまでなった。
社員も全て山の字が入る者だけになった。結局改名も結婚も離婚もできなかった社員は辞めさせられた。その代わりに数十名が中途採用で入社した。みな山の字が入っている。新規採用の第一条件も名前だったことは言わずもがなだ。
社長の暴走はそれで終わらなかった。
翌年になると、社長は引退して副社長に後を継いだ。そして仙田前社長は市長に立候補をした。
仙田氏の公約はこうだ。
「我が市の全ての市民を山の会に入れる。山の字の入ったものだけの市をつくる」
途方もないアホだと思っていたが違った。気が違っている。こんな人間の下で何年も働いていたかと思うと背筋が寒くなった。
会社を辞めるどころか引っ越しすら考える。しかし仙田氏はもう社長ではないし、どうせ市長になぞなれるわけがないので、俺は静観を決めた。
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