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木古内和寿
その2人の姿を見掛けた人物がいた。
「ねぇ、和寿」
「なんだよ」
杉野恵美は木古内和寿が泣いて喜ぶ場面を目撃してしまった。
「私、すごいもの見ちゃった」
連日、鼓膜を騒めかせ感情を逆撫でする電気ドリルやチェーンソーの騒音。目障りな工事中のApaiserの店の中を何気なく覗いた杉野恵美は屋外庭園に寄り添う人影を見た。
(・・・・・まじ、嘘ぉぉ)
その2人はゆっくりと口付けをし、振り向いた女性は羽柴果林だった。
「ここに怒鳴り込んだ背の高い男の事、覚えてる?」
「果林を連れ出したあいつだろう!忘れるかよ!」
「灯台下暗しよ」
「トーダイモトクロスがどうだっていうんだよ」
「果林を見つけたわ」
「どっ、どこで!」
杉野恵美はフロアの真向かいに位置するApaiserを指差した。
「まっ、まさか見間違いじゃないのか」
「間違える訳ないじゃない」
「本当か!」
「それがちょっとこ綺麗になってたわよ、あの男のコレみたいよ」
小指を突き立てると前後に動かした。
「そんな訳あるかよ!」
「ほらぁ、いつも14:00になったら楽しそうにお喋りしてたじゃなぁい?あの頃から出来てたのかもしれないわよ」
「えっ!」
木古内和寿はサロンエプロンを外すと床に叩き付けた。
「どこに住んでるんだ!」
「知らなぁい」
「くそ!」
「ここで見張っていればいつかは捕まえられるんじゃない?」
「くそ!」
ただこれまで闇雲に探し回っていた事を考えれば果林の行方に目星が付いた。木古内和寿の口元は醜く歪んだ。
その頃、6階の社員食堂は騒めいていた。副社長が食券を買いその行列に並んでいる。しかも秘書としては地味な女性社員が隣に並び談笑をしているではないか。
「副社長が食堂に来るなんて珍しいな」
「ランチA定食、意外と健康重視なんだな」
宗介が副社長である事を知らない果林は不思議に思った。
「宗介さん、私たちに視線が集まっていますが」
「気にすることはありません」
「無理、無理です、ほらあの女の人なんて私のことを睨んでいます」
「なら、あの窓際の席に座りましょう」
2人で注文したランチA定食は鯖の味噌煮と里芋の煮っ転がし、ひじきの和物に豆腐となめこの味噌汁だった。宗介は綺麗に鯖の小骨を取り外している。育ちが良い証拠だ。
(んむーーーー)
焼き菓子を作る事以外は不器用な果林は鯖の小骨に四苦八苦していた。すると宗介が皿に手を伸ばし「貸してごらん」と箸を付けた。
「そっそんな!」
「気にしないでください」
「気にします!」
この勢いだと口角に味噌を付けたり頬に米粒を付けたりしようものなら指先で摘んで「ぱくっ」とされるのではないかと果林は戦々恐々とした。
(そうだ)
「宗介さん」
「なんでしょう」
「どうして私はApaiserに行っちゃ駄目なんですか」
「それは」
「それは」
「それは木古内和寿さんとお会いするのも気まずいでしょうから」
「あぁ、そんなことですか!もう退職しているので問題ないですよ!」
「そうでしょうか」
「大丈夫です!」
宗介は味噌汁の椀をトレーに置くと箸を揃えた。
「どうしたんですか」
「果林さん、お願いします。もう2階には1人で行かないで下さい」
「でも私、Apaiserで働くんですよね」
「それまでには何とかしますから、お願いします」
そこで宗介の胸ポケットで携帯電話のバイブレーション音が響いた。
「失礼」
「あ、はい」
宗介は云々と頷き困った表情で溜め息を吐いた。
「申し訳ありません、急な来客で」
「あ、はい」
「これは」
「あ、トレーは片付けておきますね」
「ありがとうございます」
宗介は小さく手を振ると足早に社員食堂を後にした。
(宗介さんも色々とお仕事大変なんだ)
ふとそこで果林はジャケットのポケットに入れていた小町紅のコンパクトが無いことに気が付いた。もう一度手を手を入れて確かめたがその感触が無い。
(・・・・えっ、落としちゃった!?)
思い当たるとすればApaiserの屋外庭園で屈み込んだ時に落としたその可能性が高かった。果林は慌てて食事を済ますと2階へと降りるエレベーターに乗った。
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