狸の恩返し

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狸の恩返し

 繁華街の雑踏を乗り越え、細い路地に入り込む。    日の光もあまり届かない裏路地の一角に、場違いなほど小奇麗な新築のアパートが一軒あった。  その建物の一室に棲むのは、戦場迅(いくさばじん)と言う名の青年だ。大学生として一人暮らしをしながら、アルバイトで得た資金で生計を立てている。  高校時代の同級生とは未だに連絡を取り合う仲で、とりわけクラスメイトと隣のクラスにいた文芸部のメンバーとは、集まってマーダーミステリーと呼ばれるテーブルゲームやゲームセンターに遊びに行っている。そんな彼の密かな楽しみが、ひとりでじっくり取り組むテレビゲームだった。   将来はゲームに携わる仕事がしたい、と培ってきた知識をフル活用できるそのゲームの名は「夜想帝国」。夜想帝国と呼ばれる架空の世界を舞台にした、古代中国とも古代日本とも取れる古風な文化が色濃く出ている幻想RPGと銘打たれている。今日は「夜想帝国」の新しいエリアが解放される為、既にダウンロード版のパッチを予約購入していた。 「帰ったらインストールしている間にシャワって…あれ、何だ?」  アパートのすぐ側、地面に蹲る黒い何かを見つけ、迅はゆっくりと近づいた。猫のようにも見えるが、やや体の大きさが違うように思う。 「…ゴワゴワしてる毛並み…体は大きめ…たぬきだこれ…!」  しゃがんで狸らしき生き物を見つめ、迅は心配そうに指先でつついた。 「おーい。この辺車多いから、森におかえりよ」  狸は緩慢な動きで起き上がるが、見るからに腹を空かせているような悲しげな表情を浮かべている。元より動物好きな迅は、悩んだ末足早に自室へ向かう。野生動物とは言え、このままにしておく訳にもいかず苦肉の策で冷蔵庫を開けた。 「…狸って雑食だよな…」  冷蔵庫には焼き竹輪、鶏のささみ、胡瓜の浅漬けが入っているだけで、その中からささみの入ったトレイを手に取った。ゲームのことは一時だけ忘れ、トレイの外装を外し、狸の近くにささみを一本置く。匂いを嗅ぎつけた狸はムクリと身体を揺らして立ち上がり、ささみに食らいついた。 「余程腹減ってたんだな…これ食ったら森に帰れよ?」  トレイに入っていたささみを三本すべて食べ尽くしたのを見守り、迅はごみを手にようやく自室へ入ろうとした、その時。 「見つけました!夜想帝国にお招きします!」 「へ?」  突如聞こえた声に首を傾げる。声の主は現実的には考えられないが、唯一その場にいる狸だった。 「…何だって?」 「プレイヤー名、『閃光』の迅。あなたです」 「ばっ…なっっ…」  言葉にならない言葉を発しながら、迅は狸を呆然と見やる。いつの間にか後ろ足で立っていた狸は、両手にコインのようなものを持っていた。 「あなたの力が必要なのです、『閃光』の迅…いいえ、閃迅…すぐに夜想帝国へ来てください」 「いや、まぁ、インストールしたら行くけどよ…?」  コインを迅に差し出そうとしているのか、狸はよたよたと前進するが通路から物音がしたと同時にコインを手放してしまう。狸は一目散に草むらの中へと走って行ってしまい、残されたのは迅と一枚のコインだけ。物音の主はどうやら、野良猫か鼠のようだ。姿を見表さず、ガサガサと草の鳴る音も聞こえなくなった。 「なんだってんだ……」  迅は夢を見ているのだろうと自分に言い聞かせながら、コインを拾い上げる。  それが異世界への切符になるだろうとは、思いもせずに。
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