Apaiser アペゼ

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Apaiser アペゼ

 果林は総務課で社員証を受け取り首から下げた。これで辻崎株式会社の一社員だ。Apaiser(アペゼ)企画室は3階にあった。 「本日から宜しくお願い致します」 「待っていたよ、果林ちゃん」 「う、うの、宇野、さん?」 「そう、覚えていてくれたんだね嬉しいなぁ。Apaiser(アペゼ)企画室部長の宇野です」  再び握手を求められた果林は「積極的な人だなぁ」とその面差しを見上げた。すると宇野は辻崎株式会社のアメリカ支店に出向していた経歴がありそれでスキンシップが多いのだと謝罪した。 (宇野さんってエリートなんだ) 「宗介とは同期なんだよ」 「あ、ああ、宗介さん」 「宗介から果林ちゃんの事をよく聞かされていてね。それでつい(ちゃん)付けで呼んでしまうんだけど嫌かな?」 「いえ、大丈夫です」 「気をつけるよ、ごめんね」 「はい」 (にしても、宗介さんと宇野さんは私のなにを話しているんだろう)  果林と宇野が並んで話し込んでいると眉間にシワを寄せた宗介がその間に割って入った。 「な、なんだよ宗介」 「なんでもない!」  同期の気軽さか宗介はいつになく感情をあらわにし、不機嫌な顔で書類を宇野の前に置いた。 「宗介さん、これが企画室ですか」  果林に話し掛けられた宗介は満面の笑みになりそちらへと向き直った。 「はい、ここがApaiser(アペゼ)の企画室です」 「意外と言うか、なんと言うか殺風景ですね」  企画室といってもスチールデスクが4つとパイプ椅子が6脚、ノートパソコン、大きなホワイトボードあとは壁紙や木材、布、革の見本が壁に掛けられているだけだ。 「これは何ですか?」 「これらはApaiser(アペゼ)の内装に使用される資材の見本です」 「色々な種類、それにいっぱいあるんですね!」 「ここからApaiser(アペゼ)のイメージに見合った物を選びます」 「そうなんですね」 「はい」 「あの、宗介さん、Apaiser(アペゼ)のお店はどこに出来るんですか?」  辻崎ビルで工事が行われているのは2階フロアchez tsujisaki(しぇ つじさき)の向かいしか思い付かない。宗介はスチールデスクに図面を開いてみせた。 「chez tsujisaki(しぇ つじさき)と同じ2階フロアです」 「工事中のあの場所ですか」 「そうです」 「同じ階にパティスリーが2店舗、大丈夫なんでしょうか?」 「その問題は近々解決します」 「はぁ」  宗介は果林を凝視した。 「果林さんApaiser(アペゼ)の意味はご存知ですか?」 「ごめんなさい、分かりません」 「フランス語でApaiser(アペゼ)」 「フランス語、素敵な響きですね」 「癒し、という意味です」 「Apaiser(アペゼ)は癒しですか」 「はい、コンセプトに合わせて幾つかの候補から絞りました」 「コンセプト、テーマですか」 「はい。コンセプトは果林さん、あなたをイメージして決定しました」 「・・・・・ええっ!?」  事の内訳はこうだ。chez tsujisaki(しぇ つじさき)を連日利用していた総務課部長や人事課部長は店舗の営業状況や客への接遇、メニューの質を調査しに訪れていた。そこで木古内和寿の暴言や菊代の無銭飲食、アルバイターとの関係など目に余る点は今後一掃し、優れた接遇、確かな調理技術の羽柴果林を残してApaiser(アペゼ)をオープンする運びとなった。 「果林さんのお客さまに対する姿勢は素晴らしい」 「ありがとうございます」 「作られるメニューも温かい味がします」 「照れますね」 「本当の事です」  宗介は壁に並んだ木材の見本を1枚、1枚と指差しながら話を続けた。 「果林さんはchez tsujisaki(しぇ つじさき)から引き抜かれたのです」 「引き抜かれた」 「あなたの温かな味はあの場所では活かされません」 「・・・・はい」  確かに、木古内和寿のその時々の気分に左右される劣悪な環境では客に満足な接遇をすることさえ許され無かった。 (なるほど!)  あの退職願はchez tsujisaki(しぇ つじさき)から引き抜くためだったのか!果林は自分に都合の良い解釈で宗介の好意を受け取ることにした。そこで横から宇野が口を挟んだ。 「これは羽柴さんの人生を左右しちゃうプロジェクトだよ」 「そ、そんな大きなプロジェクトなんですか!?」 「そうなんです。Apaiser(アペゼ)は果林さんのお店です」 「・・・・・え!?」 「現在の案では入り口はオープンテラスになる予定です」 「や、ちょっと待って下さい、私の店って意味が分かりませんが!」 「そのままの意味です」 「私がオーナーということですか?」 「オーナー兼パティシエールとして勤務して頂きたいです」 「そうなんだよ、頑張って」  果林は宇野に丸めた書類で肩を軽く叩かれたが突然の降って湧いた話に戸惑うばかりだった。
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