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ガイドになるのは山を熟知してから。まずはポーターからスタートだ。重い荷物を背負い、仲間と共に山道を登る。そこには、三年前から気まずい仲になったアイクがいた。彼も父と同じ道を選んだのだ。
歩いていると、谷間に沿って流れるトゥエルシ川が見える。揺れる吊り橋を渡るたびに、川の急流が足元で轟音をたてていた。橋にはプシャの祈り旗が飾られ、風に揺れている。
さらに高度を上げると、植生は低木や草に変わっていく。風が冷たくなり、息をするのが次第に苦しくなってきた。高山病に注意を払いながら進む。足元にはゴロゴロと小さな石が点在しているため踏んで転倒しないよう気をつけなければならない。
ベースキャンプまでの道のりは、途中にある宿泊施設で十分な休息をとりながら進むことになる。普通、登山者同行なら八日ほどかかるが、カリストは高度順応に有しているため、五日でベースキャンプに到着する予定。
ベースキャンプに近くなると道はさらに厳しさを増す。氷河の上を進み、足元には氷と岩が入り混じる。氷河の割れ目やクレバスを避けながら慎重に歩を進め、やっとベースキャンプに辿り着くのだ。
遠くに白く覆われた山頂が見える。その雄大なる景色に見惚れていると、先輩ポーターから声をかけられた。
「テントを設営するぞ!早くこい!」
既にベースキャンプ地には、他の登山者達のカラフルなテント群が点在している。強風にはためく祈りの旗。
テント設営と同時進行で行われるのが荷下ろしだ。必要な装備や物資を適切な場所に下ろし、寝袋やマット、食料などを整理。登山者が快適に過ごせるよう準備する。下山時の荷物も勿論ポーターが背負う。
僕はポーター業務を二年、ルート整備を一年間経て、やっとガイドになった。カリストの中でもガイドに志願する人は少数。なぜかと言うと登山者に対して、一番責任が重い立場だからだ。山頂に近くなるほど危険度は増してゆく。登山者の命はガイドが守らねばならないのだ。
登山者は毎年、多数この山に挑む。が、大多数が高山病や低体温などの理由で途中棄権を余儀なくされる。ガイドになってから三年、僕の担当した登山者は九名。うち、三名が山頂に立つことができた。これは異例なことのようで、僕はガイドとしてカリスト達から表彰された。
一年後、僕は登山者側からガイド指名を受けることになる。登山者の名前はロザリー、ウェルムス。名から察するに女性。エターナルクレストに女が挑むのは初めてのことだ。
「無茶だ!女が挑める山じゃない」
僕は仲介者に断った。だが、ロザリーは諦めが悪い人で、直接、僕に会いにきたのだ。
ブロンドのベリーショートに白い雪のような肌。瞳は晴天の空のように青い。彼女は僕と同じ年だった。
「厳しいことは百も承知しています。そのために世界各国の山に登り自身を鍛えてきました」
上手なプシャ語を話すロザリーは何度も頭を下げる。
「私は、父が制覇できなかったエターナルクレストにどうしても挑戦したい。そのためにはアナタが必要なんです!ガイドを引き受けて下さい。お願いします!」
結局、僕は彼女のガイドを引き受けた。決めてになったのはリマだ。ロザリーはリマを二倍支払うと言った。
カリストにはそれぞれチームがある。ガイドがチームのリーダー。このチームのリーダーは僕、副リーダーがアイクだ。僕の命令でポーター達は出発。後を追い、僕とアイク、ロザリー、登山パートナーのミシェルも出発した。
八日後、無事にベースキャンプに辿り着く。ここからが登山の始まり、と言っても過言ではない。テントで十分な休息をとった後、僕はこれからの予定をロザリーとミシェルに説明した。
「ここに数日滞在してから六千メートル付近に設営したキャンプ1(C1)まで登りベースまで下山。この往復を二週間ほど繰り返します」
ミシェルが首を傾げる。
「二週間もですか?」
「そうです。まずは高度順応を果たすことから始めましょう」
「高度順応はしていると思います。身体に異変はありません」
「その言葉はC1に到着してから言って下さい」
ロザリーと同じブロンドの髪を揺らして吐き捨てるよう、ミシェルが何か言った。外国語なので分からないが、おそらく『二週間もかけなくても私達は登れる』そう言いたいのだろう。
「あの外国女、世界一高い山をなめている」
テントから出ると、アイクはそう言って唾を吐き捨てた。
後日、天候と体調を見極めベースキャンプを出発。まずはC1を目指して歩く。
間もなくニカ・アイスフォールと呼ばれる地帯に到着。ここは急峻な氷の滝で、巨大な氷のブロック(セラック)やクレバスが点在している危険ゾーン。毎年異なった地形になるためストックを先に差し入れ慎重に進む必要がある。氷の崩落やクレバスへの転落リスクが高く、早朝の冷え込んだ時間帯に渡るのが一般的だ。
大きなクレバスに到着。これから設置されている梯子を渡らなければならない。梯子の幅は約三十センチ。氷に固定された命綱がある。
僕はロザリーとミシェルの腰回りのハーネスが命綱に接続されていることを確認。
靴底にはアイゼンが装着されている。
アイゼンとは、氷や雪上を安全に歩くための金属製のギザギザしたスパイクだ。先にアイクが渡り手本を見せる。ガイドは何度も梯子を渡っているので慣れたもの。彼はフラつきもせず、あっという間に梯子を渡る。
次はロザリーの番。僕は彼女に声をかけた。
「いいか、足はフラットに置け。そしてハンドライン(固定ロープ)にしっかり捕まりピッケルでバランスを取りながらゆっくり一歩いっぽ進むんだ」
「はっ、はい」
震える足を踏み出すロザリー。途中までは順調。だが、彼女は立ち止まりハンドラインから手を放す。そしてゴーグルを上げた。瞬間、グラリとバランスを崩し真下に消えてしまう。落下だ。
「ぎゃああーっ!!」
甲高い悲鳴が谷間に響く。だが大丈夫。フィックスロープ(命綱)により宙吊りになっている状態。でもロザリーはパニックに陥り両足をバタバタさせていた。
「ハハッ」
半笑いのアイク。
僕は慌てて梯子の中央まで歩を進めると彼女に手を差し出した。
「落ち着けロザリー!命綱があるから落下しない!」
「いやああーっ!死にたくない!」
下ばかりに顔を向け、上を見ようとしないロザリーに僕は怒号した。
「こんなんじゃサミット(頂上)まで、とても無理だぞ!」
「あっ……」
やっと顔を上げる彼女。その顔は叱られた後の幼女のよう。僕は緩く微笑んだ。
「大丈夫!深呼吸をして」
「はっ、はい」
「落ちついて、僕の手を掴むんだ」
「はい」
なんとか引き上げ成功。渡り終えてから僕はロザリーに聞いた。
「なぜ、途中でゴーグルを外したの?」
「視界が悪いと思ったんです」
「いいか、ここから先クレバスは何ヶ所もある。いくつも梯子を渡らないといけないんだ。もう絶対にハンドラインから手を放してはダメだよ」
「はい、すみません」
僕は再び戻りミシェルに梯子を渡るよう呼びかける。だが、彼女はロザリーの落下がショックだったようで、しゃがんで震えていた。続行不可能と判断。仕方なく、その日はベースキャンプに戻ることにした。
結局、C1に辿り着けたのは、それから一週間後のこと。更にニ週間が経過。やっとC2まで標高を上げたが、酷い高山病にロザリーもミシェルも苦しめられることになる。
ニ週間が経過。彼女達にとって山頂はまだまだ遠かった。ベースキャンプのテント内、温かい紅茶を飲みながらロザリーがポツリ呟いた。
「やっぱり私じゃ無理なのかな……」
僕はコックの調理した肉料理をテーブルに置く。そして言った。
「もう、何日まともに食べてない?」
ロザリーは僕に顔を上げる。
「四日ぐらいでしょうか。食欲がなくて」
ミシェルも同じ。覇気のない表情で皿に乗った白パンをじっと見つめている。
「無理してでも食べて体力をつけなきゃ登山は無理だ。分かってるよね?」
「はい」
「ハッキリ言って君達では無理だ。諦めた方がいい」
刹那、ロザリーの顔が歪んだ。
「諦めたくない」
「それは、お父さんが制覇できなかった山だから?」
「そうです。でも理由はもう一つある」
「もう一つ?」
「はい。アナタと一緒に登りたかった」
「僕と?なぜ?」
「アナタのお父様が父の命の恩人だからです」
「プラダ……まさか、父を知ってるの?」
「カーティス、マコーニの友人。ジョルジュと言えば分かるでしょうか?」
カーティス、彼は僕がガイドになるまで金銭的援助をしてくれた人。ジョルジュ、ああ……まさか。
「父がロープを切って助けた登山家……」
「そうです。ジョルジュ、ウェルムス、私の父です」
続いてミシェルが口を開く。
「私はカーティスの娘、ミシェル、マコーニよ」
立って両腕を組んでいたアイクが両目を見開いた。
「お前達が、カーティスとジョルジュの娘」
アイクは「チッ」と舌を打ちテントを去ってゆく。彼の心境は複雑なはず。それは僕だって同じだからだ。
ミシェルが言った。
「あの日以来、父は山に登っていない。家族より山だった父が、大好きな山から目を背けて生きてきたの。私はこれでいいと思ってた。だって、いつも家にいてくれるから。でも、父は笑わなくなった。いつもどこか寂しそうにしてるの」
ロザリーの涙声。
「うちの父も一緒よ。あの日以来、塞ぎ込んでしまった。口にするのはプラダとチタに申し訳ない。そればかり」
過去への懺悔。カーティスもジョルジュも、あの日で時を止めていた。一歩も前に踏み出せないでいるのだ。
そのことをアイクに話すと、彼はこう言った。
「苦しめばいい」
とにかく、このままの状態では登山どころではない。二日経過、僕は二人に諦めるよう説得を試みる。だが、二人は答えの変わりにパンにかぶりついた。肉料理も残さず平らげる。
徐々に体力を戻して行くロザリーとミシェルに負け、僕は続行を決断。C1、C2へと高度を上げていった。
強風で揺れるテント内。温かい紅茶を飲みながら二人と語り合う。家族のこと、友達のこと、趣味など、彼女達は楽しそうに色んなことを話した。仏頂面だったアイクにも次第に笑顔が見られるようになる。
登山は命がけの高い壁。それを共に力を合わせて乗り越えるのだから友情が芽生えて当然だ。
ベースキャンプに入ってから一か月半後、僕らはいよいよ、山頂アタックに向けた一歩を踏み出すことになる。
無事を祈り、四人でプシャの神に祈りを捧げた。
山頂から戻ったガイド達と情報交換も忘れない。ガイドは言った。
「山頂下にあるマイナ、ステップのロープが古くなっていたので取り替えたよ」
マイナステップとは、山頂下にある約十二メートルの垂直に近い岩壁だ。強風や極寒の中での高度なクライミング技術が求められる難所。登山者はこの急な岩場を越える必要がある。
「で、古いロープを掴んだリカルドが滑落した」
「リカルドが?」
リカルドはベテランガイド。僕は息を飲んだ。
「見つけたのか?」
「マイナステップから滑落したんだぞ。見つかるわけがない。サミット目前で引き返してきた」
つまり、彼は死んだということ。他のガイドからの情報も入る。雪崩れにより、別の登山チームは全滅。ビーコン(位置を特定するための装置)の作動も確認できない。
「救助隊を要請したが、生きてはいないだろう」
ガイドは俯きながら嘆く。
標高八千メートルの高所では、低酸素状態や極端な寒さのため、救助隊による遺体回収が難しい。二百体ほどの遺体が雪や氷に埋もれ、腐敗することなく残されているのが現状だ。
この情報を伝えずとも、二人はカラフルなウェアーを着た蝋人形のようになった遺体を見るだろう。
ベースキャンプを出発しC1に到着。休息を取りC2へ。だいぶ梯子にも慣れてきたようで危なげなくクリア。高山病も、登山に支障がないほど軽い。
僕はC2のテント内で二人に告げる。
「早朝、C3へ向けて出発する。ここから先、君達にとっては未知な世界。覚悟はいい?」
「「はい!」」
力強く頷く二人。
C2からC3の登山道は、登頂の過程で技術的にも体力的にも最も厳しい区間の一つ。高度約六千七百メートルから始まり、ほぼ垂直に近い氷壁が数百メートル続いているのだ。固定ロープが設置されているため、それを使って登ることになるが体力と技術が問われる難所。
もう一点、それは酸素が極端に薄くなることだ。高山病や疲労が深刻になり、大抵の登山者は体力と気力を奪われ挫折する。男がだ、彼女達は女性。
僕は、二人に酸素ボンベ開始の選択を下す。背負う重量は重くなるが、酸素不足の方が心配だからだ。
天候を見てC2を出発。四人をしっかりとザイルで繋ぎ、氷壁を見上げた。
「登るには、しっかりとしたアイゼン技術とロープワークのスキルが求めらる。大丈夫か?」
答えるロザリー。
「学んで、何回も練習してきました。大丈夫です!」
先に僕が手本を見せる。次にロザリー、ミシェル、アイクと続いた。
練習を積んだだけあり、二人とも上手に壁を昇ってくる。だが、壁を昇りきる手前で天候が変化した。空は厚雲で覆われ風が容赦なく吹きつける。
先に登頂した僕は、風の音に負けないよう大声で二人に声をかけた。
「もう少しだ!頑張れ!!」
二人からの返事はない。そんな余裕はないのだろう。アイクの声が下から聞こえる。
「頑張れ!負けるな!」
やっとのことで壁を昇りきるや否や、二人は雪上に崩れるように倒れ込む。
「大丈夫?」
ロザリーに問うと、彼女は酸素マスクを外し頼りない笑みを見せた。ミシェルにはアイクが声かけをしている。彼女も大丈夫そう。二人の根性は並の男以上みたいだ。
C3は、氷壁のわずかな平坦地にテントを設営してある。爆風で吹き飛ばされそうなテント内。僕達は携帯食を食べ、寝袋で寄り添いながら睡眠をとった。
翌朝、事前に用意されている酸素ボンベを交換。C3からはガイドの僕達も酸素を使わないと厳しい。人間の高度順応は七千メートルくらいが限界。つまりC3が限界ってわけだ。
出発前、僕は彼女達に言った。
「これより先は、生物が存在できない世界になる。標高八千メートルより上を皆は死の地帯、デスゾーンと呼んでいるんだ」
「デスゾーン……」
ロザリーが不安気に呟くと、ミシェルが彼女の肩を叩いた。
「大丈夫!ここまで辿り着いた私達なら超えられる!」
「うん」
頷くロザリー。
「それに私達には頼れるガイドが二人もいるしね」
(頼れる)
僕とアイクは視線を合わせ顔を背け合う。互いに父を亡くしてからのわだかまりが、解けぬ氷塊のように残っているからだ。
天候、雪や氷のコンディションを確認後、僕達はC3を出発した。この区域は、傾斜角度が四十度から五十度の急勾配の氷壁を登ることで構成されている。固定ロープを使いながら上昇。ロープをクリップしながら、ピッケルやアイゼンを使って慎重に登ってゆく。
途中、ミシェルが酷い頭痛を訴えたため小休憩し薬を飲ませた。多分、脳浮腫だろう。だが、そんなに休んではいられない。何が起きてもおかしくないエリアだからだ。気象変化、強風や突然の雪崩が発生する可能性。特に風速が強まると体温低下や凍傷のリスクが高まってしまう。また、酸素の欠乏により思考力や判断力が低下してしまうのも心配だ。
皆で力を合わせ、標高七千九百メートルのC4に到着。ここが最後の休息地点になる。テントでしっかりと身体を休めることが大切。食欲はないのが普通。ロザリーとミシェルには無理しない程度の栄養補給を指示した。
僕とアイクは天候を確認。降雪はないが風は少し強め。でも彼女達の体力が限界に近づいているため山頂アタックを決断した。去年から無線という機械が導入されベースキャンプと連絡が取れるようになった。僕は無線でアタックを報告。ベースには救助チームが待機している。救助の班長からの返事は「楽しんで」だった。
夜明け前、装備品のチェックを行う。山頂アタック時のバッグパックは、必要最低限にしなくてはならない。酸素ボンベは一本四キロ。それを二本背負うからだ。四人を繋ぐザイルの確認終了後、僕達はC4を出発した。
周囲は真っ暗。凍りつくような寒さをヘッドランプが灯す。聞こえるのは、風の音と雪に差し込むアイゼンのザクッザクッという音。個人差はあるが、片道八時間から十二時間の道のりだ。マイナステップまでは緩やかな斜面が続く。
あまりにロザリーがキツそうだったので僕は尋ねた。
「もしかして予備の酸素ボンベをバッグパックに入れた?」
「いえ、入れてません。大丈夫です」
「なら良いけど」
後、少しでマイナステップという時、アイクが足を止めた。
「すまない。マイナステップの前に用を足して良いか?」
ふっと嫌な予感が過ぎる。だが、僕は
「ああ、そうだな」と頷いた。
ロザリーとミシェルは大丈夫だと言ったので、僕らは繋ぐ順番を入れ替え足跡のついた登山道から外れた。順番は先頭がアイク、僕、ロザリー、ミシェルになった。
「この地帯は隠れたクレバスがあるから気をつけろよ」
「分かってるよ」
瞬間、ザッという短い音が聞こえた。それと同時に、ザイルが引っ張られ強烈な力で前方に引き倒される。
クレバス落下。脳は瞬時に判断した。だがピッケルを雪に差し込む暇なく身体が無情に引き寄せられ制御不能に陥る。
息を呑む間も許さず、身体は一気に深い闇へと引きずり込まれた。風が耳元でうなる音。アイゼンが氷壁に擦れる音だけが響く。周囲の視界が回転した記憶を最後に何もかもが黒く染まった。
「うっ、ぐっ!」
どのぐらいの時間が経過したのだろう?気がついたのは全身を貫く痛みだった。パニックで、どこが痛むのか判断できない状況下、僕は(落ちつけ、落ちつけ)と自分に言い聞かせた。まずは今の状況確認だ。身体を固定しているハーネスが食い込み腰と太腿が痛い。ヘルメットは飛ばされ周囲は暗闇だが、ザイルは上へと続いている。ぶら下がっている状態。ミシェルかロザリーがピッケルを突き刺し落下を止めたようだ。
上から声が聞こえた。
「みんな、大丈夫!」
ミシェルの声。僕は顔を上げる。何も見えない闇に叫んだ。
「アンカーは?」
「その声はランね!やっと声が聞けた!大丈夫、設置したわ!」
「落下してからどのぐらいの時間が過ぎた?」
「多分、二時間ぐらい」
とりあえず命は繋ぎ止めたってわけだ。
「ロザリーは?」
「落ちた!」
「ミシェルからロザリーは見えるか?」
「ヘッドランプで照らすと赤いヘルメットが見える。ロザリーよ!」
「おい、ロザリー!無事か?」
僕とミシェルで懸命に呼びかけるも返事はない。気を失っているようだ。下にいるはずのアイクにも声をかけるが反応はなし。僕は無線で救助を要請した。
「待ってて、今、引き上げるから!」
再びミシェルの声。僕は叫んだ。
「それは無理だ!僕が自力で昇るからそれまで待つんだ」
「分かった!」
ピッケルは落下時に手放してしまった。僕はバックパックから短いロープを取り出し輪を作る。手袋のせいか、指が震えているせいなのか、時間をかけプルージックノットを試みる。が、輪に足をかけ体重をかけた途端、とんでもない激痛が走った。右足、左足、どちらも同じ状態。多分、骨折している。
その時、アイクの声がした。
「うぐっ」
「アイク、気がついたか?」
「これは、どんな状況だ?」
「クレバスに落下した」
少しの沈黙の後「悪い、俺の不注意だ」アイクは低い声でそう言った。
「アイク、ピッケルは?」
「ない」
「プルージックノット……」
「もう、作った。今から上がる」
だが、直後に悲痛な叫び声が聞こえた。
「くそっ!両足が石になったようにいうことを聞かない!」
骨折か凍傷か。とにかく自力で昇ることは不可能なようだ。
下からアイクの声。
「救助要請は?」
「したが、早くて一日かかる。天候が悪ければもっとだ」
「もう、何時間ここにいる?」
「二時間ちょいだ」
「酸素……もたないな」
「ああ……荷を軽くするため、酸素ボンベは二本しか持ってきてないからな」
「ロザリーは?」
「落下した。気を失っている」
上からミシェルが叫ぶ。
「酸素ボンベ、予備を一本持ってます!」
「えっ!」
「怒られると思って黙ってましが、ロザリーと私、バックパックにボンベ三本入れてます!」
これは嬉しい予想外だ。酸素流量を低流量にすれば一本で十時間は使用可能。だが、酸素流量を減らせば高山病悪化は免れない。加えて低体温や凍傷のリスクが伴う。彼女達は女性だ。この極寒に何時間も耐えられるわけがない。
僕は呟いた。
「いつ天候が悪化するか分からない。彼女達は、一刻も早くC4まで避難して救助を待つのが得策だ」
「ああ、その通りだ」
アイクの声の後、視線を上に向けると、薄い光がクレバスの縁を頼りなく照らしている。夜明けだ。
再びアイクの声が響いた。
「ラン、ザイルを切れ」
「分かってる」
僕は既に登山ナイフを手に握っている。最後、ミシェルに叫んだ。
「ミシェル、ロザリーだけならお前の力で引き上げられるな?」
「なっ、なにを言ってるの?まさか……」
「ロザリーを連れC4まで引き返し救助を待て!これはリーダー命令だ!」
「待ってよ!そんなこと言わないで!これじゃあ、アナタのお父さんやパパ達と一緒じゃない!」
「父さんと一緒……か」アイクの声が聞こえる。
「今なら、君の父の気持ちが分かる。責めて悪かった。長年、苦しませてごめんな」
「アイク……」
ゴーグルの中に涙が溜まる。僕はナイフを握る手に力を込めた。だが、その時「だめええーーっ!!」という絶叫が氷壁を突き刺した。
視界を振り上げる。そこには赤い両足をバタバタと動かしているロザリーがいた。
「ザイルを切ったら許さない!切るなら私も一緒に落ちるから!」
「ロザリー!」
叫んだのはミシェルだ。
「ミシェル、待ってて!プルージックノットで昇るから」
「ロザリー!ああ……良かった」
ロザリーは手早くロープで輪を作り、徐々にだが上昇してゆく。見る限り怪我はしていないようだ。最後、彼女は氷壁にアイゼンを差し込み、ミシェルの差し出した手を掴んだ。
だが、どうやって男二人を引き上げる?
縁から僕を見下ろすロザリー。彼女は勝ち誇ったように叫んだ。
「私、ダブルプーリーを持ってる!」
ダブルプーリーとは引き上げる滑車装置のことだ。普通は救助隊が持っているものだが。
「父さんのように悔やみたくない!だから予備酸素と一緒に持ってきたの!」
ああ、なんてことだ。
ロザリーとミシェルは安全の高いアンカーを設置。複数の滑車装置を取り出し、ザイルに取り付ける。まずはシングルプーリーでザイルを通し、さらにダブルプーリーを連結させた。
この作業工程の音を僕は知っている。ポーター時代、救助チームにもいたことがあるからだ。
滑車装置が設置されると、手動のホイストを使ってザイルを引き始める。滑車の中を通るロープはスムーズに流れ、摩擦を最小限に抑えていた。引き上げる力がかかるたびに、ザイルが徐々に伸び、身体が少しずつ引き上げられていく。
クレバスは真っ直ぐではなく凹凸があるので、滑車装置の位置やロープの張り具合を微調整する必要があったが、訓練したのだろう、彼女達により僕らは無事に引き上げられた。
動けない僕とアイクは、そのまま救助を待つことになったが、予備の酸素を四人で少しずつ順番に吸い、励まし合った。酸素残量が終わる頃、救助隊が到着。なんとか生還を果たすことになる。
その後、アイクは両足骨折と凍傷により右手の人差し指と中指を切断。足の指も三本失った。僕は全身打撲、腰と両足骨折。凍傷は免れた。
ロザリーとミシェルは低体温、後は凍傷だったが軽かったため切断せずにすんだ。女性なので良かったと心から思う。
四人共、首都の病院に入院した。病室では、アイクの母、僕の母が泣きじゃくっていたっけ。
「もう、カリストはやめて!」そればかり呪文のように繰り返した。
カーティスさんとジョルジュさんも見舞いにきてくれた。二人とも酷く泣いていたので、僕とアイクはこう言った。
「僕達の父は正しかった。それを証明してくれるのはカーティスさんとジョルジュさんしかいません。もし父達に償うとしたら、二人が元気で前に進むこと。それしかないと思います」
ジョルジュさんはこう尋ねてきた。
「我々に、もう一度、エターナルクレストに挑む資格があると思うかい?」
僕はアイクと微笑み合った後、元気に答える。
「僕とアイクにガイドをさせてくれるのなら、ありますよ」
母には泣かれたが、僕はこの仕事が天職だと思っているので続けるつもりだ。アイクも同じ。
五年後。
雪と氷に覆われた尖った形状。周囲の山々も平伏してしまうほど際立つ山。その山頂に、今、僕は立っている。
横にはカーティスさん、その横には義足をつけたジョルジュさん。アイクは酸素マスクを外して雄叫びをあげている。彼はいつも元気だ。そんなアイクには村で帰りを待つ妻がいる。
再び叫ぶアイク。
「ミシェル!すぐ帰るぞおおーっ!」
そう、ミシェルとアイクは結婚して二年になる。ミシェルは今回の登山に同行する予定だったが、急遽、断念した。腹にアイクの子が宿ったからだ。
「ああ〜、この景色が見れないなんてミシェルが可哀想」
強風に揺れるプシャの旗に祈りを捧げながら妻が嘆いたので僕は彼女の肩を抱いた。
「ロザリー、またくれば良いよ」
「ランったら、ここをどこだと思ってるの?そんな気軽に言わないで」
「ははっ」
だが、僕にとったらここが職場。雲海が広がるこの絶景、僕は後、何回見渡せるだろうか?
登山家を虜にする残酷な山、父が眠る慕情の山、エターナルクレスト。
君は今日もこの場所に聳え立つ。つくづく思うが、見上げても見下ろしても、君は偉大だ。
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