『罪人』閃迅

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『罪人』閃迅

 閃迅は我に返り、深く息を吸い込んだ。柔らかい絨毯は素足に優しく、数歩歩いてはまた立ち止まる。薄着でいる自分の格好を改めて見下ろし、次いで明るい場所で見る身体は暫く入浴していないと分かる程、薄汚れていることに気が付いた。そう思えば頭皮を掻きたくなり、たちまち背中も痒くなってくる。  身体を掻き毟り部屋を汚すわけにもいかず、座ろうにも落ち着かない状態でそわそわと待っていると寝所の扉が勢いよく開かれた。 「っ!」  そこにはバスタオルと白い浴衣のようなものを持った、皇帝晩猶が立っていた。先程まで着ていた甲冑のような格好ではなく、黒絹で織られた夜着に着替えている。 「来い。…湯殿に案内する」 「はっ、はい!」  渡りに舟だと思いながら、いそいそと晩猶に着いて行く。寝所を出て間もなく見えてきた扉を開くと、そこには湯気を立ち上らせる大きな風呂桶が置かれていた。 「凄い…!でっけぇ風呂だな!」 「…そうか?普通の大きさだが」  そう言いながら、徐に晩猶が身に着けている夜着を脱ぎだした。閃迅はぎょっとしつつ、自分も男なのだから緊張する必要はないのだと自分に言い聞かせる。しかし服を脱ごうとする指先が震えてしまい、衣服についた背中の留め具に手が回らない。 「…どうした?脱がしてやろうか」 「お、お願い…します……腕が回らなくて」  恥ずかしそうに背中を晩猶に向けると、彼は何も言わず閃迅が身に着けている衣服を脱がせていく。一枚一枚衣を剥がされていく度に、閃迅は顔を紅くした。 (こいつは男だぞ!何恥じらってんだよ…ああ、ちくしょう…)  たちまち裸になると、閃迅は自分の身体全体を見下ろした。両手首にはぐるりと囲む刺青が施され、首筋に触れられるとちりちり痛む。 「…貴様が罪人なのは違いないな。罪人には証となる焼き印を施すのが我が帝国の定め。赦せ」 「ああ、そうなんだろうとは思ってたけど…っ!」  晩猶に手首を掴まれ、引っ張り出された先には洗い場らしきものがあった。椅子に座らされ、晩猶がコックを捻るとシャワーから温かい湯が溢れてくる。それを全身に浴びながら、閃迅は目を瞑って心地良さそうに笑った。 「風呂桶に浸かる前に身体と髪を洗え」 「え、えっと…シャンプーとボディーソープは…」 「そのようなものはない。石鹸ならそこにあるだろう」  隣の風呂椅子に並んで座った晩猶に示され、閃迅は渋々石鹸を手に取る。湯に濡れるとたちまちやわらかな泡が溢れ出し、閃迅は慌てて髪に擦り付けた。    爽やかな柑橘系の匂いがするその石鹸は髪から顔、身体に至るまで洗える代物らしい。髪、そして頭皮を洗うとたちまち白い泡が黒く染まり、閃迅はゾッとしながらも泡を濯ぎ落す。一方晩猶は泡立てたスポンジのようなものを持ち、自身の身体を擦り洗っていた。ちらりと盗み見るように晩猶を見遣ると、彼の体中には無数の傷痕が残されており、歴戦の戦士であることを示していた。 「…あの、お背中流しましょうか…?」 「構わぬ。むしろおまえを洗ってやろう」 「い、いや!恐れ多いんで、大丈夫…」 「遠慮することはない。寝所と湯殿では身分など無いようなものだ」 「えっと、それは…」  閃迅が問い掛ける前に晩猶が立ち上がり、すすいで再び泡立てたスポンジを閃迅の背中に当てる。首筋で痛む火傷の痕には触れないようにしているのが分かり、彼の不器用な優しさに思わず笑みを零す。 「…まさか、皇帝のあんたに身体を洗って貰えるなんて思わなかったよ」 「フン、気まぐれだ。明日には突き放してるやも知れぬ」 「それでも良いさ。俺は罪人、あんたは皇帝…身分違いも甚だしいだろ?」  晩猶は無言でスポンジを閃迅の身体の前に持って来て、うすい胸元を擦る。閃迅は心臓が跳ねるような動悸に慌て、その手を止めようと苦戦した。 「ま、前は自分で洗えるって!そこはいいから、あんたは湯舟に…」 「いいから、両手を上げろ」 「ハイ」  閃迅は晩猶からスポンジを掴み取ろうとして、無駄に抵抗しない方が身の為かもしれないと力を緩めた。適度な力加減で身体を擦られ、正直に言ってしまうと今まで自分で身体を洗っていた時よりも断然気持がいいことに気付く。胸元から腰、腰から臀部と撫でられ、ぞわぞわと背筋を這い上がるようなその感覚は、今まで体感したことがないものだった。 「…あっ…そこ…気持ちいい…」 「こうか?」 「む、むり…あぁっ!ば、ばかっ、それはちが、」 「なんだコレは…おまえ、欲情しているのか?」 「うわぁぁぁ!その、違うから!ほら、身体流してくれ!」  閃迅は自分の急所を掠めるその感触に怖気が奔り、急いでシャワーのコックを捻る。石鹸には何かただならぬものが含まれているようで、頭がぼうっとしてしまっていたが次第に思考が鮮明になった。身体が火照り、動悸が激しくなる。閃迅の急所は緩く勃ち上がっており、泡が全て流れると余計にそれが露わになる。閃迅は冷静になろうと椅子から立ち上がり、急ぎ風呂桶に足を着けた。 (はぁ、あ、危なかった…危うく男の手コキでイくとこだった…)  「何を慌てているのだ?ニンゲンは良く分からぬな…」  閃迅の行動に首を傾げつつ、晩猶も自分の身体から泡を流す。次いで閃迅の後を追って風呂桶の縁に手をかけた。  広い風呂桶の隅に背中を向けて座る閃迅をちらりと見遣るが、すぐにその視線は風呂桶の底へと沈む。 「…何か、悪いことをしてしまったのなら謝ろう」 「えっ?」 「…おれの顔を真っ直ぐ見てくれた者は初めてでな…その、少し、嬉しかっただけだ」  閃迅が振り向くと、そこには誰もが平伏せる皇帝でも、恐れられている狼男でもないただ一人の男が寂し気に座っている。その姿に閃迅は咄嗟に彼の近くへ寄り、俯く顔に恐る恐る手を伸ばした。 「あ、あんたが悪いんじゃなくて…その…多分、俺が緊張しているからで…」  晩猶の頬を撫でながらしどろもどろに言葉を紡ぐ閃迅を、晩猶は金色の瞳でじっと見つめた。 「あ...あんたが知らないことを、俺が教えてやる。その代わり、俺が知らない事を教えてくれよ。俺は…あんたと…その…友達に、なりたいんだ。何も覚えていない罪人の俺を、こうして風呂に入れてくれるあんたとな」 「…閃迅、と言ったな。何と呼べばいい?」 「俺のことは迅、でいいよ。俺も晩猶って呼ぶって言っただろ?」 「よかろう、迅。今宵は少し窮屈だが、おれの寝台で寝るがいい」 「…へ?」 「客室の準備もままなっておらぬ。ならば、おれの部屋で寝るしかないだろう」  風呂桶から出る晩猶の身体(からだ)は、どこからどう見ても逞しく立派だった。そして晩猶はバスタオルのようなもので身体を拭き再び夜着を身に着けた。その背中を目で追い、閃迅は鼻先まで湯舟に浸かりぶくぶくと泡を立てる。 (…あー…どうしよう。本当に…惚れちまうだろが)  自分が元の世界に戻るためとは言えど、良心がチクリと痛む。寝室に戻る道を良く憶えていない事を思い出し、閃迅は湯舟から慌てて上がり晩猶の後を追い掛けた。
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