第七章 龍のいななき の巻

6/19
前へ
/239ページ
次へ
 男はすぐ近くの裏路地に積まれた樽の裏に隠れていた。犬千代は声をかける。 「あの? もし? どうしました?」 男は神道無念流の立居合の構えをしており、今にも刀を抜かん勢い。犬千代は殺気を感じ、孫六井伊に手を伸ばしながらも尋ねる。 「どう、しました?」 「お前も、新選組か?」 「新選組隊士、豊田犬千代である。こんな犬面(なり)はしているが、人だ。怖がらなくていい」 「尋ねさせてもらう。池田屋にて人を斬っていたか?」 池田屋の戦いは屍山血河そのもの、何人斬って何人捕まえたかなんて一々覚えちゃいない。 犬千代は軽い笑顔を向ける。 「覚えていない。だが、人は斬っている」 「そうか、その中に吉田さん…… 吉田稔麿はいたか?」 言わずと知れた過激派尊王志士の大物である。池田屋事件で命を散らした後になっても尊敬する者は多い。虎は死して皮を残すままに、彼の死は長州藩の尊王志士の心を一纏めにし、結束を促すのであった。 今現在、京の都に潜伏している長州藩士の中には吉田稔麿の敵討ちのために新選組を執拗に付け狙う者もいると言う。 犬千代始め、新選組の各隊が京都警護の時に遭遇する長州藩士の中には返り討ちにされた者は少なくない。 どうやら、こいつもその類のようだ。今日はどこの組にも他組織にも京都警護の予定は入れていない休日。休日に仕事をするのも良きかな。犬千代は長州藩士(?)と思しき男を斬ることにした。 「長州の者か。名を聞こう」 「長州藩奇兵隊は力士隊所属、伊藤俊輔」 先刻、沖田から聞いたばかりの名である。幕府が行った長州征伐の折に獅子奮迅と戦いしあの高杉晋作。その懐刀たる男がこの伊藤俊輔。斬らない手はない。 俊輔は犬千代の右手が孫六井伊にかかろうというところで、積まれていた樽を蹴り倒した。樽が雪崩落ちる中、俊輔は踵を返しての逃亡! 逃げの小五郎の従者だけあって、逃げ方も手慣れているとでも言うのか! 犬千代は舌打ちを放ちながら崩れた樽を踏みしだきながら俊輔を追いかける。
/239ページ

最初のコメントを投稿しよう!

6人が本棚に入れています
本棚に追加